第9話

 意外にも、二度目の男爵家での生活は順風満帆だった。


 胸を張って言えることではないが、エレンは物覚えがいい方ではない。

 貴族としての基礎教養や、魔法学校入学へ向けての勉強。男爵令嬢として学ばなくてはいけないことは山積みだった。


 しかしそこは二週目。一週目で得た知識を遺憾なく発揮し、エレンはそれらをそつなくこなしていった。特に、皇太子の婚約者になってから、次期皇太子妃として叩き込まれた作法の数々は、家庭教師が賞賛するほど。


 そのおかげか、一週目ではエレンに対し苛立ちを見せていた男爵夫妻とは、すこぶる良好な関係を築けていた。

 要はエレンは、夫妻のお眼鏡に適ったのだ。


 血反吐を吐きながら叩き込まれたあの日々が役に立つとは思わなかったと、エレンは内心複雑な思いを抱えざるを得なかったが――

 しかし唯一、義弟のカイとはまだ一言も交わせない、どころか食事時以外は顔すら合わせない毎日が続いていた。


「痛っ」


 その日の午後、色とりどりの花に囲まれた東屋でのことだった。


「やだ、エレンちゃん大丈夫? 針で刺しちゃったかしら?」


 夫人のエルネスタは、自身の刺繍道具を置くと、エレンの手をサッと取る。貴族令嬢としての嗜みの一つ――刺繍を夫人から教えて貰っていたのだ。


「す、すみません、何度も……」

「気にしないで。傷は……血も出ていないし、深く刺してはいなさそうね。よかった」

「……すみません。破れた子供たちの服を繕うのは得意なんですが、刺繍だけはなぜか上手く出来なくて……」

「あら、エレンちゃんは優しいのね。いいのよ、謝らなくて。きっとそのうち、綺麗にさせるようになるわ」


 そう微笑む夫人に、エレンは内心で「だといいけど」と思わざるを得ない。

 マザーの手伝いをしていたおかげで掃除も料理も洗濯も、なんなら裁縫も得意だが、刺繍だけはどうにもダメなのだ。細かい作業がダメ。二週目でこれなら一生上達しないんじゃないかとさえ思う。


 自分の不器用さにしょんぼりしていると、夫人が「少し休憩しましょうか」と言って、傍に控えていたメイドにお茶の用意を命じた。やがてティーセットが運ばれてきて、エレンと夫人はそのままティータイムに突入する。


「刺繍はね、カイが上手なの」


 突然明かされた意外な情報に、紅茶を飲みかけていたエレンは思わずむせそうになった。しかし何とか耐えて、ごっくんと嚥下する。


「あの子、手先が器用で。昔は一緒に針を刺したのだけれどね……」


 そう言って夫人は遠くを見やる。その横顔はどこか寂しげだった。

 昔は。ということは、今は違うということだ。


「…………」


 なんて応えたらいいのか。エレンは分からず、ただ静かにカップに口を付けた。柔らかな紅茶の香りが、花の匂いに交じって鼻孔を擽った。

 きっと夫人とカイが一緒に刺繍をしなくなってしまったのには、男爵家の事情が絡んでいるのだろう。けれどそれを聞くのは躊躇われた。


 どこまで行っても、エレンは部外者だ。

 今は夫人も男爵も笑顔を向けてくれているが、いつ手の平を返されるか分からない。もし一週目のように虐げられるようになったとしても――エレンの魔法の才なら、以前と同じ魔法学校に入学はできるだろう。


 エレンの目的は、今度こそ何も取りこぼさず、アレスを助けることだ。そのために、当たり障りなくやればいい――のだけれど。


「……そう、なんですね」


 気がかりを消すことはできなかった。



   *



 カイと会ったのはエレンが男爵家にやって来て半月が過ぎようとしていた頃。

 家の書庫に刺繍の本を選びに行ったときだった。


「あ……」


 梯子に登って本を取っていた黒髪の少年――カイを見つけ、エレンは思わず声を零した。気付いたカイが、ゆっくりと振り向く。しかしエレンを一瞥しただけで、またすぐに本棚に向き直ってしまう。


 どうしよう。


 そんな疑問が一瞬頭をよぎるものの、エレンは意を決し書庫に入る。

 慎重に本棚をチェックしていき――目当ての刺繍本があったのは、運が悪いことにカイのいる本棚の隣だった。


(き、気まずい……)


