私は彼に幻想を押し付けた

 本当なら見放すだったはずの彼女、秋野澪をまるで自分がやってるのかと思うほど優しく、愛でるように頭を撫でて慰めるその光景。

 あれから、何度も、何度も見た光景だ。私にこれ以上見せないようにか、必死に涙を堪えようとするその濡れた眼差し。

 そう、『まるで自分がやってない』じゃない、夢の中の自分がやってるその光景はいつも見る度に私を酷く傷付ける。後悔させる。

 なんで、助けられなかったんだろう。

 なんで、声さえかけられなかったんだろう。

 ……って。

 私の脳みそが作り出した彼女の残滓は、夕暮れの教室の中、やっと微笑んで私の撫でる手を掴んで、握る。

 ぎゅっと私の手を握るその小さい両手は、ショートカットの可愛い彼女らしく綺麗な手で、温かい。

 いつもはここで彼女がはにかんで笑って目を醒ますのだけれど、今回はなんか違った。

 笑顔を保ったままこちらを見つめ返すその黒瞳は真っ直ぐ私を見つめて、どんどん吸い寄せてくる。

 いや、彼女が近付いているのだ。そして、彼女の唇が触れ、生温かな感触に包まれる。

 目の前で眼を閉じる彼女、そしてその視界を水泡状の液晶から覗く私がいて、私は夕暮れの中の女の子の映像をただ、傍観していた。

 周りは群青と黒が混ざった深海の深淵、水の泡に映る光景に私は最後、彼女が、秋野澪が顔を離して、にっこりはにかむのを見た。

 瞬間、私を包む浮力は上がり、だんだんと最大限に更新していっては身体を浮上させていく。

 ああ、もうこの時間も終わりか。

 まだ浸りたいけど、目覚めた後の喪失感が怖い。

 だから、もう、幻は終わり。


 ちゅんちゅん。

 小鳥のさえずりが聴こえる。静かで、春らしい陽気な朝の空気を感じる。

 そして、唇は温かくて、まだあの子の唇の感触が残っているよう。……?

 ……感触が残ってる?温かい?

 ゆっくりと重い瞼を開ける。目の前がなぜか暗い。なぜだ?

 ぱちくり、ぱちぱち。眼を瞬かせる。

「むちゅーーー……」

「うわあぁぁっ!?」

 私の顔にお母さんが覆い被さっていて、私の唇を熟した汚いオバハンの唇で貪っていた。

 咄嗟に突き飛ばして上体を起こし、状況を確認する。

 ?……??…………???なんでや???

「もーう、高校に入学したてで遅刻する勢いだから起こしにくれば、死んだように寝てるじゃないの!?揺すっても叩いても殴っても起きないから心配したわよ!!まったく!!」

 殴ってもと言ったような気がするがそれより起きないからと言ってキスしてくるのは気持ち悪い。

「だからってわざわざこんな事しなくていいじゃ〜ん、ああ〜きもちわりぃー。ぺっぺっ」

「酷いわね〜、人が心配して眠り姫にキスしてあげたのにぃー!!」

 ……意味分からん。たまにお母さんはこういう変な事してくるから戸惑う。素でやってるのかふざけてるのか、よく分からんが。


 気持ち悪い目覚め方をしたおかげで寝覚めはすっきりしていて、お母さんがいつもより少し早めに起こしてくれた事で、ゆっくり支度する事が出来た。

 高校生になってまだ二週間、電車通学にもまだ慣れない。

 満員とは行かなくても人の多い電車の中、私はぼーっと車内の広告を見ていた。

 駅に止まる度、同じ高校の生徒が入ってきて人が増えていく。

 目的の駅で電車を降りて、高校に向かい、葉桜になりかけた桜の木が側に植えられた校門をくぐる。

 昇降口で靴から上履きに脱ぎ替え、室内は違えどさほど見た目の変わらない教室に入って挨拶してきた女子におはようと返す。

 なんてことのない日だ。中学の時と中身は変わらない。

 未だに名前がうろ覚えの先生の授業を聴いて、お母さんの弁当食べて、午後の眠い授業を受けて、部活見学の時間になる。

 放課後、部室の見学に行く前に尿意を催し、トイレに寄った。

 軽く洗った手をハンカチで拭いながら、荷物のある教室に戻ると中にショートボブの女の子が窓際の席に座っていた。

 私はブレザーの横ポケットにハンカチをしまって、そっと教室内に足を踏み入れた。

 私と同じ制服のブレザーにスラックスを履いた女の子は窓の空を眺めていて、その後ろ姿はどこか儚げ。

 なぜかその子が泣いている訳でもないのに、彼女に、秋野澪さんに重なってしまう。

 窓際の女の子も彼女のように辛い何かを背負っているように見えて、つい近付いて話しかけてしまった。

「なに、してるの?」

「……?……」

 ショートボブの女の子はなにも、喋らない。

「どうしたの?部活見学は?」

「…………」

 何を訊いても、やはり応えない。

(話しかけるべきじゃなかったのかな……)

 私は気不味い顔をして女の子から眼をそらす。

 どうするべきか、やっぱり分からない。話しかけるべきではなかったのかもしれない。けど、なぜか私は内心ほっとしていた。

 カシャカシャカシ。

「……?」

 紙が何かに擦れる音がして、女の子に向き直る。と、

(なんか、書いてる……?)

