第二章 アレス暗殺編

第37話

 彼と初めて会ったのは、入学して間もない頃だった。



「わたくしと殿下の話に割り入るとは何様のつもりですか、男爵家風情が!」


 移動教室の最中だった。

 ジークハルトを見つけ、熱心に彼を口説き始めたマリアンネに、エレンは『そろそろ行かないと遅れてしまう』と進言した。

 遅刻したらマリアンネの評判に関わる。そう思ってのことだったが、その不用意な発言はマリアンネの怒りを買った。


 激昂と共に振り抜かれた手が頬を打ち、エレンはそのまま床に倒れ込んだ。抑えた頬が、じんじんと痛む。そこでようやくエレンに気付いたとばかりに、ジークハルトが不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「なんだ。汚いのがいると思ったら、お前が例の固有魔法使いか」


 彼はそう言って、頭のてっぺんから爪先までエレンをじろじろと眺め、吐き捨てた。


「ハッ。噂通りの禍々しい赤髪だ。まるで血のようだな」


 その時だった。



「血だなんてセンスがないなぁ。真っ赤なリンゴみたいで綺麗じゃないか」



 涼やかな声が飛び込んできて、エレンの前に手が差し伸べられた。

 反射的に、ゆっくりと顔を上げ――そこに、アレスがいた。


 彼は二言三言を交わして、ジークハルトとマリアンネたちをその場から立ち去らせた。それからエレンの手を掬い、静かに立ち上がらせた。


「大丈夫?」

「は、はい……」


 繋いだ手の温度にドキドキしながら、エレンは応える。廊下の窓から差し込む陽の光が彼の銀髪にきらきらと反射していて、まるで星屑のように綺麗だった。

 お礼を言わなくては。そう思ってエレンは口を開いて――


「ありがとうございます、えと……ノイエシュタット第二王子殿かっ」


 ――噛んだ。

 気まずい沈黙が、二人の間に漂った。

 その数秒後だった。


「ぷっ、あはははは」


 耐えきれないとばかりに笑い始めた彼に、エレンは慌てて頭を下げた。


「す、すみません、すみません……あ、じゃ、じゃなくて、ご無礼を大変申し訳ございません。ノイエシュタット第二王子殿下。どうか寛大なお心でお許しいただけると――」

「あぁいや、ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだ。まさかそこで噛むなんて思わなくて。ふふ、ふふふ」


 ぺこぺこと謝罪を繰り返すエレンに、彼が手を上げて待ったをかける。しかしツボに入ったのか彼の笑いはなかなか収まらない。


「今度はちゃんと言えたね」


 しまいには涙目でそうからかってくるものだから、エレンはついカッと頬を赤らめた。両手を身体の前で合わせ、恥ずかしさに萎縮する。


「あー笑った笑った。安心してよ、呼び方一つでそんなに怒らないから」

「も、申し訳ございません……不慣れなもので」


 そう釈明すればもう一度彼がクスクスと笑うので、エレンは更に居たたまれなくなった。顔が熱い。恥ずかしい。穴があったら入りたいとは、まさにこういうことを言うのだろう。

 しかし、そんな風に羞恥に染まるエレンを見て、彼はフッと表情を和らげた。


「アレスでいいよ」

「え?」

「長いだろ? ちゃんと呼ぼうとすると。僕もそんな長ったらしく呼ばれるの、めんどくさいし。名前で呼んでよ」

「でも……」

「いいから。ね?」


 ――どうしよう。

 悩んだ末に、エレンはおずおずと口を開いた。


「……アレス、殿下?」

「殿下もなしでいいよ」

「えっ」

「君、どうやら貴族社会に慣れてないみたいだし。その方が楽だろ?」


 アレスは首を傾げて微笑んでみせる。これにはさすがのエレンも困惑した。

 隣国の王子を敬称もなしでなんて、不敬ではないだろうか。男爵家、それも元孤児のエレンからしてみたら、王族なんて殿上人のような存在だ。でも本人が言っていることだし、でも立場はわきまえるべきでは――


