第3話

「魔獣が、魔獣が出た!!」


 悲鳴と共に飛び込んできた声に、エレンは反射的に振り返った。

 数人の子供たちが駆け込んでくる。


「マルク……!?」

「エレ姉、魔獣が、魔獣が……っ!」

「大丈夫。落ち着いて。大丈夫」


 駆け寄ってきた子供たちを一度抱き締めて、すぐさま裏口から建物の中へ誘導する。


「このまま中に入って、マザーに報せて。小さい子たちの手を放さないでね」

「わ、分かった、けど……でも……っ」


 エレンの指示に頷くものの、マルクは声を上擦らせて動こうとしない。


「コニーが……っ」

「コニー?」


 呟かれた男の子の名に、エレンは一度首を傾げて――


「っ!?」


 弾かれたようにエレンは駆け出した。


「エレ姉っ!」

「中に入ってなさい!」


 後ろ髪を引く呼び声に叫び返して、エレンは森の方に駆け出した。院の裏手に広がる広大な森の手前には、院のみんなで耕している畑がある。


 そうだ。思い出した。なんで忘れていたんだろう。

 この年、この時期。


 餌を求め人里に降りてきた魔獣に襲われて、畑で遊んでいたコニーは死んだのだ。


 魔獣とは極稀に生まれる、魔力を宿した動物のことだ。人間には遠く及ばないが総じて普通の動物よりも知能が高く、中には魔法を使う個体も存在する。通常固体を統率し、人里を襲う話は数年に一度は聞く話だった。


 危険の代名詞。それが魔獣だ。


 冬を目前に控えたこの時期、冬眠に備えて獣たちは多くの餌を必要とする。しかし今年は、森の実りが悪かった。そうなると獣は飢えて、人の領域へ侵入する。

 それは根が獣である魔獣も同じだった。


(なんで忘れてたの、ばか……!)


 必死に足を回転させる。足を滑らせながら、エレンは走る。

 身体の動きが鈍い。元々運動は得意な方ではなかったが、それでも魔法兵時代は、今より幾分か動かせていた。

 畑の区画に入る。


「コニーっ!!」


 いた。畑の一番奥、森の手前。腰を抜かして座り込むコニーと、他二人。その眼前――真っ黒な毛皮に、爛々と光る金色の瞳。エレンの身長の倍はあろうかという巨大な熊の魔獣が立ち上がって、今まさにコニーに襲い掛かろうとしていた。

 かつてこの場所で見た、無残に食い荒らされたコニーの遺体が脳裏をよぎる。


(コニーが)


 ――死んじゃう。


(死なせない!!)


 気付けばエレンは右手を前方にかざし――念じたのは、一瞬。直後、手の平から迸った緋色の炎が、コニーと魔獣の間に一条の壁を築いた。


 突然の炎に魔獣が怯む。

 その隙にエレンはコニーと魔獣の間に滑り込んだ。子供たちを背に庇い、魔獣と対峙する。


「ぐるるる……」


 金色の目がエレンを捉える。口の端からは空腹を表すかのように、涎がぼたぼたと滴っている。

 エレンはただそこに佇んだまま、微動だにしなかった。


「……帰って」


 やがて唇から零れたのは、懇願にも似た呟きだった。


「お願い、森に帰って。静かに暮らして」


 魔獣に言葉が通じるのかは分からない。けれどエレンは、そう言わずには言えなかった。


「お願い」


 思い出すのは、灰の降りしきる平原。


「じゃないとあなたを殺さなきゃいけなくなる」


 骨の一変すらも残らず灰と変えて。

 エレンのそのお願いが通じたのかは分からない。ただ目の前の炎に恐れを成しただけかもしれない。


 けれど魔獣は構えていた両手を下ろすと、背を向けて森の中に消えていった。


 枯葉を踏みしめる音が遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなるのを待ってから、ふうとエレンは肩の力を抜いた。


「え……エレ姉ええぇぇぇぇ……」

「エレ姉えええええっ……」


 と、途端にコニーたちがエレンに抱きついてくる。涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、エレンにしがみつけて大声で泣く。


「も、もう大丈夫だよ……」


 そういって宥めるもののコニーたちは一向に泣き止みそうにない。そうしているうちにマザー・アガーテが駆けつけてくる。


「まぁ……まぁまぁこれは、一体……」

「マザー!」


 子供たちはマザーを見つけるなり、パッとエレンから離れてマザーに駆け寄る。


「まぁ、みんな。怪我はない? 痛いところは?」

「平気! エレ姉が追い返してくれたから!」

「エレンが?」

「すごかったの! 手から炎出して、バーンって!」


 先程までの涙はどこへ行ったのか。子供たちは嬉々としてマザーに告げる。マザーが顔を上げて、エレンを見る。

 エレンはぎくりと身体を強張らせて、隠すものも何もないのに、咄嗟に両手を後ろに隠してしまった。そしてようやく気付く。


 自分が、過去の自分はまだ使えていなかった魔法を使ってしまったことを。


「あ、あのマザー、これは……」


 コニーを助けたかった。その気持ちに間違いはない。

 けれど、使うつもりなどなかった。こんな、忌まわしい力なんて。使えるとも思わなかった。ただ無我夢中だっただけで――

 しかしそんなエレンの内心など露ほども知らず、マザーはパッと顔を綻ばせる。


「すごいじゃない、エレン!」

「えっ?」

「いつの間に魔法なんて覚えたの? 魔獣を追い返すなんて、大人でもそうできることじゃないわ」

「えっと、それは……」


 駆け寄って両腕で力いっぱいエレンを抱き締める。そんなマザーに、エレンは困惑の声を零すしかできなかった。さすがに未来で学びましたなんて言えない。


「あの、でも……畑が焼けちゃって……」


 居たたまれず、視線を逸らす。そこには灰と化した野菜の残骸が散らばっていた。風に攫われ、ハラハラと散っていく。

 いいのよ、とマザーは首を振った。


「畑はまた種を植えればいいわ。でも負った傷は消えない。もし亡くなったりでもしたら、もう二度と会えないのだから」


 その言葉に、エレンはハッとなる。それからこちらをじっと見つめる、コニーを見た。

 コニーは生きている。エレンが助けたのだ。


「……はい、マザー」


 小さく頷いたエレンの頭を、マザーが撫でる。その優しい手に、エレンは人知れず、微かにはにかんだ。


 お家に戻りましょう。そう言ってコニーたちの手を引き、歩き始めたマザーの後にエレンも続く。


「でも本当に驚いたわ。村長さんたちにも、ちゃんと報告しないとね。魔獣と、それからエレンのことも」

「え……?」


 その言葉に、エレンは思わず足を止めた。そんなエレンに気付かず、マザーは嬉しそうに続ける。


「年末の魔力測定の儀が今から楽しみだわ。きっとエレンは将来、優秀な魔法使いになれるわね」


 マザーの言葉に悪気はない。純粋にエレンの秘めた力を喜び、有望な将来を楽しみにしているのだ。

 でもエレンは知っている


 魔力測定の儀。


 それは、エレンの人生を狂わせた日だ。

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