第36話
試験期間は慌ただしく過ぎていった。
「やっと終わったぁ~!」
「お疲れ様、ヴィー」
「エレンもね。お疲れ様」
一週間に及ぶ試験の最終日。最後の科目もなんとか乗り越えたエレンとルドヴィカは、互いを労い、手を小さくタッチさせた。
教室内を見回せば、試験から解放された生徒たちが次々と教室を出て行く。時計の針は正午を少し回ったばかりだった。みなこれから昼食を取りに行ったり、遊びに行ったりするのだろう。
その考えはルドヴィカも同じだったらしい。
「ね、エレン。この後は暇? よかったら街に買い物に行かない?」
「あ、えっと……」
まさか誘われるとは思っておらず、エレンは咄嗟に言葉に詰まってしまう。
「先約?」
「っていうわけじゃないんだけど、アレスのところに行こうかなって……」
はにかみながらそう答えたエレンに、ルドヴィカが「ははーん」と細めた目をキラリと光らせる。
「なるほどね。試験期間中、全然会ってなかったものね。なるほどなるほど、エレンも人並みに寂しかったってわけね。なるほどなるほど。そういうことなら早く言いなさいよ、まったく」
「そ、そんなことは……」
「あるでしょ、もう! あたしのことは構わないから、存分にイチャイチャしていらっしゃい!」
「イチャイチャって、ちが……!」
否定しようとしたエレンの背をぐいぐいと押し、教室の外へ追い出すルドヴィカ。そのまま無言でひらひらと手を振るルドヴィカに見送られ、エレンは教室を後にせざるを得なかった。
(確かに一週間ずっと会ってなかったけど……けど!)
けどあんなにいい笑顔で、更に教室中の視線を浴びながらアレスの元へ行くのは、恥ずかしいにもほどがあった。
はぁ、と嘆息一つ。
もう過ぎてしまったことは仕方ない。エレンは気を取り直して、貴賓室へと向かった。
試験自体は五日間、毎日午前中で終わる。故に会おうと思えば午後の時間で会えるのだが、翌日の試験に備えて、二人は会うのを控えていた。エレンが勉強に集中したかったというのもあるし、さすがのアレスも前日ぐらいは勉強するのだろう――と思う。エレンもそんなアレスの邪魔をしたいわけではなかった。
そんなこんなで、会うのは実に先週末以来。貴賓室に来るのも久しぶりだった。
男子寮にも自分の部屋はあるだろうに、アレスはよくこの部屋で過ごしている。というのも多分、男子寮ではエレンが入ってこられないからだろう。
会えるときは、いつでも会えるように。
そんな些細な気遣いが、エレンには嬉しい。
(アレス、いるかな)
胸を高鳴らせながら、エレンはドアノブに手を掛ける。案の定、鍵はかかっておらず、扉はゆっくりと開いて――
鼻をついた鉄さびの臭いに、エレンは動きを止めた。
「え……?」
なんで。
そんな疑問が、鎌首をもたげる。
覚えのある臭い。
何度嗅いでも、嗅ぎ慣れない。
初めて嗅いだときは、あまりの臭気に吐いたほど。
それでもその臭いは、常にエレンのすぐ傍にあった。
――血の臭い。
かつて戦場で嫌と言うほど嗅いだその臭いが、部屋中に充満していた。
「アレス……?」
暗い部屋をおそるおそる進む。
嘘であってほしい。夢であってほしい。そんなことを願いながら、一歩、一歩、進んで――
ぴちゃり。
ブーツが、赤く湿った絨毯を踏む。
「ア、レス……?」
火を付けるにはまだ早い暖炉。
その前に、血塗れのアレスが倒れ伏していた。
「あ、れ……す?」
うつ伏せに倒れる彼に手を伸ばす。
手を濡らした冷たい血に、エレンはびくりと震えた。
けれどそれ以上に、アレスの身体は氷のように冷え切っていた。
「アレス」
ハッキリと彼を呼ぶ。けれど応える声はない。呼び声は静まり返った談話室に空虚に響き――静寂だけが耳を満たす。
見下ろした両手は赤黒く染まっていて、エレンはゆるゆると首を振った。
「いや……いや……」
それは血。彼の血。べったりと付着した、彼の命の水。
――死んだ。
死んだ。
アレスが、死んだ。
