第30話

 灰が降っていた。

 真っ白な、雪のような灰だった。


 周囲には何もない。鬱蒼と生い茂っていた森の木々も、草花も。そして目の前に迫っていたはずの魔獣の群れも。

 まるで最初からそこには何もなかったかのように、森の真ん中にはぽっかりと生まれた、灰が降りしきる平原。


 そんな只中にぽつんと佇んで、エレンは空を見上げていた。


「……エレン」


 その強張った呼び声に、エレンはゆっくりと振り向く。

 ――アレス。

 そこに、彼がいた。


 薄らと積もり始めた灰に足跡を残しながら、静かに歩いてくる。随分と急いで森を抜けてきたのか、綺麗な髪はぐちゃぐちゃで、端正な顔にはいくつもの小さな傷。制服もヨレヨレで、とても王子さまとは思えなかった。

 それでも彼は、エレンの王子さまだった。


「……殺したのか」


 ――魔獣を。

 暗にそう尋ねるアレスに、エレンは頷く。


「うん」


 何の感情も感慨もなく、淡々と。

 エレンが殺した。突如現れた魔獣の大群も――あの戦場で出会った人々も。

 それは純然たる事実だ。否定のしようなど、ありようもない。

 だからエレンは、頷いた。

 けれどアレスは――アレスは何故だかエレンの手を取って、その手を自身の額に押しつけた。


 目を閉じて両手で、存在を確かめるように額をすり寄せる。エレンを捕まえる彼の手は震えていて、エレンはなんだか彼を迷子の子供のようだと思った。


「大丈夫だよ」


 エレンはふふと微笑む。


「怪我なんて一つもしてない。アレスも分かってるでしょ? 私の力。これぐらいの敵じゃ、傷一つ負わないよ」


 だから大丈夫だよ、と安心させるように。


「それでも心配ぐらいはする!」


 けれどエレンの予想に反して、アレスは声を荒らげた。

 エレンは思わず、びくりと身体を震えさせてしまう。

 アレスはエレンの手を固く握り、呟いた。


「絶対なんてないんだ……僕はもう、君を失いたくないんだ」

「アレス……」

「……どうして」


 絞り出した彼の声は、震えていた。けれど、彼がその続きを口にすることはなかった。


 どうして残ったんだ。

 なんで力を使ったんだ。


 そんな、色んな意味が込められているように感じた。

 でもどれが正解か分からなかった。

 だからエレンは言った。


「……みんなを守りたかったから」


 素直に、嘘偽りなく、自分の思いを。

 そんなエレンに、アレスは再び声を張り上げる。


「君じゃなくてもよかった! 分かってるのか、君の力が明るみになったら、君は、将来、また――」


 ギリッと歯を食いしばり、口を噤む。それ以上は、言えなかった。言葉にできなかった。まるで何かに耐え忍ぶかのように、エレンの手を握り続ける。

 だからエレンは――そっと、彼の手を握り返した。


「……ごめんね」


 もう片方の手も伸ばし、ふわりと彼の手を包み込む。そうしてようやく、彼は腕を下ろしてくれた。蒼い双眸が、不安げに揺れてエレンを見つめている。

 ――やっと、顔が見れた。

 エレンは彼と手を繋いだまま、穏やかに笑んだ。


「……アレスが色々考えてるのは分かってる。わたし、頭悪いから、国のこととか、戦争のこととかよく分からないけど、アレスが何も言ってくれないのも、きっと全部、本当に、わたしのためなんだろうっていうのは分かる。分かるの」

「だったら――!」

「ねぇアレス」


 アレスの手を、エレンはぎゅっと握る。

 そうして、エレンは笑った。

 笑えないけれど、笑った。

 泣きそうに、笑った。


「わたし、あなたと幸せになりたかった」

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