新入りの変化
「ソラ、ごめんね」
泣きそうな顔で、ソラノがソラを部屋に入れた。思い詰めた顔をしたまま出て行ったけど、大丈夫かしら?
気味が悪いほど、ソラノの様子がおかしい。
バカ犬が来る前も、婚約してた男に浮気されたからとかでこんな雰囲気になってた時がある。ソラノが仕事に夢中で寂しかった、とか言ってたらしいけどね。
男なんて星の数ほどいるんだから、こっちから願い下げよね、まったく。
ま、もう吹っ切れたみたいだけど。それはきっと、ソラのお陰もあるのよね。
だからあたしに見向きもしなかったのは許してあげる。でもなにがあったのかしら?
「ねぇ、ソラノ、どうしたの?」
「あっ……。うーんと……」
隣の部屋にいるソラに声をかけたら、こっちも元気がない。
「……あのね、ボク、昨日学校でね、爪切りいやがっちゃって」
「誰でもいやよ。なに? それが原因?」
「たぶん、そう。ママ、家に帰ってからずっと泣いてて。そろそろショーに出るから、初めて爪を根本から切ったんだ。その時、ボク、ちょっとママのこと、噛んじゃって」
そういうことね。
ショードッグは歩き方の美しさも審査基準になるのよ。そのために、爪を根本から切る。そうすることで足の握りが強くなって、姿勢も歩き方も変わるそうよ。
でもね、いくら動物が痛みに強いからって、痛いものは痛い。血管を切るんだから血も出る。止血は薬で焼くの。あれだって痛い。
「それ、違うわよ」
「違うの?」
「ソラノは噛んだって笑ってるわよ。それが家族のあんたなら、なおさらよ」
「じゃあ、なんで?」
「そんなの、決まってるじゃない」
ほんとに、バカなんだから。
ソラノが心から笑ってる時なんて、決まってんのよ。
「ソラノはね、動物看護師だからよ」
トリマーの勉強をしてたのだって、自分がアトピーで悩んでいたからでしょ?
そういう子達にもちゃんと対応できるようになりたいって、言ってたじゃない。
だから今回のことは、良い経験になったんじゃないかしら。
***
他の看護師が帰ったあと、ソラノだけが残ってた。
「あの、情けないんですけど、ソラの爪を根本から切ったら、もう、自分がなんのためにこんなことをしてるのか、わからなくなって」
「最初は誰でもそうだと思うよ。でもね、それはトリマーを目指している人なら勉強しているから、受け止められることでもあると思うよ」
話し声はうるさくないのに、あたし達の部屋にまでソラノとセンセーの声が聞こえてくる。こんなに静かなのはたぶん、ソラノの変化をみんなが心配してるから。
「知識としては、私も知ってました。ハラノ先輩にも教えてもらいましたし。ですから、誰が悪いとかではなくて、私には無理だと思いました」
難しいことはわかんないけどね、プロってそういうものだと思うのよ。
好きだけじゃ、やっていけない。
そんな壁ってあると思うの。それでやめていく看護師だっているし。
トリマーも一緒。それを乗り越えてもやり遂げたいものがある。
だからね、ソラノの言うように誰も悪くない。もしそのやり方に文句があるのなら、変える立場まで登り詰めるしかない。
その前に心が折れるなら、その世界にいない方がいいのよ。
「話を聞く前から思ってたんだけど、やっぱりソラノさんは動物看護師だね」
さすがセンセー。
もうわかってたのね。
あたしも同意見よ。
「……はい。私は、傷ついた動物を癒したくて、寄り添いたくて、動物看護師になりました。だから、自分が傷つける立場になってしまったと思ってしまいました。なので、ソラをショーに出したあと、学校を辞めます」
決断、早いわね。
ま、それはソラノの良い所でもあるんじゃない?
もぞりと動きながらも、聞き耳は立て続ける。
「それでいいと思うよ。もうそこまで考えられているなら大丈夫。あとね、僕からもソラノさんに話があったんだ」
「なんですか?」
ん?
センセーの声の感じが変わったわね。
さっきよりも優しい気がするけど……。
「ソラノさんはね、もっと広い世界を見たほうがいい。僕が言うのも変だけど、ここはとても居心地がいいと思う。でもね、それだけ狭い世界でもあるんだ。若いからもったいないなって、ずっと考えてたんだ」
「それは、ここを辞めてって、こと、ですよね?」
「クビってわけじゃないよ。このまま、ここにいてくれたら僕も助かる。もしここを辞めても、戻りたくなったらいつでも戻ってきてほしい。でもね、ソラノさん。決めるのは君だよ」
センセー、どうしたのかしら。
いいじゃない、ソラノはこのままここにいても。
ビックリして、ウロウロしちゃう。
センセーがそんなこと言うの、変よ。
「わかりました。少し、考えてみます」
でも思いの外、ソラノの声はしっかりしていて。
もう答えが決まっているような気がした。
***
「センセー! さっきのなんなの!?」
「どうしたミミ? 落ち着かないの?」
ソラノを見送ったセンセーに大声で話しかければ、あたしの背中を優しくなでてくれた。
「なんだかもっと、マシな言い方できなかったかなぁ」
寂しそうに笑うセンセーが、話し続ける。
「でも、ソラノさんが学校を辞めた理由をハラノさんが知ったら、彼女の人生を否定したと思われるだろうし。それにさ、ソラノさんのあの行動力、ここでずっと働いてもらうのがもったいないんだよなぁ」
そういう理由だったのね。
そうよね。ハラノは先輩だもの。良い気分はしないでしょうね。
でも、どうにかならないのかしら?
そんなことを考えながらセンセーの手に頬ずりする。
「あと、何か別の決心もした顔してたし。僕にできるのは背中を押すことだけなんだよなぁ」
なにそれ?
あたしにはわからないことを、センセーは気づいたみたい。
でも納得できないあたしは、じっとセンセーの顔を見ることしかできなかった。
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