第42話

 試験明け。梅雨の合間の晴れの日だった。


「……っ」


 訓練場で『的』代わりに立たされていたエレンは、頬を掠めていった風の刃に身を竦めた。

 不可視の刃で切られた髪が数本宙に舞って、地に落ちる。フィールドの反対側に立つ男子生徒たちは、エレンのその怯えた様子にぎゃはははと声を上げて笑った。


「おいおい、外すなよ。へったくそだなぁ~」

「うるせぇ、そういうならお前もやってみろよ」

「えー? 俺は火属性専門だしなぁ。ま、ドレッセルが髪をアフロにしたいって言うなら、よろこんで練習台にさせてもらうんだけど」


 といって再び下品な笑い声を上げる。

 するとその後ろの観客席から、厳しい声が飛んだ。


「あなたたち、もっとしっかりと狙いなさいな。折角、。それに、どうせその子は魔法を消せるのです。当たることはありませんわ」


 声の主――マリアンネはそう言って高笑いを響かせる。


 消せるのではなく、魔法を『焼く』のだが。それに魔法を焼くためには、魔法という存在をしっかりと認識し捉えなくてはいけないため、風のように目に見えない魔法は〈灰焔〉でも対処しにくい。

 と内心で思うが、言っても彼女が聞く耳を持つとは思えないので、エレンは口を噤む。


 そうしている間に、どうやら次弾の準備ができたらしい。男子生徒が手を前方に構える。

 繰り出される攻撃の刃を、エレンはバレない程度に――本当に当たりそうになった攻撃だけを燃やしていく。

 しかし一向にエレンに当たらないことに業を煮やしたのだろう。


「あーうざってぇ!」


 それまで小さな刃ばかりを作っていた男子生徒が、周囲の空気をかき集めて圧縮させていく。

 やばい。その三文字が脳裏をよぎり、エレンは咄嗟に駆け出した。

 しかし二歩目を踏み出したところで足が滑ってしまい、雨上がりの水たまりにバシャリと倒れ込んでしまう。

 巨大な風の刃は頭上を通り過ぎて行き、後には静寂と、泥まみれになったエレンが残った。


「ぎゃはははは! なんだそれ!」

「だっさ! そこでコケるかよフツー!」


 男子生徒の笑い声に交じって、マリアンネの取り巻きからクスクスと含み笑いが聞こえる。


「まぁ汚らしい。まさしく『ドブネズミ』ですわね。ちょっとそこのあなた、折角だから綺麗に洗って差し上げなさいな」

「はいはーい」


 命じられるがまま、男子生徒がエレンの頭上に水塊を出現させ――ざばっと。まるで滝のような水がエレンに降り注いだ。

 全身ずぶ濡れになったエレンを見て、また笑い声が上がる。

 しかし、笑いは徐々に引いていった。


 一向に立ち上がらず、泣き喚くわけでもなく、抵抗の意思を示すわけではない。そんなエレンは彼らに『つまらない』のだ。

 それは入学からの二ヶ月で、既に学んだ。

 男子生徒は次第に飽きた様子を示し始め、別の場所に行くことを相談し始める。そうしてエレンを虐めていた実行役がいなくなってしまえば、マリアンネたち女子も興ざめだ。


「ふん、まぁ今日の『訓練』はこのくらいにしておいてあげますわ。そうそう。その泥々の制服で明日登校したら、教室で丸裸にしますから。ちゃんと身だしなみは整えておくことですわね。貴族令嬢として。オーホッホッホッホッ」


 そう高笑いを響かせながら、マリアンネと取り巻きたちは去って行く。

 しかしエレンはその場から動かなかった。

 ――動けなかった、という方が正しいのかもしれない。


 男爵家に冷遇されているエレンが持っている制服はこの一着のみ。この泥だらけの服をどうしようかとか、明日もまた『訓練』されるのかなとか、色んなことが脳裏に浮かんでは消える。なんだか、考えるのも面倒だった。


