第8話
「まぁまぁ、いらっしゃい!」
手入れされた前庭を抜け、屋敷の正面玄関でエレンを出迎えたのは、黒髪の美しい妙齢のご婦人だった。
エルネスタ・ドレッセル男爵夫人。
夫人は手にしていたレースの日傘を閉じて使用人に預けると、小走りにエレンに駆け寄ってエレンが持っていたトランクを手に取った。
「あ、いけません、奥様。それはわたしが……」
「奥様なんて、そんな他人行儀にしないで」
以前の癖のまま奥様と呼んでしまったエレンに、エルネスタ夫人は優しく笑う。
「『お義母さま』って呼んでちょうだい。今日から家族なんだから、エレンちゃん」
一週目は愚図で物覚えが悪いエレンにキレて、自分から「お義母さまだなんて呼ばないで!」と言ったくせに、と内心でエレンは反論するが、ここで波風を立てても仕方ない。
「はい。……お義母さま」
とエレンは違和感を覚えながらも、言われたとおりに夫人を呼んだ。
「慣れない馬車で疲れたでしょう。そこのお前、これをエレンちゃんの部屋に運んでちょうだい」
「かしこまりました、奥様」
女主人然とした様子で、夫人は控えていた侍女に申しつける。そんな夫人の様子に、男爵が気に食わなさそうに鼻を鳴らした。
「おい、カイはどうした」
カイというのは、カイ・ドレッセル――ドレッセル男爵夫妻の嫡男で、エレンの義弟にあたる少年だ。歳は確かエレンの一つ下。今年十歳になる子だったはずだ。
厳しい目を向ける男爵に、夫人は静かに腰を折る。
「申し訳ございません。新しい姉に会うのが気恥ずかしいのか、どうしても嫌だと……どうにもあの子は人見知りなところがあるようで」
「ふん。お前の教育が悪いせいだろう」
その憚らない一言に、空気が凍り付く。
一触即発。そんな緊張感が漂い――けれど男爵と夫人の間に、それ以上の言葉が交わされることはなかった。
背を向けて、早々に屋敷の中へと入ってしまう男爵。その背をまるで使用人のように頭を下げて見送り、自身も屋敷の中へ向かう。
「どうぞお嬢様、こちらへ」
「あ、はい……」
侍女に促され、エレンもまたドレッセル男爵家に足を踏み入れた。
*
屋敷に着いてから数時間後。荷ほどきを終えたエレンは、用意されていた簡素なドレスに着替え食堂へと向かっていた。久方ぶりに履いたヒールの靴に危うくよろめきそうになりながらも辿り着き、晩餐が用意された席に座る。向かい側の席には過去と同じく、一人の大人しそうな少年が座っていた。
カイ・ドレッセル――エレンの新しい義弟。
彼の右目にはやはりというべきか眼帯がされていて、黒髪の間から覗く青い左目は過去と同じく怖いほどに凪いでいた。
「さぁさぁ! 今日は新しい家族が我が家にやって来ためでたい日だ! 存分に祝おうじゃないか!」
そう言って男爵がワイングラスを持ち上げ乾杯をするが、夫人も義弟のカイも仕草こそ合わせても、とてもじゃないがパーティという空気ではなかった。
――今となっては慣れっこだが。
エレンは時折声を掛けてくる男爵に話半分の受け答えしながら、しずしずとディナーを食べ進めていった。
ドレッセル男爵家は一つの大きな爆弾を抱えている。
それは男爵夫妻の不仲だ。
男爵が夫人の不貞を疑い、夫人はそれに対して長年耐えている――らしい。
らしいというのは、エレンは詳しい事情を知らないからだ。
しかし、長年危ういバランスで保ってきたその均衡が、エレンがやってきたことで崩れてしまい、決定的な亀裂が入る。体裁がある手前、離婚はしなかった男爵夫妻だが、その関係性は完全に冷え切った物になっていた。
というのが一週目でエレンが見てきた、男爵家の顛末だ。
正直なところ、男爵家の問題に関して、エレンは完全に部外者だ。おいそれと踏み込めるものではないし、踏み込みたいとも思わない。可能ならば、以前のように暴力を振るわれる生活は避けたいところだが……
それよりも問題は、今から約五年後。帝国と王国間で起こる全面戦争だ。
要因は色々あるものの、エレンとアレスが敵対し、最終的に死ぬことになった最大の原因はやはり戦争だろう。
ならば戦争を回避すればいい話だが、事はそう一朝一夕で解決できるものではないことは、学の足りないエレンにも分かった。
どうしたものか――
「エレンちゃん。エレンちゃん……?」
思考に耽っていたエレンは、繰り返し自分を呼ぶ声にハッと我に返った。
反射的に視線を向ければ、夫人がきょとんとした顔でエレンを見ていた。夫人だけではない。男爵も、なんなら義弟のカイすらもどこか驚いた様子で目を丸くしている。
しまった。考え事に没頭しすぎた。
「ご、ごめんなさい。わたし、何か粗相を……!」
エレンは顔を青ざめさせて、手にしていたナイフとフォークを置いた。
思い出す、夫人が平手で頬を打つ感触。頭上から唾と共に吐き捨てられる、男爵の罵声。
一週目のこの晩餐で、エレンは酷いテーブルマナーを披露してしまったのだ。幸い、その時は男爵も夫人も頬を引き攣らせながらも耐えた。けれどその後、エレンがなかなか淑女としての振る舞いを身につけられないでいると、ある日とうとう耐えかねて、エレンに手を挙げたのだ。
夫人が椅子から立ち上がり、エレンに向かって踏み出す。
エレンは肩をびくりと震わせ、咄嗟に目を固く閉じた。
(また殴られる……!)
しかし――
「すごいわ、エレンちゃん!」
「……へ?」
自身を抱き締めた優しい腕の感触に、エレンは間抜けな声を零した。
見れば夫人が、驚きに声を震わせながらエレンを抱き締めていた。
「完璧なテーブルマナーよ! これなら今すぐお茶会でも晩餐会でも出ても恥ずかしくないわ! 一体どこで覚えたの?」
「ええっと、あの……」
エレンが困惑していると、助け船が出される。
「こらこら。はしたないぞ、エルネスタ。エレンが驚いているじゃないか」
とは言うものの、男爵も上機嫌だ。拾ってきたネズミの出来が思った以上に良かったので満足なのだろう。
「これは将来が楽しみだな。本当にどこで覚えてきたんだか。はっはっはっ」
男爵は豪快に笑い、エレンは曖昧に笑い返す。
――あなたたちに教えられたんです。それと皇子妃教育です。
とはさすがに言えなかった。
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