 空気の悪さを一方的に感じながらも、エレンは本を探す。欲しいのは簡単な刺繍の図案だった。

 パラパラと中身を確認しながら、これでもない、あれでもないと本を出しては戻す。そんなことを繰り返していたときだった。


「上手く取り入ったもんだな」


 突如頭上から降ってきた声に、エレンはびっくりして顔を上げた。

 しかし声の主――カイは本棚の方を向いたまま、エレンには目もくれない。

 エレンは心臓がはやるのを感じながら、目を瞬かせた。


 ――上手く取り入ったもんだな。


 一瞬、何を言われているのか分からなかった。

 本当にこの子が言ったのかすら疑わしくなってしまう。

 それほどに唐突な言葉だった。

 けれど、書庫にはエレンとカイ以外の姿はない。ということはやっぱり、言ったのはカイだったのだろう。


 エレンは背表紙もよく見ずに、目の前の本を取った。中身など頭に入ってこないのに、パラパラと読んでいるフリをする。それからぽつりと言った。


「……取り入ってなんかないよ」


 本を選ぶフリをしながらぽつりと零す。カイに向けて初めて発した言葉は、緊張に少し震えていた。

 梯子の上で、カイがピタリと動きを止める。その気配を感じながら、エレンは精一杯に続きを紡いだ。


「あたしはあの人たちにとって道具でしかない……と思うから」


 ――多分。


 エレンの言い分をどう思ったかは分からない。しかしカイは本を無造作に棚に押し込むと、猛然と梯子を下り、そのまま書庫を出て行ってしまう。バタンっと乱暴に閉められた扉に、エレンの心臓が跳ね上がる。


(びびび、びっくりしたあ……)


 やっぱり、カイ・ドレッセルはよく分からない。



   *


 次にカイと喋ったのは、カイが魔法の授業を受けていた時だった。


「そんなこともできないなんて!」


 裏庭にある訓練場を通りかかったエレンは、突如響いた怒声にびくりと震え上がった。一週目の叱られたトラウマが脳裏をよぎって、咄嗟に柱の陰に隠れてしまう。しかし自分のことではないとすぐに悟る。

 そろりと訓練場の方を見ると、家庭教師として雇われた魔法使いが、カイに嘆息しているところだった。


「エレン様はこれぐらい、当たり前のようにこなしていましたよ」

「…………」

「まったく、義姉よりできの悪い嫡男なんて、男爵が不憫ですわ、本当。あぁいえ、出来が悪いから養子を取ったのでしたわね」


 眼鏡を掛けた初老の女性教師は、ぶつぶつと言いながら手元の手帳に何かを書き記していく。カイは一切反論せず、じっとその場に佇んでいた。


「今日はここまでです。来週の授業までに、今日教えたことをできるようにしておくこと。以上」


 そう言って女性教師は足早に訓練場を後にする。エレンは柱の陰にぴったりと身を隠したまま、彼女が立ち去るのを待って――


「……何見てるんだよ」

「ひょえっ!?」


 ぼそり。突き刺さるような鋭い呟きに、エレンは素っ頓狂な声を上げた。

 おそるおそる柱の陰から顔を覗かせる。途端、射貫くような蒼い左目と目が合って、エレンは再び飛び上がりそうになった。


「えっ、あっ、えっと、その、庭で刺繍の練習を、しようと思って、思って……」


 手に持っていた刺繍道具の籠を見せながら、エレンはあたふたと弁解する。わざとじゃなかったんです、と。しかしカイはエレンをじっと見つめたまま、微動だにしない。


 正直言って、エレンはカイが苦手だった。

 一週目でカイは将来、エレンと同じ学校に一つ下の学年で入学してくる。しかし、彼の態度はとても義理とはいえ家族とは思えないものだった。


『あんなのが義姉で恥ずかしい』


 ことあるごとにそう吹聴していたカイ。その内容は、もちろんエレンの耳にも嫌と言うほど入ってきた。

 当然だが、男爵家時代もエレンが夫妻にいびられていても見て見ぬフリ。それこそ、まともに言葉を交わしたのは二週目の先日が初めて。

 エレンとカイは、それほどまでに接点がなかった。


「……ごめんなさい」


 しばらくして、エレンは弁解を諦めた。素直に謝る。すると、


「……別に」


 返ってきたのは、諦念に満ちた一言だった。


「あんたが天才的な魔法の才能を持ってて、俺がごみっかすなのは事実だし」


 そう言って傍らのテーブルに置いてあった、魔法の教則本を腕の中へ映していく。


「そ……そんなことないよ!」


 エレンは咄嗟に声を荒げた。本を持ち上げたカイの手がピタリと止まって、剣呑な光を宿した左目がエレンを見る。


「……あんたに何が分かるわけ? 規格外みたいな魔力持ってて、その歳で基本魔法は完全習得パーフェクト。天才様が凡人以下の気持ちを語らないでくれる?」


 声を低め、唸るように告げる。まるで敵を威嚇する獣のようなカイに、エレンはごくりと喉を鳴らした。

 ここで何も言わず「ごめんなさい」と謝って、ここでのことをなかったことにするのは簡単だ。見なかったフリをして、カイの存在に蓋をして、男爵夫妻と薄っぺらい平穏な毎日を享受する。


 でもそれは、なんだか嫌だと。エレンはそう思った。


 ぎゅっと、胸の前で右手を固く握る。


「……ま、魔法は……魔力量が全てじゃないよ」


 やっとのことでエレンはそう言った。

 少なくとも、魔力量が多くても戦場で死ぬ奴は死んだ。

 それはエレンが見てきた現実だった。

 カイはしばらくエレンを見つめ続けていた。

 そして唐突に、口を開く。


「じゃあ証明してよ。優秀な『お義姉さま』?」

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