第50話

「ねぇ、いつになったら敬語じゃなくなるの?」


 夏の暑さもすっかり消え去った秋のことだった。学園外れの紫陽花の庭園――その東屋で、アレスがどこか不機嫌そうに隣に座るエレンに問いかけた。

 花が枯れ、葉も落ち始めた庭園を訪れる人はほとんどいない。この物寂しい庭園は、貴賓室以外でエレンとアレスが会える、数少ない場所だった。


「えっ?」


 唐突な質問に、教科書を広げていたエレンは困惑の声を零す。アレスは頬杖を突いて、半眼でエレンを見た。


「なんかよそよそしいじゃん、敬語って。エレン、別に素が敬語ってわけでもないでしょ? なんか距離を置かれてるみたいで寂しい」

「そんなことは……でも、殿下は殿下ですし……」

「それ」


 思わず口澱んでしまったエレンの鼻先に、アレスはビシリと人差し指を突きつける。


「殿下呼び禁止。名前で呼んでって言ってるじゃん。告白の時はあんなに熱烈に名前、呼んでくれたのに」

「そ、それは……!」


 夏の夜に彼に思いを明かした時のことを思い出し、エレンは思わず赤面する。


 エレンは今まで二度、アレスを名前で呼んだことがある。

 初めて会った時と、思いを打ち明けた時。一度目はアレスに名前でいいと言われ素直に従ってしまい、二度目は王子ではなく『彼』が好きだと伝えるために。

 エレンだって叶うものなら、彼を名前で呼びたいとは思う。けれど――


「でも、その……『ボロ』が出そうで……」


 普段からアレスを『殿下』として意識していないと、うっかり人前で『アレス様』と呼んでしまいそうで怖いのだ。


 アレスは問題ないと言ってくれてはいるが、王国の第二王子と、孤児院上がりの帝国の男爵令嬢。二人が恋仲だなんて、スキャンダル以外の何物でもない。バレたら大騒ぎされるのは確実だった。

 だからこそ、こうして人目を忍んで逢瀬を重ねているのだが。


「ふーん……」


 困り果てるエレンをアレスはしげしげと眺める。そうしてそっと、気付かれぬようにエレンの腰に手を回し――


「そんな強情なエレンには……こうだ!」

「ひゃあっ!?」


 アレスは突如として、エレンの脇腹を擽り始めた。


「な、何する……あ、ははは! ひゃ! や、やめてくださ……」

「いーやーだ。やめない。エレンが態度を改めるまで続けます」

「もう、なんでそんな……ふふ、いひゃっ!」


 アレスの巧みな指使いに、エレンは涙目になって笑い転げた。逃げようにも逃げる隙がない。東屋のベンチに崩れるように寝そべり、ギブアップとばかりに手を上げるが、アレスの追撃は止まない。その内に呼吸が苦しくなってきて、


「も、もう! いい加減にしてっ!」


 エレンはとうとう堪忍袋の緒を切らして立ち上がった。

 半ば酸欠で首から耳まで真っ赤にしながら、手をくすぐりの形にしたままのアレスを見下ろす。


「やめてって言ってるでしょ! 人の嫌がることはしちゃいけないって、お姉ちゃん教えたよね? 約束を守れない悪い子はおやつ抜きだからね! 分かったらごめんなさいして――」


