第13話

 半刻後、エレンとドレッセル家の面々はリビングに集まっていた。

 そこでエレンは、これまでに分かったことを伝えた。金の目が生まれやすい民族がいること。そしてドレッセル家にはその血が流れていること。


「エレンちゃん詳しいのねぇ」


 一通りの説明を終えたエレンに、夫人のエルネスタがほわほわと感嘆の声を零す。エレンは曖昧に笑って誤魔化した。

 本当、皇太子の婚約者になった時、妃教育の一環で叩き込まれた知識が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 しかし男爵は納得しなかった。


「……だからなんだ。エルネスタが不倫をしていない証拠にはならないだろう」


 カイと同じ懸念をする男爵に、エレンは頷く。


「そうですね。でも、不貞がなかったと証明することもできません」


 その反論に、男爵はぐっと押し黙る。

 ないことを証明する――それは証明すること自体が不可能に近い、『悪魔の証明』だ。

 このままではどこまでいっても話は平行線だろう。

 だからエレンは、一縷の望みに賭けて、抱えていた一冊の本を開いた。


「……これは、パトリシア・シャッテンの夫であった、当時の男爵の手記です。……ここに、彼女のことについて書かれています」


 驚きに目を見開き、男爵はエレンが差し出した本をひったくるように本を受け取る。

 そうしてそのページを読み、ゆっくりと捲り……そうして数分後。震える手で本を閉じると、崩れるようにソファに座り込んだ。がっくりと項垂れて、額を手で押さえる。

 エレンは静かに語りかけた。


「お分かりいただけたでしょうか? 何故、貴族でもないシャッテンの女性が、男爵家に名を連ねているのか……」

「…………」

「恋愛結婚だったんです。当時の男爵様は。――旦那様と、奥様と同じように」


 手記に綴られていたのは、当時の男爵から異彩の瞳を持つ妻への、愛のメッセージだった。

 今ですらこの地域では、金の瞳は不吉な物として恐れられているぐらいだ。パトリシア・シャッテンが生きた約百五十年前の風当たりは、今の比ではなかっただろう。

 それでも男爵は、パトリシア・シャッテンを妻に迎えた。

 その証が――


「カイくん」


 エレンは、窓際で一人静かに佇んでいたカイを見た。

 カイは沈痛な面持ちで眼帯を抑え、目を逸らした。その手をそっと取り、エレンは手を下ろさせる。


「カイくんの右目は、前代の男爵様たちが愛し合っていた証じゃないかって、わたしは思うんです。そして、男爵と夫人が愛し合った証でもある、と……」

「…………」


 男爵は言葉を失っていた。彼は今、葛藤しているのだろう。

 夫人との愛の証明――それを否定していたのは、自分自身だと悟って。


「……証拠なんて、ないじゃないか」


 呻くように、男爵が吐き出す。

 後悔と自責。けれどそれを認めることができない自尊心。それらに板挟みになった、苦悶の声だった。

 きっとそれは男爵なりの、精一杯の強がりだったのだろう。

 だからやっぱり、「そうですね」とエレンは静かに頷いた。


「……信じる信じないは、旦那様次第です」


 男爵はピクリと肩を震わせた。


「当時の男爵様のことも、奥様のことも……全ては推測です。証拠なんて、どこにもありません。だから――信じたいものを信じるしかないんだと……思います」


 男爵はもう何も応えなかった。たた項垂れて、その顔は大きな手の影になって窺うことはできなかった。

 重苦しい沈黙がリビングに満ちて、


「……あなた」


 けれどそれを破ったのは、それまでじっと話を聞いていたエルネスタ夫人だった。

 スッと立ち上がった夫人は、まるで祈るように胸の前で手を合わせ、口を開く。


「あなたに疑われて、時に罵声を浴びせられ……わたくしはずっと苦しかった。カイが生まれてから、十年間……ずっと。時には、カイを疎ましく思うことさえあるほどに。この子さえ生まれてこなければ、わたくしはこんな扱いを受けなくて済んだのに、と」


 その告白にカイがびくりと震える。エレンは咄嗟にカイの手を掴んだ。二人並んで、手を繋ぐ。大丈夫だと、そう伝えるように。

 夫人もまた、ぎゅっと強く手を握り合わせた。でも、と震える唇で呟いて――


「でもわたくしは、カイを愛すると決めたのです」


 そう言い切った夫人の蒼い瞳に、迷いはなかった。


「お腹を痛めて産んだ子だからじゃありません。もし血が繋がっていなくても、あなたが連れてきた子であろうと……わたくしは愛しました。愛したいと思いました。上手くできていたかは分かりませんが……」

