肛門の臭い猫

蚕豆かいこ

第1話

 肛門の臭い猫だった。


 その子猫がどうやって我が家の二階にあるベランダに来たのかはわからない。気づけばか細い声をあげてアピールしていたのだが、私は我慢強いので放置を選び一晩鳴かせておいた。翌朝も変わらず笑い袋みたいな調子で鳴いているので一抹の憐憫が垂れてベランダを探してみると、私の手のひらほどしかない薄汚い三毛の子猫が「遅い」といわんばかりに怒鳴りながら足下に寄って来た。首元を摑んで持ち上げてためつすがめつすれば、抗議のつもりであろうか、馥郁たるうんちの香りが鼻腔を串刺しにした。どうも体に糞が付着しているのではなく、肛門から漂っているようであった。


 とりあえず家の中に入れてみると、頼りないちまちましたアンヨで私のあとをついてくる。尾を宇宙ロケットみたいに垂直に立てて肛門を全開にすることも忘れていない。


 ひとまず猫用の粉ミルクを買ってきて溶いて皿に入れ、猫の目の前に置いた。握りこぶしほどの子猫はピンクの鼻をひくひくさせるや、前脚を皿に突っ込んでまで前のめりになって、何ごとか唸りながら舐め始めた。髭に白い雫が引っかかってもお構いなしに底まで舐める。平らげたあと、猫はピアノ線で吊られているような動きで部屋中を跳ねまわった。おかげでただのフローリングだったつまらない床は、白い肉球型のフットプリントが星々のごとく散りばめられ、一体なにが描かれているのか画家本人も落札者もわかっていなさそうな現代アートに早変わりした。


 ミルクを飲むたび稀代の画家に変身するこの猫を三毛猫であるからみーちゃんと呼ぶことにした。安直である。しかし、日本人のくせに西洋の偉人のような長ったらしい名前をつけるよりはましであろう。兼好法師もバカな親ほど子に変わった名前をつけたがると書いていたではないか。


 聡明な私に名付けられたみーちゃんは怪獣でもあった。あらゆる属目の諸事万端をその玩具とした。コロナ禍のおりなど、持続化給付金に目がくらんだ私がその申請のために決算報告書や履歴事項全部証明書や出納帳をテーブルに広げていると、すべてが一瞬にして吹き飛んだ。あとに残っていたのは、尻尾をぴんと立てて肛門を見せびらかし、金への欲望に取り憑かれた私を曇りなき眼で見ているみーちゃんだけであった。臭気が漂った。例の肛門の臭いだった。


 猫用のおもちゃはどれも一日で破壊された。とりわけ私の使うペンや消しゴムで遊ぶことを好んだ。ひとしきり私の邪魔をすると、いつの間にか静かになっている。探してみると脱いであるスリッパの中や私の座る椅子の下などで電池が切れている子猫の姿があった。みーちゃんは充電と電池切れを繰り返した。


 噛み癖のある猫だった。私の手にしがみついて爪を立てて噛んだ。私の手首はさながらためらい傷だらけの様相を呈した。これだけ顎の力が強いならとドライフードを与えてみた。カリカリと音を立てて噛み砕いた。腹を満たすと、椅子に座っている私にじわりと近づき、生意気にも二足歩行の真似か、立ち上がって前脚を私の足にひっかけた。膝の上に乗せてやるとスフィンクスのような態勢で微動だにしなくなる。実に邪魔である。しかも、決まって私に尻を向けて落ち着くものだから、肛門の臭いも嗅がされるのだ。


 みーちゃんは家に来た当初は階段を登れなかった。洗濯物を干そうと二階へ行く私のあとを追って登ろうとすると一段目か二段目で後ろに転んだ。それもいつしか苦もなく登れるようになり、のろまな私を軽々追い越すようになった。そのたびに肛門から棚引く臭いを嗅がされた。


 そんなみーちゃんが食欲不振になった。何を与えても一口、二口だけでやめてしまう。ドライ、ウェット、おやつ、すべてその調子である。スーパーでタイムセールの時間帯まで粘って3割引きのシールが貼られてからひったくるようにカゴに入れたパック寿司の赤身やサーモンやエビを床の餌皿に入れても結果は変わらなかった。一口だけ齧られたネタを見ないようにしながら私は握り酢飯を平らげた。定価で買うべきだったのだろうか。


 避妊手術ついでに獣医に尋ねてみたら、好みの餌が見つかっていないのではないかという素晴らしい答えが得られた。値段が問題ではなかったのだ。私は目につくキャットフードをあらかた買うこととなった。いずれもみーちゃんの口には合わなかった。心なしかみーちゃんは体が少し細くなったようであった。


 ところがある日、掃除をしようと床の餌皿をとりあえずテーブルに置いたときのことである。そのとたんにみーちゃんがテーブルに飛び乗り、けさは例によってほとんど口にしなかったカリカリを、猛烈な勢いで貪りはじめた。どうやら気位が高いらしいみーちゃんは、私ごときがテーブルで食事しているのに自分だけ床で食べさせられることがたいへんな屈辱であったらしい。以来、私とみーちゃんは食卓を同じくするようになった。痩せていた体つきも飼い主に似ずがっしりと筋肉質になった。


 冬ともなれば、朝に私の寝る二階の部屋の前へまで怒鳴り込んできて、ドアをあけると何か被害者面で振り返りながら一階へと案内しようとする。降りるとハロゲンヒーターの前でおすわりをしてじっとこちらを凝視してくる。電源をオンにしてやる。1200Wのオレンジの光を浴びて、ようやく得心のいったみーちゃんは地響きするほど音を立てて寝ころび、わたしに後頭部を見せつけながら、全く凍え死にさせる気かといわんばかりに憤懣やるかたない様子で尻尾を床に叩きつけながら朝寝に入る。それを見ながら私は、野良猫はそもそも屋根もない外で頑張ってるんだぞ、とココアのためのミルクを温める。同時に、なんら仕事をしていないくせにヒーターに当たらせろと図々しく権利を主張し、そして勝ち取ったみーちゃんの後ろ姿を見て、いわんや労働に励む我々人間はもう少し図太く権利を叫んでも罰は当たらないのではないか、と思わされる。


 みーちゃんは、態度同様に図体が巨大になった今でも、仕事終わりの帰宅時など、あのベランダにいたときと同じ声で鳴いてすり寄ってくる。抱き上げると、やはりあの日と同様、馥郁たる肛門の香りで私の鼻を串刺しにする。私の鼻を見えない槍でぐさぐさ刺しながら、みーちゃんは今も私の膝でスフィンクスになっている。本当に邪魔である。

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