第41話

 試験最終日。最後の試験が終わるや否や、エレンは勢いよく席を立った。


「エレン、よかったらこの後なんだけど――」

「ごめん、ヴィー! 買い物はまた今度ね!」


 そう言い残して、エレンは慌ただしく教室を出て行く。

 その背を見送って――


「それはいいけど……なんであたしが買い物に誘うって分かったの?」


 ルドヴィカは一人きょとんと、首を傾げた。





「はぁ、はぁ……」


 息を切らして、エレンは廊下を走っていた。

 向かうのはもちろん、アレスの貴賓室。

 この日、この時間。アレスはエレンより一コマ早く試験を終え、ローレンツと貴賓室で過ごしていた。そしてエレンが来るまでの一時間弱の間に、何者かによって殺された。

 ――でも今回は、その未来が既に分かっている。

 状況は、前回と同じではない。


(どうか、無事でいて……!)


 祈るような心地で、必死に広い校内を駆け抜けていく。

 やがて辿り着いた貴賓室。その扉に手を掛けて――ギンッと。

 剣戟の音が、耳に響いた。


「アレスっ!?」


 扉を開け放つ。途端、目に入ってきたのは剣と剣が打ち合わされる激しい火花だった。

 アレスが長剣を手に、襲い来るローブの襲撃者の双剣を受け止めていた。

 室内はその激しい攻防を物語るように無残に荒らされ、上等な家具には無数の切り傷が突いている。部屋の奥では、ローレンツが二人の襲撃者から繰り出される猛攻を必死に防いでいた。


 相手はフード付きのローブを目深に被っていて、性別すら分からない。しかしその動きからは、騎士のような覇気は感じなかった。まるで影のような――暗闇で生きることに慣れ親しんでいるかのように、その存在感は薄い。


 ――暗殺者。アレスたちを殺した、犯人。


「っ……!」


 エレンが部屋の中に踏み込もうとする。その瞬間だった。


「来るな!」


 アレスの鋭い制止が、エレンを打った。

 ビクリと身体を震えさせて、エレンは反射的に足を止めてしまう。

 その間も剣戟の音は絶え間なくなり響き、アレスは歯を食いしばりながら相手の猛攻を防いでいる。エレンはただその剣裁きを見つめることしかできなかった。


〈灰焔〉が発動出来る一瞬の隙があれば――なんて。かつてそんな事を考えた自分が愚かだった。

 曲がりなりにも、戦場に身を置いていたのだ。エレンにも分かる。


 エレンが立ち入る隙などどこにもない。下手にエレンが介入したら――一瞬でもアレスが集中力を途切れさせたら、その瞬間に負ける。

 そんな、激しい攻防だった。


 敵を見たまま、アレスが苦し紛れに呟く。


「っ……、エレン。人を呼ぶんだ」

「でも、でも……!」


 その間にアレスが殺されてしまったら。

 脳裏をよぎる前回の結末――アレスの遺体に、足が竦む。

 そんなエレンに向かって、アレスが声を張り上げる。


「早く! !!」


 その言葉の意味を、エレンは理解した。


「――っ!」


 弾かれたように、身を翻す。部屋の外へ、助けを求めて。

 けれどその瞬間、アレスと相対していた襲撃者がエレンを見た。

 ローブの隙間から、金色の瞳が覗く。

 そして、


「エレンっっっ!!」

「え……?」


 襲撃者が暗闇に金の瞳を光らせて、床を蹴った。

 跳躍。散らばった家具を一足飛びに越えて、背を向けたエレンに剣を振りかぶる。

 呆然と、エレンは迫り来る刃を眺めることしか出来なくて――


「ぐっ……!?」


 その一太刀は、エレンに覆い被さったアレスの背を深々と抉った。


「アレス!!」

「殿下! くそ!!」


 エレンとローレンツの悲鳴じみた声が木霊する。けれどローレンツは二人がかりの猛攻を防ぐのに精一杯で、アレスに近づくこともできない。


「っ、水よ……守れ」


 大量の脂汗を流しながら、アレスが魔法を発動させる。どこからともなく現れた水は分厚い膜となってエレンとアレスを覆い、周囲に水弾を撒き散らす。近づく者を無差別に攻撃する、防御魔法の一種だった。

 崩れ落ちるように、アレスが床に膝を突く。


「アレス!」

「逃げろ、エレン……」


 激痛に顔を歪めながらアレスが命じる。エレンは涙を滲ませながら、ゆるゆると首を振った。

 嫌だ。アレスを置いて逃げるなんて嫌だ。あなたが死ぬところなんて、もう見たくない。

 そう思うのに――


「無理だ、今回は、もう……だから――『頼む』」


 アレスが告げるその一言に、エレンは思わず呟いた。


「……ずるい」


 いつもいつも、アレスはずるい。

 普段はエレンが頼ってばかりで、エレンには何も頼ってくれないのに。


 こんな時だけ、エレンを頼りにするのだ。


 エレンは両手で顔を覆った。その隙間から、堪えきれなかった涙が零れ落ちる。

 アレスは女神の短剣を鞘から抜いた。それを、エレンの手の上にそっと載せる。

 それからフッと微笑む。二人を覆っていた水の膜が、まるで噴水が引くかのように崩れ去る。


「……愛してるよ、エレン」


 そして直後、閃いた銀色の刃が、アレスの首を跳ね飛ばした。

 ゴトリと重い音を立てて、彼の首から上が床に転がる。

 微笑みを携えたその顔はどこまでも穏やかで――


「いやああああああああああああああああああっ!!」


 エレンは絶叫した。



   *



 ざわざわ。ざわざわ。


「何事ですか!」


 一週目と同じように、エレンの悲鳴を聞きつけて集まった生徒たち。その人波を掻き分けて、メヒティルト立ち教師陣が貴賓室へと踏み込んでくる。

 エレンが悲鳴を上げて数秒。敵は人目に付くことを恐れてか、エレンを殺さずに、部屋の奥のサンルームから姿を消した。

 部屋の隅では、片腕を失ったローレンツが壁に背を預けて座り込んでいた。しかしピクリとも動く気配はない。多分、血を流しすぎて、もう事切れているのだろう。


「なっ、これは……」


 部屋の惨状を、そしてその中で蹲るエレンを見て、教師たちが絶句する。


 エレンはアレスの首を抱えて、じっと座り込んでいた。


 その頬を流れる涙はない。

 傍らには、淡く虹色に輝く女神の短剣。

 それを呆然と見つめ――それからエレンは、アレスの頭をそっと床に横たえた。


「……戻らなくちゃ」


 両手で短剣を握る。


「戻らなくちゃ」

「ドレッセル!!」


 教師や生徒の悲鳴を置き去りにして、エレンは短剣を自らの首に突き刺した。

 躊躇いなどなかった。

 アレスを助けられるのは、エレンしかいないのだから。

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