第29話

「大変だ! 東の森に魔獣の大群が出た!」


 その一報がアレスの元に飛び込んできたのは、午後の眠気も遠ざかり始めた頃だった。

 講堂に駆け込んできた監督生男子の言葉に、途端、生徒たちがざわめき出す。講堂は一瞬にして授業どころではなくなった。


「おいおい、東の森って確か今、一年生が実習に行ってるんじゃ……」

「まじかよ。一年生なんてまともに戦えないだろ?」

「あぁそうだ」


 誰かが呟いた声に頷き、監督生が教師を押しのけて壇上に上がる。

 一年生――その言葉に、アレスは思わず立ち上がりかけた。


「現地の先生たちが頑張ってるが、あまりにも数が多すぎて人手が足りない。そこで、生徒の中からも戦えるやつを募ることになった。腕に覚えがあるやつは今すぐ校庭に集まって欲しい」


 監督生の申し出に、すぐ席を立つ生徒もいれば、動く気配すらない生徒もいた。

 生徒の一人が手を上げる。


「魔獣の規模は? 魔法の有無は?」

「ゆうに百は超えているらしい。魔法の有無は分からない」


 ざわざわ、ざわざわ。ざわめきが大きくなる。


「被害は出てるんですか? 怪我人は?」

「不明だ。しかし多くの生徒は既に安全なところまで避難したと聞く。ただ、情報によると――」


 ちらり。何故だか監督生がアレスを窺う気配。



「エレン・ドレッセルが残ってるらしい」



 瞬間、アレスは世界が凍り付くのを感じた。

 教室が一瞬にして大きなどよめきに包まれる。


(エレン、が……?)


 視界が――世界が暗くなっていくのを感じる。

 ざわざわ。ざわざわ。ざわざわ。

 鼓膜を揺らす声が、うるさい。


「おい、エレン・ドレッセルってアレだろ。バカみたいな魔力を持つっていう……」

「それで固有魔法持ちとか……」

「噂じゃ、入学初日に魔法を燃やしたらしいぜ」

「うっわ、『超越』タイプかよ」

「しかもあれだろ。ノイエシュタットの王子の恋人とかいう――」


 ざわめきに交じって、ひそひそとした囁き声が飛び交う。下世話な視線が、ちらちらとアレスと窺う。

 けれどそのどれもが、今のアレスには届いていなかった。

 聞こえているのに、聞こえていない。

 見えているのに、見えていない。


(……エレン)


 アレスの脳裏に、綺麗な赤髪がよぎった。


 ――一人で魔獣を食い止めているらしい。

 ――おいおい一年生でかよ。化け物過ぎねーか。

 ――ばっか、黙っとけ。聞かれたらどうすんだよ。

 ――いやさすがにドレッセルでもその大群は無理なんじゃ……


(エレン――)


 思い浮かべた彼女の姿が、暗闇に飲まれていく。

 アレスに向けてくれる気恥ずかしげな笑みは黒く塗り潰され、アレスを呼んでくれる優しい声は遠ざかって聞こえなくなる。


 何もかもが、消える。

 消えて、アレスの手の届かないところに行ってしまう。

 ――一度目の、人生のように。


「っ!!」


 気付けばアレスは椅子も机も飛び越えて、講堂を飛び出していた。


「殿下! お待ちを!」


 ローレンツが呼び止める。しかしその制止を遥か後方に置き去りにして、アレスは東の森に向かった。


(エレン)


 脇目も振らず走り続ける。


(嫌だ。僕は、また君を――)


 やがて木々が増え、伸びた枝や葉が顔に小さな傷を作っていく。それでも足が止まることはない。


(奪わないでくれ)


 祈る――これ以上、アレスから何も。


 誰になんて分からなかった。けれど、祈らずにはいられなかった。

 もうこりごりだった。

 民を殺された。土地を奪われた。家族を殺され、国の尊厳を踏みにじられた。


 ――そしてアレスは、たった一人の大切な女性ヒトですら死なせた。


(僕はもう、何も失いたくないんだ)


 焦げ臭い匂いが鼻を突く。アレスは匂いが流れてくる方向へ走った。

 しかし匂いは徐々に薄くなり、代わりに鬱蒼とした森の向こうに、何故だか白い光が見えてくる。

 光――違う。あれは、光などではない。あの白色は――……


 アレスは徐々に速度を緩めた。

 ゆっくりと、ゆっくりと歩き、森を抜ける。

 そこに――


「……エレン」


 ――灰が、降っていた。

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