「そ、そんなことない!」


 不安げに言葉尻をすぼめてしまった夫人に、カイが思わず叫ぶ。

 夫人は驚いた目でカイを振り向き――その目の端に堪る、涙の雫。夫人はそれを拭いもせずふわりと微笑むと男爵に向き直った。


「あなた――いえ。ヴィンフリート様。わたくしは、決めたのです」


 これまで幾度と、悪魔の子を産んだと罵られながらも。


「愛すると決めたもの愛する――と」


 そうして向けられた微笑みに、男爵はやはり動かなかった。

 動かなかったけれど――


「……すまなかった」


 やがてぽつりと、零したその一言に、エレンとカイは顔を見合わせパッと輝かせた。

 男爵は両手で顔を覆って、懺悔するように謝罪の言葉を繰り返す。


「すまなかった。すまなかった……十年もずっと。酷いことを言って、お前とカイを傷つけて……許してくれなんて言えない。許せることでもないだろう。それでもどうか、どうか許してもらえるのであれば、俺は、お前たちを、ちゃんと――」

「ヴィンフリート様」


 歩み寄った夫人がそっと男爵の手を取り、顔を上げさせる。そのまま立ち上がった男爵に、夫人は穏やかな眼差しを向ける。

 互いに手を取って見つめ合う二人は、まるで付き合い立ての初々しい恋人のようだった。


「いいのです。あなたが悔いて、その行いを改めてくれるのなら」

「エルネスタ……」

「ヴィンフリート様。あなたを許します――……――なんて、言うと思いましたか!!」


 パァン!


 甘い空気から一転。突然声を低めたと思いきや、瞬間、男爵の左頬に夫人の平手打ちが炸裂した。特大級の破裂音に、エレンとカイは思わず飛び上がった。


「これは十年! あなたに疑われ続けたわたくしの分!」


 しかし夫人の攻撃はそこで終わらない。


「これは冷たく当たられ続けたカイの分!」


 振り抜いた右手を戻しながら、男爵の右頬を打つ。手の甲で打ったせいか先程より鈍い音がした。


「そして、これは――!」


 夫人が思いっきり振りかぶる。


「あなたのつまらない意地に巻き込まれたエレンちゃんの分!」


 パァァァン!!


 と、反響音すら響かせて、会心の三撃目が男爵の左頬にクリーンヒットした。


 決まった――まるでそう言わんばかりに手を振り抜いた姿勢のまま、フンと鼻息を荒くする夫人・エルネスタ。その眼前で男爵の巨体がぐらりと傾き、ドサリとソファに倒れ込む。

 エレンとカイはひしっと身を寄せ合い、ガタガタと震えてその様子を見ていた。


 エルネスタ・ドレッセル。キレさせてはいけない筆頭にランクイン。怒ったときのマザー・アガーテより怖い。


 怯えるエレンとカイをよそに、夫人はフッと表情を和らげると優しく男爵を抱き締めた。それからどちらともなくカイを見る。


「カイ」

「いらっしゃいな、カイ」


 二人が呼ぶ声に、カイは躊躇いがちにエレンを見た。けれどエレンがこくんと頷くと、カイはおずおずと一歩を踏み出した。そして男爵夫妻の前で足を止める。


「わっ……」


 そんなカイを、夫妻は腕を広げ抱き寄せた。

 カイは緊張した様子で身を強張らせる。しかしやがて、二人を抱き締め返して、小さく呟く。


「父様、母様……!」


 その左目と、眼帯に隠れた右目から、涙を流して。

 ――どうやら、なんとか丸く収まったらしい。

 と、抱き合うドレッセル一家の姿を見て、エレンがほっと一息吐いたときだった。


「エレンちゃん」


 夫人が顔を上げて、エレンを見た。


「そんなところにいないで、エレンちゃんもいらっしゃい。――あなたも家族なんだから」


 思ってもいなかった一言に、エレンは目を丸くして。


「……君が俺たちを、家族だと思ってくれるのなら、だが……」


 これまでの居丈高な態度はどこへ行ったのか。不安げな様子で男爵が零して。


「――義姉さん」


 その呼び声に、エレンもまた、気付けば一歩を踏み出していた。

 そうして男爵と夫人とカイの輪に飛び込む。そんなエレンを、三人はしっかり抱き留めてくれる。

 声を上げて、カイが笑う。


「ありがと、義姉さん」


 その顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。

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