「いやああああああああああああああああああっ!!」
エレンの絶叫が、学校に轟いた。
*
ざわざわ。ざわざわ。
「何事ですか!」
エレンの悲鳴を聞きつけて廊下に集まった生徒たち。その人波を掻き分けて、メヒティルトたち教師が貴賓室へと踏み込んだ。
しかし死んでいるアレス。そして彼から少し離れたところで、同じく事切れているローレンツを見つけ、一同は息を呑む。
「なっ、これは……ドレッセル、どういうことですかこれは。ドレッセル!」
アレスの傍らに力なく座り込むエレンに向かって、メヒティルトは声を張り上げる。
だがその声はエレンに届いていなかった。
涙を流すわけでも、取り乱すわけでもなく、呆然と死体と化したアレスを眺める。
「エレン! エレン!?」
間もなく騒ぎを聞きつけたらしいルドヴィカもやってくるが、それでもエレンは微動だにしなかった。
(なんで)
なんでアレスが。
(どうして)
どうして死んでいるの。
そんな疑問ばかりが浮かんでは消える。
彼のローブには、剣で貫かれた穴があった。誰かに心臓を一突きにされたのだ。
なんで、どうして。なんで、どうして。
「エレン!」
――うるさい。うるさい。
「ドレッセル!」
――うるさい!
瞬間、音もなく放たれた緋色の炎が、エレンとメヒティルトたちの間に一条の境界線を作った。
「!?」
灼熱の炎に当てられ、ギャラリーが後退る。
――早く水を!
――この炎は無理だ!
――ドレッセル、やめろ!
けれどそんな声すらも、炎の爆ぜる音に遮られて、エレンには届かない。
触れた物全てを灰に変えながら、炎は燃えていく。
その只中で、ぽつり、零す。
「どうして」
答えのない問いを吐き出した、その瞬間だった。
エレンはふと、アレスの右手がローブの中にあることに気付いた。腰の後ろ側――その位置には、覚えがある。
まさか、アレスは――
エレンは震える手で、アレスのローブを捲った。
血を吸った重いローブ。その下で――
アレスは、女神の短剣を握っていた。
柄を握り、今まさに引き抜こうとした姿勢のまま、アレスは死んでいた。
(死に戻ろうと、したんだ)
誰かに殺されて、ただ命尽きるその前に。
(もう一度、過去に)
過去に戻り、おそらく自身の死を回避するために。
「…………」
エレンはしばらく、短剣を握るアレスの手を見つめていた。
しかしやがて、おもむろに手を伸ばす。そしてエレンは、冷えて固くなったアレスの指を一本ずつ、短剣から外し始めた。
(アレス)
脳裏で彼を呼ぶ。
(『エレン』)
彼が呼ぶ声が聞こえる。アレスが、エレンに微笑みかけている。
でもそれはもう、エレンの中にしかない。
「エレン!?」
ルドヴィカの悲鳴じみた声が響く。その視線の先で。
エレンは女神の短剣を、己の首筋に当てた。
アレスはいない。アレスは死んだ。
誰かに殺されて、死んだ。
だったらその『未来』を変えればいい。
「エレン、やめて!!」
何をしようとしているか気付いたルドヴィカが、制止をかける。
そんなルドヴィカに微笑んで――エレンは静かに目を閉じた。
思い出す。あの灰の降る日に、自らの首を掻き切ったアレスを。
胸の中に渦巻くのは、彼が死んだ悲しみと――何も出来なかった自分への怒り。そして深い悔恨。
(アレスもこんな気持ちで死んだのかな)
漠然とそんなことを思いながら、短剣を動かす。
そうしてエレンは、二度目の人生を終えた。
==============
(あとがき的な)
これにて1章終了となります。ここまでお読み下さりありがとうございました!
2章は引き続き明日より更新予定です。
不穏な終わりですが……2章はエレンとアレスの馴れ初め(一度目の人生)を掘り下げていくので、気になる方はフォロー(ついでに評価も)していただけると嬉しいです!
完全無欠のハッピーエンド目指して書いていくので、今後ともよろしくお願いします!
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