第17話

「アレス……?」


 揺れる瞳で、エレンは彼を見る。

 彼もまた、揺れる瞳でエレンを見ていた。


 何もかもが、記憶の中の彼のままだった。


 青みの帯びた銀の髪。少し軽薄な彼の性格を表すかのように伸ばされた襟足。海のように深くて、けれど陽の光を浴びた水面のように綺麗な蒼色の瞳。エレンと同じく、下ろされたばかりの真新しいローブ。けれど学年を示す、エレンと色違いのネクタイはだらしなく緩められていて、まるで王子さまらしくない。

 けれどそれが、彼だった。


 ノイエシュタット王国第二王子――アレス・ノヴァ・ノイエシュタット。


 エレンが大好きだった、今も大好きな人。

 彼が唇を戦慄かせる。


「エレン……まさか、エレン。『君』なのか……?」


 その問いで、理解する。

 彼は『エレン』を知っているのだと。

 瞬間、ツゥ――……と。

 エレンの頬を、一筋の涙が伝った。


 その涙に、アレスもまた理解する。

 エレンは『アレス』を知っているのだと。



 エレンは死んだ。

 アレスに殺された。



 けれど過去に戻ったのは、エレン一人ではなかった。



「っ、エレン……ッ!」


 アレスがエレンを呼んで、駆け出す。

 そして勢いそのままに、エレンを抱き締めた。


「エレン、エレン……!」

「アレス……?」


 自身を抱き締める力強い腕に、エレンはただ困惑して、涙を流すことしかできなかった。


「……本当に、アレス……なの?」

「あぁ……あぁ! 僕だ。僕だよ、エレン」


 そう言って一層強く、掻き抱くようにエレンを抱き締める。

 苦しいほどの抱擁。けれどそれは温かくて、熱くて――ぴったりとくっついた身体から伝わるのは、心臓の確かな脈動。


 ――生きてる。


 その事実に、エレンの灰色の瞳が涙で満たされる。


「本当に、本当に……?」

「本当だ。本当だとも」


 ただ呆然と尋ねることしかできないエレンに、アレスは力強く頷いてくれる。

 ――それが嘘だとは、思わなかった。

 くしゃりと、顔が歪む。大粒の涙が次から次へと零れ落ちる。


「アレス、アレス……アレス……っ」

「エレン……!」


 頬を寄せ、服を掴み、縋り付くるように抱きつくエレンを、アレスはしっかりと抱き返す。


 言いたかったこと――伝えたい想いはたくさんあったはずなのに、そのどれもが言葉にならない。

 エレンはただただ、もう二度と会えないと思っていた『彼』の名を呼んで、わんわんと泣いた。

 そんなエレンを腕の中に閉じ込めて、アレスもまた、一筋の涙を零した。



   ***



「何の騒ぎですか、これは」


 突如割り入った厳格な声に、エレンとアレスはハッと身を放した。

 振り返ると、生徒たちの間からぞろぞろと教師陣が歩み出てくる。その筆頭は初老の女性――エレンたち新入学年の総監督を務める、メヒティルト・オルブリヒだった。

 メヒティルトは灰と化したゴーレムの残骸を見て、信じられないというように呟く。


「ゴーレムが暴れていると聞いて来てみれば……まさか、魔法で魔法を消したのですか?」

「こ、これは……」


 制服の裾を握り締め、言い淀んでしまうエレン。


「仰る通りです、先生方」


 その言葉を遮ったのは、威風堂々とした男子の声だった。

 一人の生徒が進み出る。その姿に、エレンはハッと顔を曇らせた。

 清潔感のある濃い金髪に、紅玉ルビーのような瞳。斜に構えた笑みを浮かべる端正な顔立ちは、どか蛇を連想させる。そして教師陣にも一切怯まない、風格のある佇まい。


 ジークハルト・アインス・エーデル。エーデルシュタイン帝国の第一皇子にして、皇太子。

 ――かつての、エレンの婚約者。


 ジークハルトはメヒティルトを初めとした教師陣に、一連の出来事を説明した。聞き終えた教師たちが、揃って怪訝な顔でエレンを見る。


「まさか、固有魔法……?」


 教師の一人の呟きに、生徒たちがざわりとどよめき立った。


 魔法とは一般的に、地水火風からなる基本四属性魔法と、それらを組み合わせて作られる馳せ魔法のことを指す。これを『系統魔法』と呼び、系統魔法は物理法則を超えられない。しかし例外的に、そのルールを破り得る魔法が存在する。


 それが『固有魔法』だ。


 極稀に個人に発現し、そして再現することは不可能。故にその希少性は高い。更に物理法則を超越するとなれば、その価値は計り知れなかった。

 ――エレンの放った、緋色の炎のように。


「あの、こ、これは……」


 どう言ったらいいのだろうと、エレンがしどろもどろになっていると、スッと影が差した。

 ふと顔を上げると、アレスの大きな背がエレンの目の前にある。


「先生、詳しい話は後ほどにしましょう。今はこの場を治めることが先決かと。怪我人がいないかの確認も必要ですし」


 エレンを背に庇いながら、アレスはそう進言した。

 留学中のいち生徒とはいえ、隣国の第二王子。そして的確な指摘に、教師たちはぐっと押し黙る。筆頭のメヒティルトはふむと一瞬考える素振りを見せてから、


「ご指摘の通りですね」


 と頷き、生徒と教師たちにテキパキと指示を飛ばし始める。

 とりあえず、この場での追求は避けられたみたいだと、アレンの背に隠れながら、エレンはホッと胸を撫で下ろす――のも束の間だった。


「時にノイエシュタット第二王子殿下。あなたはエレン・ドレッセルと親しくて?」


 メヒティルトの新たな追求に、エレンはドキーッと心臓を跳ね上がらせた。

 アレスの背から、そろりと様子を窺う。


「わたくしの見間違えでなければ、その、コホン。今、熱い抱擁を交わしていたように見えたのですが」


 ちらり。メヒティルトの鋭い視線と目が合って、エレンはピャッとアレスの背に隠れた。

 そんなエレンとは対照的に、アレスは落ち着き払った様子で「あぁ」と言った。


「彼女とは幼い頃に会ったことがあるんです。まさかこんなところで再会するとは夢にも思わなかったので、思わず感極まってしまい……失礼いたしました」


 嘘八百。アレスは胸に手を当てて、あることないことをスラスラと口から吐いていく。柔らかな微笑みは、彼の得意技・王子さまスマイルだ。


 ――本当、こういう場面を乗り切るのは上手いんだから。


 背に庇われながらも呆れ半分、エレンはついムッとなってしまう。


「なるほど……分かりました。しかし衆目の前です。節度は守っていただきたい。ノイエシュタットの王族とはいえ、あなたは現在、栄えあるユヴェーレンの生徒なのですから。こちらも、相応の扱いをさせていただきます」

「はい、構いません」


 そのアレスの返事にメヒティルトは「よろしい」と頷く。


「では、詳しい話は後ほど」


 そう言って背を向けたメヒティルトに、エレンは今度こそホッと息を吐いた。

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