 女の子はどこから取り出したのか紙にシャーペンでなにやら文字を書いていて、さらさら動かす右手を止めるとそれを私に見せた。

「……?『僕は喋れないので筆談になりすみませんが、部活はただ行きたくないだけです』?」

「……(こくん)」

 彼女は頷き、教室に残っている旨を紙で伝えた。

 喋れない、か。ショートカットな所もそうだけど、本当に澪さんが戻ってきたみたいだな。

 今朝の夢を見るようになってから、噂で聞いたのだが、秋野澪さんは緘黙症でそれを理由に部活の先輩にいじめられ、家庭でも父親一人しかいなく、帰りが遅い事からどこにも居場所がなかったという。そうして、孤立し、いじめもエスカレートしてあの日、私が助けられなかったあの日に自殺した。

 だから、この子も緘黙症なのだと思うとなぜか嬉しくて、同時に悲しかった。


「ねえ、君さ、名前は?」

「……?」

 私は女の子の前の席にがに股で座る。せもたれを太ももで挟んで。ちょっと恥ずかしいけど。

 でも、周りには誰もいない。この子と、外の運動部の掛け声がするだけ。

「名前だよ、名前」

「…………」

 彼女はよく見ると男の子を思わせるような凛とした顔で、無愛想に、筆を紙に走らせる。

「どれどれ……」

 書き終わり、照れくさそうに紙の両端を指でつまむと、その綺麗に整った字を窓に差し込む日の光に晒した。

「春川、六花……。いい名前だね」

「……(照)」

 無表情だった六花は頬を赤くしてもじもじしていた。

「私は夏目涼。涼しいって書いてすずね?君のことはりっちゃんって呼ぼうかな」

「…………(恥)」

 六花の呼び名を決めて自己紹介すると、六花はどこか恥じらうように俯き、紙を置く。

 ちょっとなれなれしすぎただろうか。友達はいないから人との距離の詰め方がよく分からない。

 相手の様子を見て慎重にいくべきだろう。

「家には帰らないの?部活入らないならすぐ帰ってもいいんだよ?」

「……(こくん)」

 彼女は頷き、悩むようにシャーペンを持つと、しばらくして筆を動かす。

「?『家には帰りたくない、でも部活に入るつもりはない』?そうなの?」

「(こくん)」

 六花は肯定するように首を振り、顔色を伺うように怯えた目で私を見上げる。

 ……この子も、やっぱり。

「そっか、ごめんね。……そしたらさ、もしよかったらだけど、私と女の子デート、しない?」

「……(恥恥恥)!!」

 六花はかっと瞠目し、つられるように顔を紅潮させた。耳、首元まで赤くなっていって顔全体が火だるまになったみたいだった。

「あっあれ?言い方変だったかな?そっその、一緒に遊ばないって事!付き合ってってことじゃないよ!?」

 同性愛者でもない私が女の子に告白するほどバカにはなっていない。さっきは勘違いさせるような言い方した私が悪い。

 今の時代、女の子が好きな女の子がいるんだし、六花がどんな性的嗜好でもおかしくはない。

 だからさっきのは私が悪い。そうだそうだ。

「……(こくん)」

「それは一緒に行ってくれるってこと?」

「(こくん)」

 そっそうか。ほっ……。

 内心、そっと胸を撫で下ろした。

「へっ変な言い方してごめんね、ありがと」

「(ぷいぷいぷい)」

 六花はぶんぶんと首を振る。気にしないでという事だろうか。なんとなくそう言ってる気がした。

「じゃあ、いこ?どこがいいかな〜。近くのショッピングモールでもいい?あそこ、なんかオシャレな服いっぱい売ってるんだって」

 ……というのも、クラスメイトの女子達が話しているのを聞き耳立ててこっそり聞いたものだが。

「……(こくりこくん)」

 私が立ち上がり手を差し伸べると、見上げる六花は少し間を置いてあかべこのように頷いた。


 この日、私はいつのまにか彼を救っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君を失ったから私は。 蒼井瑠水 @luminaaoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