硝子の世界

 私がこの能力に気付いたのは小学校の理科の実験の時だった。顕微鏡で水中の微生物を見る時、焦点距離を合わせる為の顕微鏡の絞りを誤った私はプレパラートの薄い硝子を顕微鏡のレンズで押さえ過ぎて割ってしまったのだ。


 その時、世界は時間を止めた。「あ、やっちゃった!」と顔を上げた私が見たのは静止した世界。理科室の中の同級生たちは動きを止め、室内を徘徊していた先生は片足を上げたままで動かなかった。私だけが首を左右に振って狼狽えていたその時、空中にはキラキラと硝子の破片のようなものが舞っていた。


 それで、私はこの静止した時を硝子の世界と呼ぶようになった。


 ――


 私が硝子を割る事で始まるそれは、その割った硝子の大きさで静止する時間の長さが決まるようだった。小さな硝子を割ればほんの数秒、窓硝子のような大きなものを割れば数分の間、私だけが動ける止まった時が訪れた。そして、空中を舞う硝子の破片に私が触れれば、近くにいる人の思考が読めた。


「さつきちゃんはミキオくんの事が好きなんだー」

 初めての硝子の世界で舞っていた破片を掴んだその後、再び動き出したさつきちゃんに私はそう言ってしまった。

「な、な、何を言い出すの?バカじゃない?」

 頬を赤らめて必死に否定するさつきちゃんは、この不思議な能力を私に確信させてくれた。そのせいで、私に対するいじめが始まってしまったから、私はこの能力を秘密にしなくちゃいけないと思うようになった。


 誰かに思考を読まれるだなんて、私がその立場だったら嫌だもの。さつきちゃんの気持ちは分かる。バカな子供だったな。


 ――


 そんな事を思い出しながら給湯室で湯のみやコップを洗っていたら、後ろから突然声をかけられた。

「やあ、畠中さん。今日もありがとね」

 むやみに大きい課長の声だ。私は驚いて、持っていた硝子のコップを落としてしまう。スローモーションで落ちていくコップ。どうか割れないでという願いも虚しく、床に着いた瞬間、コップは割れて、硝子の世界が始まってしまう。


「バカ課長!背後から大声で驚かせるなっていつも言ってるでしょうが!」私は悪態をつきながら静止した課長に詰め寄る。すると空中に舞っていたキラキラの破片が私のおでこに入ってきた。


『畠中さんも可愛いなぁ。この子はベッドの上でどんな風に乱れるんだろう? っと、イカンイカン。オレには美幸がいるんだ。ダブル社内不倫など身の破滅だ』

 課長の思考が頭の中に浮かんでくる。マジか、課長。美幸って、うちの課のお局様の佐藤さんの事? 私をそういう目で見ているのもかなり気持ち悪いけど、お局様との不倫はダブルじゃなくても、シングルで十分な破壊力があるよ。身の破滅はもう始まってるんじゃないですか?


 再び動き始めた世界で、私は「驚かせないでくださいよー。コップ割っちゃったじゃないですかー」と言って割れたコップの始末を始める。

「おぉ、ゴメンゴメン。ビックリさせてしまったか。申し訳ない。コップはまた買ってくるよ」

 そう言って、課長は何処かへ行った。謝るべきは私じゃなくて奥さまですよ、なんて事を言う間も無かった。言えるハズもなかったけれど。


 ――


 人の思考なんて読むもんじゃない。近しければ近しいほどに。

 恋人の史郎さんの思考も読みたくない。人が何を思うかは自由だし、思いを口に出さない間は、思っていないと同義……そういうルールなんだと思わなくっちゃ人付き合いなんてやってられない。


 さて、今日は仕事上りで史郎さんとデート。私は待ち合わせの場所へ向かう。デパートの前を通り抜けた先の、いつものバーで彼が待っている。残業が私の足を少し急がせる。


 デパートの前では工事業者が大きな硝子板を運んでいた。安全対策だろうか、硝子を持つ四人の男性と、その脇には二人のガードマン。私は彼らから大きく遠ざかり、車道ギリギリの歩道の端に身を寄せる。


 その時、突風が吹いた。私の真横には車道に停まっていたトラック、その荷台には架台に立てかけられた大きな硝子板。その大きな硝子板が風に煽られ私に向かって倒れてきた。『きゃあ』と叫ぶ間もなく硝子は私の上に載り、私の身体を支点にしてその角を地面にぶつけるように落ちた。すると、その硝子は粉々に砕け散った。その全面が砂粒のようになった状態で、時が止まった。


 そう言えば、聞いた事がある。強化硝子はその平面をいくら殴っても割れないけれど、側面に小さな衝撃を与えると脆く、普通の硝子とは違う割れ方をするのだ、と。そうか、これは強化ガラスで、割れるとこんな砂みたいになるんだ。


 ――


 あれから、どれだけ時間が経ったのだろう。

 硝子の世界はまるで終わりそうにない。大きな硝子が粉々に割れると、私の能力はどうやら長く続くらしい。


 人の思考を読む事にも飽きてしまった。それしかする事がないとは言え、もううんざりだ。


 でも、一つだけ有益な事も知れた。

 史郎さんとは別れよう。


 まさか、結婚詐欺師だったとは。

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