不器用な約束

「約束は出来ないよ」

 沙織は言った。

「なんで?」

「だって、人の心は固定できないもの。これから先、ユウトが私以外の誰かを好きになる可能性はあるし、私がユウト以外の誰かを好きになっちゃう可能性だってある」

 沙織は少し困った様な、無理やりに作った様な笑顔を僕に向けた。

「そうかも知れないけどさ。そこは『永遠の愛を誓います』的な甘い恋人同士の時間で良くない?」

 僕はむくれて言う。

「そうかもね。でもさ、言葉面だけで安心させようとするのも、安心しようとするのも違うと思うんだよね。私だって、ユウトが『他の人を好きになんてならない』って言ってくれたら嬉しいけどさ。それで安心したり、それでユウトを縛ったりするのは、なんか手抜きというか、ダサいと思うの。私は全力で、ユウトに好きでい続けてもらう努力をしていたいの」

「そ、そうか」

 沙織の熱のこもった気持ちの吐露に僕は気圧されて、誇らしくも嬉しくもなった。そして、ニヤけただらしない顔を自覚して、沙織を抱き寄せ、沙織の視界から僕の顔を隠した。


 そんな事が、あった。


 もう、随分昔の事のようだ。


 あの時の自分を殴りたい。そう思うと同時に僕は両手で自分の頬を思いっきり打った。ビタンと大きな音が一人暮らしの室内に響く。


 ――


『他の誰かを好きになったりしない』

 互いにそんな約束を交わそうと僕が沙織に言ったあの日、結局は交わす事はなかったけれど、そんな約束をしていたとしても、その約束を破ったのは僕の方だっただろうし、沙織はその約束を破る事などなかっただろう。


 互いが刺激ではなく当たり前の日常になった頃、僕は別の女性に惹かれ始めた。『他の誰かを好きになったりしない』という約束は、口約束にも至っていなかったけれど、僕の中では沙織にそう宣言したも同義だった。そして、僕は沙織を裏切った。


「そう……。だから言ったでしょ?人の心は固定なんて出来ないって。約束しないで良かったでしょ?」

 沙織はうっすらと溜めた涙を隠すように、僕に背を向けながらそう言った。

「ユウトの事は今も大好きだし、ユウトに好きでい続けてもらおうと努力はしていたつもりだったけどね。努力が足りなかったのかな」

 震える涙声が小さな部屋の壁に跳ね返って、僕の耳に届いていた。

「明日は一日中講義に出ているの?それともバイト? とりあえず、明日は一日この部屋を空けておいてよ。私の荷物、全部引き上げておくから。合鍵はその後にドアポストに入れておくから」

「ゴメン……」

 気丈に振る舞う沙織の背中に僕は一言だけ言った。すぐにでも抱きしめられる距離にある背中。でも、もう、触れる事は許されない。


 ――


 帰宅したのは二十三時。スマホと茶店の雑誌で時間を潰し、その後は大学生が騒ぐ居酒屋のカウンターで酒を煽っていた。


 綺麗事キレイゴトはどちらの方が良く言うのかな。男の綺麗事は『色んなオンナとヤリてえ』を隠すもの、女の綺麗事は『私だけを愛してね』を隠すもの。男と女はどっちの方が綺麗事を言うのかな。


 沙織のものが消えた寒々しい部屋は、僕にそんな事を思わせた。


 重い足取りで部屋の中に移動すると、机の上に沙織からの手紙が置いてあった。それを手に取り、立ったままそれを読み始める。


 ――


 鈴木裕斗様へ


 ごめんね。私はユウトにとって魅力的であり続けられなかったね。


 私はさ、永遠の愛を誓い合った男女が、その誓いを反故にする様を沢山見ちゃったからさ。言葉での誓いをする事に抵抗があったんだよね。親友とか、親とか、お兄ちゃんとかが、ね。


 だから、ユウトが持ち出したあの約束を、ユウトを縛るものにしたくなかった。ユウトを言葉で縛ることはしないで、『私はユウトがどうであろうとユウトだけを愛し続けます』という約束を自分にだけ課したの。


 でも、その約束も今日で終わり。


 だって、ユウトには私のそんな思いは重荷でしょう?


 約束は自分以外の誰かと結ぶものなんだろうけど、私は私と約束して、そして、その約束を今日終わらせるわ。


 今まで、ありがとう。


 さようなら。


 高橋沙織


 ――


 僕は駆け出していた。家のドアを閉めたかどうかも覚えていない。ただ、まだ返していない沙織の部屋の鍵を握りしめて、何度も転げながら向かった。


 そして、息も整えないままに、沙織の部屋のドアを開ける。何もかもがもどかしい。靴を脱ぎ散らかして、部屋の奥に進む。すると、ベッドには沙織がいた。薄闇の中でベッドの上に腰を立てていた。


「ユウト……」

 僕に気付いた沙織は裸だった。その隣には裸の男。ソイツはどうやらぐっすりと寝ている。


「え?どういう事?」

 僕はマヌケな声を出す。


「コレはね。姉から聞いていた失恋の荒療治。大好きだったカレと顔だけ似ているクズ男に抱かれる事で、元カレの事を忘れるという荒療治。私はそんな荒療治をする事を、私の中で約束していたの。だから、じゃあね。出て行って」


 沙織の目には一切の感情が載っていない。


 僕は、鍵をそこに落として、部屋を、出た。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る