 エレンに手が差し伸べられたのは、そんな諦念が胸中を満たした時だった。


「大丈夫?」

「あ……」


 駆け寄ってきた彼――アレスが心配そうな眼差しを向けながら、エレンの手を掬い上げた。


「え、えと、はい……大丈夫で、いたっ」


 彼の手に引かれ、立ち上がる。その瞬間、左足首に激痛が走った。

 それを彼は見逃さなかった。


「足? くじいたの?」

「い、いえ大丈夫で……」

「じゃないだろ」

「ひゃあ!!」


 そう言って彼は、ずぶ濡れで泥だらけのエレンを横抱きに抱えた。そのままスタスタと歩き始める。


「あっ、あの殿下、服が汚れて……」

「あれ? 前は名前で呼んでくれたのに。もう呼んでくれないの?」

「そ、それは……その。やっぱり失礼かなって思って……」

「えー、気にしないのに」


 そんな謎の攻防を繰り広げているうちに、彼が留学中借りているという貴賓室に連れて行かれる。彼はエレンを暖炉前のソファに座らせた。


「さて、と」


 エレンの服に手を掛けるアレス。


「で、殿下!?」

「濡れたままじゃ冷えるでしょ。それに泥だらけだし。今、替えの制服を用意させるから。ローレンツ」

「はい」


 アレスに呼ばれ、壁際に控えていた青年が隣室に消える。突然の第三者の存在に、エレンは目を見開いてローレンツという青年の背を凝視してしまった。一体いつから部屋にいたのだろ。

 その間にエレンは上着を脱がされ、胸元のリボンを解かれ、とうとうシャツとスカート姿になる。ふるりと身体を震えさせると、アレスが自身の制服をエレンに肩に掛けた。


「とりあえず被ってて。――失礼するよ」


 断り一つ入れて、その場に跪いたアレスは、エレンのブーツを脱がせる。いつの間にか戻ってきたローレンツが、サイドテーブルに救急箱を置いていった。

 アレスはエレンの左足を自身の膝に載せ、慣れた様子で黙々と手当てしていく。

 その丁寧で優しい手つきに、気付けばエレンは口を開いていた。


「殿下は……殿下はわたしが、怖くないんですか?」

「……どうして?」


 一拍おいて、アレスは質問に質問で返した。目は手元を見たまま。けれど優しい声音で、エレンは一瞬たじろいだ。


「……みんな、わたしを怖がります。わたしにツラく当たる人たちや、マリアンネさまも……本当は、きっと。わたしが規格外で、固有魔法持ちだから……」


 彼らは身分が低いながらも稀有な力を持っているエレンを、快く思っていない。

 その根底にあるのは、恐怖だ。


 分からないから、排除したくなる。怖いから、自分より下なのだと――支配下にあるのだと思って、安心したい。多分それはマリアンネたち以外の、表立ってエレンに当たらない人たちもそうだ。

 だからエレンはずっと不思議だったのだ。


 どうして手を差し伸べてくれたんですか。どうしてこんな風に優しく接してくれるのですか――と。


 アレスは再びエレンに問いかけた。


「君は僕を害そうとしているのかい?」

「違っ、そんなことないです!」


 あり得るわけがない。そう慌てて即答するエレンに、アレスはクスリと微笑む。


「じゃあ問題ない」


 そう言ってのけるアレスに、エレンは驚いて目を丸くした。


「君が僕を消し炭にしようと思えば、今すぐに、それこそ一瞬でできるだろう。でも僕の目には、君がそんなことをするような人物には見えない」


 だから大丈夫、と。

 確信ともに言い切って、アレスは巻き終わった包帯をピンで留める。


「その上で君が考えてるであろう疑問に答えるなら……そうだな。あえて言うなら、放っておけないから、かな」


 その応えに、エレンはきょとんとして首を傾げた。


「放っておけない……ですか?」

「だってそうだろ?」


 彼はにやりと口の端を吊り上げてエレンを見る。


「君だって、道端で会った子犬がずぶ濡れで怪我してたら、助けるだろ?」

「なっ……!」


 そのたとえに、エレンは思わず抗議した。


「こ、子犬って……!」

「あぁでも、犬って感じではないかな。でも猫って感じもしないし……ウサギか、リスか、ハムスターか……」

「どんどん小さくなってるじゃないですか!」


 思わずツッコんだエレンに、クスリと微笑むアレス。

 その笑みに、エレンの心臓がドキリと跳ねた。

 アレスが悪戯な視線をエレンに向ける。


「怒るときはそういう感じなんだ。可愛い」


 そうしてさらりとそんなことを言うものだから、エレンは真っ赤になって俯いた。

 そんなエレンを見て、


「あ、悪い。つい……」


 言ってから気付いたように口元を隠すものだから、エレンは一層身を縮こまらせるしかなかった。


 ――アレスはエレンを怖がりもしなければ、出自を理由に評価したりもしなかった。

 彼は徹頭徹尾、最初から最後まで『エレン』を見ていた。


 惹かれるのに、時間はかからなかった。

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