 とそこまで勢いでまくし立て、エレンはハッと我に返った。

 目の前を見れば、アレスがによによと面白そうな笑みを浮かべてエレンを見ている。


 ――やってしまった。

 孤児院の『エレ姉』モードを発動させてしまったエレンは、脳内で蹲って頭を抱える。


「ええと、これはその、昔の、孤児院でよく子供たちを叱っていた時の癖というか……」

「エレンお姉ちゃん」

「ち、違います! 間違いです! 変な呼び方しないで!」

「僕はおやつ抜き?」

「面白がって乗らないでください!」


 わーんと、擽られた涙も乾かないうちに、エレンは泣きべそをかきそうになる。そんなエレンの手を、アレスは優しく掬う。


「いいんだよ。僕はエレンに関しては『悪い子』な自信があるから」


 そう言ってエレンを引き寄せたアレスはストンと、自身の膝の上にエレンを座らせる。


「で、殿――」


 殿下。そう言おうとしたエレンの唇に人差し指を当てて、アレスはエレンの言葉を封じる。

 それからアレスはふふと笑った。


「面白いものが見れた。やっぱり怒らせて正解だったな。エレンは取り繕うのが本当、下手なんだから」


 その楽しげな笑みにエレンは咄嗟に視線を逸らし、けれどチラリともう一度見て、やっぱり直視できなくて。


「……そんなに、下手ですか……下手かな?」


 観念したエレンは、おずおずと尋ねた。

 急に敬語を抜こうとして変な言葉遣いになってしまったエレンに、アレスがクスリと笑う。


「うん、それはもう。初めて会った時から、ずっと」


 その答えに、エレンはがーんとショックを受ける。

 男爵令嬢として恥じぬように。完璧とはいかなくともそれなりの振る舞いを心がけてきたつもりだったが、どうやらその努力は功を成さなかったらしい。

 所詮、蛙の子は蛙という事だろうか。今まで会った他の貴族の方々にも失礼を働いていたらどうしよう――と、徒労感と不安感に項垂れるエレンに優しく笑んで、アレスが顔を寄せる。


「でもいいんだよ」


 そうしてチュッと音を立てて、ごく自然にこめかみにキスを落とすものだから、エレンはまた小さな悲鳴を上げてしまう。

 そんなエレンに満足げに笑んで。


「僕はそういう、素直で無防備なエレンを好きになったんだから」


 アレスが告げる。

 それは、遠い遠い記憶――



   *



 むせ返るような雨の香りに、エレンは目を覚ました。


「起きた?」


 途端、降ってきたアレスの声にエレンは思い出す。

 そうだ。確か今は試験期間中で、その間の休日で。試験勉強も必要なくなったエレンは、紫陽花の庭の東屋でアレスとのんびりと過ごしていたのだ。


「ごめんなさい。わたし、寝ちゃって……」


 本を読むアレスの肩に寄り掛かって眠ってしまっていたエレンは、眠い目を擦りながら身体を起こそうとする。しかしアレスがその肩を掴んで、再び自身に寄り掛からせた。


「いいよ。ずっと気を張ってて、疲れてるんだろう。それに……死に戻りの負担もあるだろう」


 その言葉に、エレンはまた思い出す。『今回』は彼に、死に戻りを話したのだった。


「…………」


 エレンはアレスに体重を預けたまま、じっと雨に打たれる紫陽花たちを見ていた。起き上がらなきゃと頭の片隅では思うのに、身体が動いてくれない。


 まるで心に重い鉛が溜っているようだった。

 その鉛は、死に戻りを重ねる度に、少しずつ蓄積されていう。

 このまままではいつか、死に戻ったときの息苦しさに囚われて、暗い水底に沈んで浮かんでこられなくなってしまうのではないか――そんなことさえ考える。


「エレン……?」


 きゅっと、いつの間にかエレンは、アレスの服を握っていた。縋り付くように、額をこすりつける。

 そんなエレンを抱き締め返し、アレスは呟く。


「ごめん」


 けれどエレンは、彼が何に謝っているのか分からなかった。


「ごめん。何度も死に戻らせてしまって、一人で。なのに、ごめん。僕は嬉しいんだ。エレンが僕を想って、僕のために頑張ってくれていることが。――最低だ」


 再三度謝られて、それでエレンはようやく、彼が何に対して申し訳なく思っているのか気付く。

 エレンはふるふると首を振った。


 ――そんなことない。わたしが自分で選んでやっていることだ、と。


 エレンはそっと、彼の背に手を回した。

 広い背だった。エレンとは肩幅も筋肉の付き方も全然違う。逞しくて、頼りがいのある背。

 その背が、ふるりと震えた気がした。

 エレンをきつく抱いて、声を絞り出すようにアレスが囁く。


「僕は死にたくない。僕は生きたい。エレンを残して死ぬなんて、嫌だ」


 けれど、そう言ってくれたアレスも死んだ。

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