 ちらりと窺い見れば、彼はさぁ呼んでみろ言わんばかりに、胸を張って待ち構えている。けれどエレンを見る蒼い瞳は、どこまでも優しい色をしていた。

 葛藤すること数秒。結論から言えば――エレンは負けた。


「ではお言葉に甘えて……ありがとうございます。――アレス様」


 そう言って、ふわり。苦笑気味に、はにかむ。

 ――呼び方一つ。

 けれどそんな小さな心遣いが、エレンには嬉しくて。

 そのエレンの微笑に――何故だか彼は、気恥ずかしげに口元を隠した。


「あー、いや。いいよ。そんな感謝されるほどのことじゃ……うん、そっか」

「どうかしました?」

「えっ、いや、うん。なんでもないよ。本当、なんでもない」

「?」


 どこか狼狽えた様子で、明後日の方向を見る。

 そんなアレスに、エレンはただ首を傾げた。



   *



 息苦しさと共に、エレンは目を覚ました。


「ッ、はぁ、はぁ……」


 跳ね起きて、肩で息をする。吸って吐いて、喘ぐように空気を求める。

 あたりを見回せば、そこは見慣れた女子寮の自室だった。

 まだ日が登り切っていないのか、部屋の中は薄暗い。


(戻った……?)


 恐る恐る、首元に手を伸ばす。そこに、短剣で掻き切った傷はない。顎の下から喉まで、つるりとした肌の感触が指に伝わる。

 エレンは慌ててベッドサイドのチェストに手を伸ばした。その上に置いてあった、懐中時計を確認する。


 針が示した日付は――緑の月の下旬。定期試験の前日だった。

 以前は十歳まで死に戻ったが、どうやら今回は違うらしい。


 見下ろした手を、握って開く。それを何回か繰り返していると、ようやく実感が湧いてくる。

 エレンは過去に戻った。記憶もちゃんとある。

 ――貴賓室で見たアレスの死を、エレンは覚えている。


(アレス……!)


 こうしちゃいられないとエレンは毛布をはね除けて、急いで身支度を調える。エレンは勢いそのまま、部屋を飛び出した。

 男子寮と校舎を結ぶ渡り廊下。その柱の傍に佇んで、じっと待つ。

 やがて日が昇り、生徒たちが登校し始める。通り過ぎる男子生徒たちが、ちらちらとエレンを見ていく。しかしそんな不躾な視線も、無遠慮な囁き声もエレンには届いていなかった。


 始業時間が近づき、寮から出てくる生徒も次第に増えていく。その時だった。

 アレスが、ローレンツと共に寮から現れた。


「……っ」


 欠伸を噛み殺しながら、隣に並ぶローレンツと他愛のない会話をしている。その様子に、エレンの中から熱い物が込み上げる。


 ――生きてる。

 アレスが、生きてる。


「あれ、エレン?」


 そこで、アレスがエレンに気付いて目を丸くした。

 エレンに近づきながら、気さくに手を上げる。


「おはよう、エレン。どうしたの、わざわざ男子寮の方に来るなんて……エレン?」


 瞬間、エレンの目からぽろりと涙が零れた。


「エレン!?」


 突然泣き始めたエレンに、アレスがうろたえる。


「どうしたの、エレン。何かあったの?」

「違うの……何も、ないの。まだ……」

「まだ?」


 アレスが怪訝そうに眉を顰め、エレンの肩に手を置く。その手が温かくて、エレンの目からまた涙が零れた。

 泣いている場合じゃないのに。そう思うのに涙は一向に止まってくれなかった。


 アレスが生きてる。おはようって言ってくれた。何気ない挨拶一つなのに、それがエレンにはどうしようもなく嬉しかった。

 同時に、安堵した。


「よかった……よかった、アレスが生きてて……よかった」


 その呟きに、アレスがハッと気付く。


「エレン、もしかして君は……『戻った』のか?」


 震える声で尋ねる。その問いに――

 エレンはこくんと、小さく頷いた。

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