第47話

 蒸し暑い夏の日の夜だった。

 コンコンと何かが窓を叩く音で、エレンは目を覚ました。

 時刻は深夜。眠い目をこすりながら、エレンはベッドから身を起こす。そして振り返り――


「で、殿下!?」


 室内の熱気を逃がすために、薄らと開けたままだった上げ下げ窓。

 その外側で、アレスが笑顔で手をひらひらと振っていた。


「殿下、どうしてここに、どうやって……」


 ここは寮の三階なのに、と思いながら慌てて窓に駆け寄ったエレンは、窓辺に腕を組むアレスの足下を見て口を噤む。アレスの足下には風が渦巻き、その向こうに見える裏庭の景色が歪んで見えた。

 ――浮遊魔法。


「ま、ちょっとね」


 アレスは事も無げに言って、エレンが窓を持ち上げるのを手伝う。窓は立て付けが悪くて、開けるのに少し苦労した。


 浮遊魔法を扱うのはそう簡単ではない。風――大気を操ること自体はそう難しくないのだが、空気の圧縮や、人の体重を支えられるだけのバランスが維持するのには精緻な技術が必要とされており、風魔法使いの中でも使えるのはごく一部の人間に限られるとされているのだ。


 エレンは火が専門であるため詳しくないが、学生のうちから扱えるものではないというのは、なんとなく分かる。

 それをこうも易々と使ってみせるとは――

 目を白黒させるエレンの前で、アレスはひょいっと開けた窓枠に腰を掛ける。


「さっき王国からこっちに戻ってきてね。なんとなく顔が見たくなって、来ちゃった」


 そうはにかんで、「ところで」と。


「暑いのは分かるけど、女の子が窓に鍵も掛けないのは不用心すぎない? 僕が悪い人だったらどうするの?」

「め、滅相もございません……」


 真っ当な指摘に、エレンは身体の前で手を合わせて身を縮める。それからおずおずと。

「で、でも殿下は、その……悪い人ではない、と思うので……」


 呟いたエレンに、アレスがぐっと言葉に詰まった。口元を手で隠し、明後日の方向を見る。


「そ、そうだね……部屋に入れてとかはさすがに言わないからさ。ま、まぁ安心してよ」


 互いに目が合わせられず、それから無言の時間が流れる。

 静かだった。夏の虫が、どこかで鳴いている。けれどその声も遠い。


 エレンの心臓はドキドキしっぱなしだった。その音が聞こえてしまうんじゃないかと思うと、余計にドキドキする。脳裏では、先程のアレスの言葉がぐるぐると駆け巡っていた。


『なんとなく顔が見たくなって、来ちゃった』


 こんな夜中に――長旅で疲れているはずなのに。それでも、そんなにもエレンに会いたいと思ってくれたのだろうか。

 そう思うと、余計に心臓が高鳴る。


 窓枠に腰を掛けたまま、アレスは横目でエレンを窺う。けれどそれ以上は部屋に踏み込もうとせず、手を伸ばそうともしない。


 エレンは寝間着で、アレスは男子で、ここは女子寮で、エレンの部屋だ。

 子女の部屋に、しかもこんな夜中に踏み込まないだけの分別を、彼は持ち合わせている。


 けれど――けれどあと一歩。手を伸ばせば届く距離にいるのに、伸ばせない。

 その僅かな距離が、エレンはもどかしいと。そう思ってしまった。


(でも、わたしは――)


 自身の立場を考え、エレンはきゅっと胸元で手を握る。それでも――


「あ、あの!」

「ん?」

「今、下に降りるので! あの……ま、待っててくださいますか……?」


 抑えきれない気持ちが、口元からまろび出る。

 そんなエレンにアレスは一度目を丸くして、


「――もちろん」


 それからふわりと、心から嬉しそうに微笑んだ。

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