第43話

 アレスは王子としての立場を悪くしないためか、表立っていじめっ子を止めることはなかったが、怪我をしたエレンには必ず手を差し伸べてくれた。

 そんなことが何回か続いた、ある日だった。


「……どうして逆らわないんだ?」


 いつものように貴賓室でエレンの手当をしながら、アレスはそう尋ねた。

 その日のエレンの傷は、両手両足の切り傷だった。いつも通りに魔法の練習台にされたのだが、不意を突かれ攻撃をいなしきれず、一つ当たったらみんな当たってしまったのだ。殺傷力が高くなかったのが、幸いだったが。


 そんなエレンの足をいつかように自身の膝に載せ、アレスは丁寧に手当てしてくれていた。しかし尋ねた彼の声は、どこか不機嫌そうだった。


「その……『お友達』なので」

「あんなものは友達と呼ばないだろう」


 苦笑したエレンに、ぴしゃりと言い放つ。エレンは一層眉尻を下げた。


「……わたしは男爵家の人間ですから、仕方ないんです」

「仕方なくない」


 返ってきた声は少し苛立っていて、エレンはどう説明したらいいか悩んだ。


「……わたし、元は孤児なんです」


 考えた末に、エレンはそう切り出した。

 孤児院の出であること、才能を見込まれ男爵家に引き取られたこと。男爵家のおかげでユヴェーレンに通えていること。それから帝国貴族として名を上げることを期待されていること。エレンはそれらを順に話していった。


「プレッシャーを感じるときもあります。でも旦那様には目をかけていただいた恩義もありますし……そ、それに、頑張ったらいつか孤児院のみんなに、美味しいものをいっぱい食べさせてあげられるかもしれないから……」


 そう言ってエレンは曖昧に笑う。


「だから……平気なんです」


 けれどそう呟いたエレンの手は、いつの間にか震えていて。


「平気じゃないだろ」


 その手をアレスは優しく握った。

 エレンを見つめる。まるで姫君に跪くように、床に膝を突いて。その瞳はまるで痛みに耐えるように苦痛の色を湛えていて、エレンはどうして、と思わず思ってしまった。

 どうしてあなたがそんな顔をするの――と。


「頑張ってるよ、君は、十分。この学校には入れたのだってちゃんと、君が頑張って勉強したからだろ?」


 だから、と悲しげに笑んで。


「つらいことはつらいって、言っていいんだ」


 その瞬間、ポロリと。エレンの双眸から、透明な雫が溢れて零れた。


「え、エレン!?」


 突然の涙にアレスが驚き、慌てふためく。


「どうしたの、僕何か悪いことを言って――」

「ち、違うんです! 嬉しくて……そんな風に言ってくれる人、今でいなかったので」


 空いている手で目元を拭う。滲んだ視界に映るアレスはすごく心配そうな顔をしていて。

 エレンにはそれが、なんだかすごくおかしかった。


「……ありがとうございます。殿下」


 口元に自然と微笑が浮かぶ。

 そんなエレンに、アレスがそっと手を伸ばした。

 エレンの目元を親指の腹で拭って、涙を掬い、



「――好きだ」



 ぽつり。彼が発した言葉に、エレンは頭が真っ白になった。


「……へ?」


 思わず間抜けな声が、エレンの口から零れ落ちる。


 すき? 隙? 鋤?

 彼は今、『すき』と言った?

 ――誰を?


「えっと、その、それは、どういう――」

「言葉の通りだよ。エレン。君を一人の女性として、好いている。僕の恋人になってほしい」


 そのあまりにも率直な告白に、エレンはボンッと頭から湯気を出して真っ赤になった。あたふたと、ただ困惑することしかできない。


「な、なんでわたしなんか――」

「なんか、じゃないよ」


 アレスは掴んだままだったエレンの手を持ち上げると、その指先にそっと口づけを落とした。驚いてエレンが手を引っ込めると、今度は膝の上に載せていた素足を手に取り、身をかがめる。

 膝、脛、足の甲。そして爪先へと、順番にキスを落としていった。


「んっ……」


 そのくすぐったさに、思わずエレンは声を漏らしてしまう。咄嗟に口を押さえると、そんなエレンを上目に見て、アレスは優しく笑んだ。


「好きだと思った。だから伝えた。君と恋人になりたいから。……ダメ?」


 彼はそう言って、エレンの素足にまた唇を触れさせる。

 そんな汚いところを――なんて、思う余裕もなかった。


「っ、だ、ダメというか――」

「僕のことは嫌い?」

「ひゃ……っ」


 アレスが親指で、足をするりと撫でる。自分の物とは違うざらざらとした指の感触に、声が零れる。優しいけれど、先程までの手当の時とは違う手つき。

 エレンを見るアレスの瞳は、獲物を前にした狩人のような、鋭い色を帯びていた。


「っ……嫌いだなんて、そんな……!」


 エレンはくすぐったさに身悶えしながら、必死に首を振った。

 嫌いだなんて、あり得るわけがない。いつも助けてもらって、嫌いになれるわけがない。けれど――


 アレスはじっと、エレンの答えを待っていた。

 エレンはそんな彼の瞳を見ていられなくなって、視線を逸らした。

 胸の前で手を組み合わせ、打ち明ける。


「……よく、分からないんです」

「分からない?」

「その……恋愛が、どういう気持ちなのか……」


 生まれてから十五年。エレンの人生は、色恋とは無縁の人生だったといっても過言ではない。

 日々の生活に手一杯だった孤児院時代。毎日を怯えて過ごした男爵家時代。精一杯だったのは、魔法学校に入学してからも同じだ。

 だから、物語の中で恋愛がどういうものかは知っていても、誰かを特別に好きという気持ちが、エレンにはよく分からなかった。

 そんなエレンに、アレスは目を丸くする。そして目を瞬かせること数度。


「そっか……ふふ、そっかそっか」


 何故かアレスは、突然笑みを浮かべた。それにエレンが首を傾げる隙もない。アレスは身を伸ばすと、未だ涙が乾ききっていないエレンの目尻に触れるだけのキスを落とした。


「ひゃ」


 小さな悲鳴を上げるエレンに、アレスはペロリと唇を舐めて、笑みを深める。


「これは、落とし甲斐がありそうだ」


 楽しげにそう宣言するアレスに、エレンは一層赤くなるしかなかった。



   *



「ッ、はぁ、はぁ……!」


 息苦しさと共に目を覚ます。すぐさまベッドサイドに置いていた懐中時計を確認。日時は試験前日の早朝。

 前回と同じスタート地点だった。


 エレンはすぐさま着替えて男子寮へ向かった。柱の傍で待っていると、前回と同じようにアレスがローレンツと共に現れる。

 その首は、ちゃんと繋がっている。


「あれ、エレン。どうした――」


 どうしたの、と。エレンに気付いたアレスが言い終わるよりも早く、エレンはアレスに抱きついた。


「え、エレン!?」


 驚くアレスを、エレンはぎゅっと抱き締めた。

 ――大丈夫。アレスは生きている。ここにいる。

 エレンはパッと顔を上げ、真剣な眼差しでアレスを見る。


「アレス、話があるの」

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