第5話
孤児院に帰ってきたその日の夜半。エレンは裏庭に置かれたベンチに座って一人、月を見上げていた。
無数の星が散った空に、燦然と輝く丸々と太った月。
目に映る夜空はこんなにも美しいのに、脳裏を駆け巡るのは目を背けたくなるような記憶の数々だった。
愚図だ、のろまだと罵られ、時に暴力を振るわれた男爵家時代。孤児育ちで、エレンが貴族らしい振る舞いをなかなか身につけられないせいだった。
十五歳になって進学した帝国一の魔法学校は、貴族の世界だった。端的に言えば、エレンは虐められた。卑賤の出身であるのに反して魔法の才があったのも、周囲の反感を買っていたのだと思う。
でもその後に比べたら、平和な毎日だった。
転機は隣国――ノイエシュタット王国との戦争が勃発したことだった。
ノイエシュタット王国は、エーデルシュタイン帝国と並んで、世界を二分する大国だ。巨大な内海を挟んで、西大陸は帝国が、東大陸は王国が治めている。
その二国間で、戦いが起こった。世界中を巻き込む大きな戦いだった。
戦いは苛烈を極め、その内に『学徒動員令』が発令された。エレンたち魔法学校の生徒も、戦争に加わることになったのだ。
そこでかねてより魔法の才を帝国に目をつけられていたエレンは、命じられるがまま多くの人間を殺した。――孤児院のみんなを人質に取られ。
良い思い出など一つもなかった。
孤児院を出てから、ただの一度も。
でも、アレスと出会った。
「アレス……」
その名を口にするのは、いつぶりだろう。音にした彼の名前は冷たい夜風に攫われ、冬の空へと消えていく。
彼と出会った。彼との思い出だけが、くすんだ七年間の記憶の中で、鮮やかに輝いている。
けれど、そんな彼も死んでしまった。敗戦に追い込まれ、自害した。敗戦国の王子として殺される前に、エレンと共に死ぬことを選んだ。
ベンチの上に両膝を立て、その間に顔を埋める。
「わたしが――」
殺した。
「わたしがいなかったら――」
きっと、アレスは死ななかった。
――エレンが殺したも同義だ。
そう、唇を噛み締めたときだった。
「こんな夜中に抜け出して、夜更かししてる悪い子だーれだ」
ふとそんな声が聞こえて、エレンはハッと振り返った。
「マザー……」
「ふふ、驚かせちゃった?」
エレンと同じく、寝間着姿のマザー・アガーテはいたずらっぽく笑うと、エレンの肩にそっと暖かなブランケットを掛けた。それからエレンの隣に腰掛ける。
「……眠れない?」
優しく問いかけてくるマザーに、エレンはこくりと頷く。
そんなエレンにマザーは「悩んでいるのね」と柔らかく微笑んだ。それからそっと、エレンの肩に手を回して、抱き寄せる。
「あらあら、こんなに冷えちゃって。ダメよ、女の子が身体を冷やしちゃ」
そう言ってぴったりとくっついてくる。触れ合った部分から、じわりと伝わる熱。まるで氷が溶けていくように、エレンの身体のこわばりが解けていく。
どれぐらいそうしていただろう。やがてマザーは、ぽつりと言った。
「行きたくなければ、ここにいていいのよ」
その言葉にびっくりして、エレンは思わずマザーを見上げた。腕の中で目を丸くするエレンを見て、マザーはやっぱり微笑む。
「確かに男爵家の子になることは、より多くの未来の選択肢を生むことになるわ。あなたに多くの選択肢が与えられたことは、マザーも、とても嬉しく思う。でも……自分の心を押し殺してまで、選ぶ必要はないのよ」
それはきっとマザーの本当の気持ちだろう。でも、決して言葉通りにできないことは、今のエレンなら分かる。
もっと大きくなってから知ったことだが、このイェリス孤児院は、領主であるドレッセル男爵の出資の元、教会が営んでいるのだ。もし断って男爵の顰蹙を買ったりしたら、最悪、出資を止められることだってあり得る。
そうなったら、孤児院のみんなはどうなってしまうのか。
それでもマザーは、エレンの気持ちを優先させていいと、そう言ってくれているのだ。
エレンはぎゅっと拳を握った。それからおずおずと切り出した。
「ねぇ、マザー」
「なにかしら、エレン」
「あの、ね……」
それでも言いづらくて、口籠もってしまう。マザーはそんなエレンを辛抱強く待ってくれた。
「マザーは好きな人……いる?」
ようやくあってそう尋ねたエレンに、マザーがパッと顔を明るくした。
「あらやだ! エレン、好きな人ができたの!?」
まるで恋する乙女のように、自身の頬に両手を当てきゃーきゃーと声を弾ませる。――一応深夜という分別はあるのか、声は控えめだが。
「か、からかわないで! 教えてよ!」
エレンは顔を真っ赤にしてマザーを揺さぶった。するとマザーはふいに表情を和らげて、「からかっていないわ」と微笑む。
「エレンが成長しているのが嬉しいの。あんな小さな赤ちゃんだったのに、そう……もう誰かを特別にすきになるくらい、大きくなったのね」
そう言ってふわりと、エレンを抱き締めてくる。エレンもまた、その腕をそっと掴み返した。
「どんな人なの?」
「えっ」
「いいじゃない。マザーにだけ、特別。教えて。ね?」
茶目っ気たっぷりにそうお願いされると、断りづらい。
――どんな人。
脳裏に彼を思い浮かべ、エレンは頬の熱が急に高まるのを感じた。
「かっこよくて……優しい人」
出てきたのは、そんな陳腐な表現だった。
「それと……」
「それと?」
おずおずと告げる。
「わたしを、すごく大切に想ってくれた人……」
その言葉にマザーはただ一言「まぁ」と応えた。マザーが彼に対して、どう思ったのかは分からない。けれどマザーはただ優しく、エレンを抱く暖かな腕に少しだけ力を込めた。
「今は想ってくれてないの?」
「……分からない」
降ってくる穏やかな声音に、端的に応える。
七年後のアレスは、確かにエレンを想ってくれていた。
でも七年前のアレスは、エレンの存在すら知らないのだ。
それでも――
「……会いたい」
そんな気持ちが、無性に込み上げてきた。
「好きな人に会いたい。でも会おうとしたら、たくさんの悪いことが起こっちゃうとしたら……マザーはどうする?」
ぎゅっとマザーの腕に縋って、エレンは尋ねる。
マザーはそんなエレンを腕の中に閉じ込めて、空を見上げた。エレンもその視線の先を追う。
「会いに行っちゃうかな」
やがてマザーはぽつりと零した。
「私だったら、きっと会いに行っちゃうわ。我慢できなくて」
「そうなの?」
「こう見えてマザー、結構、我慢が出来ない人なの」
首を傾げるエレンを見下ろして、マザーは笑う。
「でも、悪いことが起こっちゃうよ?」
「あら。だからそれで悪いことが起こらないように、全力で頑張るのよ」
と、鼻息荒く拳を握ってみせるマザーに、エレンは思わず目を丸くした。
そんなこと、考えてもみなかった。目でそう語るエレンに、マザーはウインクしてみせる。年甲斐もない仕草だった。けれどその悪戯な顔は、マザー・アガーテによく似合っていた。
「だって、未来のことなんて、何も分からないでしょ?」
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