重油狂騒曲

第13話 暖機よもやま話

 ジルルに暖機作業を見学させてみないか、と言い出したのは2/Eの五十嵐だった。


 彼女の態度は相変わらず大人しい。


 夜間と部署配置の時以外は自由に船内を散策してよいと言っているのだが、それでも彼女は居室に引きこもって、自分の知り得る情報を紙に書き記しているようである。


 むろんそのまま放っておくつもりはないので、食事などは食堂に連れ出してみんなと一緒に取らせている。


 そんな時、彼女は一瞬だけ表情に子供らしさを取り戻し、目を輝かせながらまだ入ったことのない区画への扉を眺めるのである。


 その様子を見た五十嵐が、せっかくだから機関室を案内してあげようと言うのだ。

 別に軍艦でもないのだから、この船の仕組みを秘密にしておくこともないだろうと。


 これには俺も賛成だったので、いちおう船長の同意も得て、俺は暖機直の前に彼女を迎えに行くことにした。




 士官居住区に向かうと、彼女のいる部屋の扉は開いていた。


 船内換気のために、在室時の扉は開放しておくよう頼んである。

 代わりに仕切りとしてカーテンが閉まっているので、俺は念のため開けられた扉をノックし、一声かけて入室する。


 着替え中に迂闊にも遭遇し魔法で吹っ飛ばされるような事態は二度とご免である。


「あっ、カナモトさん。こんにちは」


 彼女は救出された当時の服装に着替えていた。

 海水に濡れていたそれを、手空きの誰かが丁寧に洗濯してくれていたようだ。


 白いシャツに、長めのスカート。椅子に掛けられているコートと、それに比して不釣り合いに小さい帽子は紺色で、どうやらこれは私服というより制服に見える。


「いちおう、私も肩書のうえでは士官でしたから。これが公国海軍の制服なんですよ」

「ほー… 良く似合っているじゃないか」


 口ではそう言ってみせたものの、制服に固められた彼女はより大人らしく見えて、その危うさが気にかかる。


 とはいえ、俺は早々に本題を話すことにした。


「この船はもうしばらくして出航するが… どうだ、この船の動くからくりを見てみないか?」

「えっ!」


 彼女は目を丸くして驚く。その反応は好意的に見えた。


 やはり気にならないわけがないのだ。帆を張らず、それどころか1本のマストもない鉄の船が進む仕組みなど。


「い、いいんですか?! だって、凄い秘密とかなんじゃ…」

「別にそんな大層なことじゃない。仕組みが複雑なだけで、やっていることは油を燃やしているだけだからね。さ、おいで」


 と、俺は手に持っていた安全帽と耳栓を渡す。

 識別番号の書かれていない予備の安全帽は彼女にとって大きいようだったが、内側のベルトを調整すればピッタリと収まった。


 整合した時計を見れば、時刻は1230。

 もう間もなく暖機直の始まる時間だから、俺はまだ戸惑い気味のジルルを引っ張り、機関室へと向かっていった。






 暖機運転の最大の目的は、機関内部に発生する熱応力を低減すること。


 ピストンであれクランクシャフトであれ、その全てが金属部品で構成された主機は、その内部で起こる燃焼により高温となる。


 広く知られている通り、金属はこれらの熱により膨張するが、この温度上昇にムラがあれば熱膨張にもまた部位による差が生じ、こうした差はひずみとなって部材に負荷をかけ、やがて破損に至る。


 このひずみ、すなわち熱応力を低減するために、予め機関を温めるのが暖機である。




 …という説明をいちおうはしてみるのだが、聞いているジルルは上手く理解できなかったというような、微妙な顔である。


 当然だ。内燃機関の概念すらない世界の子供に、2サイクルディーゼル機関の作動原理を解説せよと言う方が無理な話である。


 これを語るには、まず重油というのは燃焼と同時に熱とガスを発生して… という所から始めなければならない。


 機関室を見学させるなら、「これは何をやっているんですか?」と聞かれて答えられるよう準備しておくべきだったと後悔する。



 すると、見かねたらしい五十嵐が後ろからやってきて、手に持っていた針金とライターを掲げる。


「要するにだ。これを見てごらんよ」


 すると彼はおもむろにライターを点火し、針金を熱し始める。

 炎に当てられた針金はあっという間に赤熱すると、その点から形を歪め、ひとりでに曲がり始める。


 その様子を、ジルルは興味深そうに眺めていた。


「これがどこかひとつの部品で起きたら大変だから、機械全部を温めてあげようっていうのが、今やっている作業ってコト」

「そういうことだったんですね…」


 彼女はやっと合点がいったという様子である。

 やれやれと胸をなでおろしていると、こちらをジトォと見つめる五十嵐の視線に気づいた。


「10歳に応力ひずみの話をするバカがいるか」

「すんません…」


 ぐうの音もでない。

 俺は反省しながら作業に取り掛かることとした。






 温めるとは言うが、何もエンジンをバーナーで炙るわけではない。


 主機の内部に張り巡らされたLOや冷却清水の流路に、加熱したそれらを循環させるのである。


 これらは総じて60℃とか80℃くらいある流体なので、これを流しながら主機の軸をゆっくり回転させる、すなわちターニングを行うことで求める結果が得られる。


「じゃ、やってごらん」


 運転する発電機の轟音のなか、機関室下段に移動した俺たちは、ジルルにLOポンプの発停をやらせてみることにした。


 吸入弁と吐出弁を開け、モーターの始動ボタンを押す。やる作業はそれだけなのだが、まあ体験型学習というやつである。


 これから彼女は俺たちと行動を共にするのだから、海鵜丸のことはできるだけ知っておいてほしい。


「そうそう、その弁を。ホラ、もっと腕伸ばして、腰を入れて」

「むむむ… ふーっ!」


 顔を真っ赤にしながら、ジルルはゆっくりと弁操作を終える。


 どれだけ機械化や自動化が進んでも、機関室内の諸装置はそのほとんどが人力のアナログ操作だ。


 船内のあらゆる場所に張り巡らされている管路の諸弁は、その全てを自動化するにはあまりにも多すぎる。


 結局は人間がその配置を覚え、人力で開け閉めした方が効率的というわけだ。遠隔操作弁など、補助ボイラの一部や燃料油FOの危急遮断弁くらいしかない。




 余談だが、補助ボイラがあるのなら主ボイラがあるのかと言えばそうでもない。


 何となれば、船舶用語において主ボイラとは、推進用途の蒸気を発生させるものを限定して示す言葉だからだ。

 つまり蒸気タービン船など、1世代も2世代も昔の船に搭載されていたものだ。


 対して補助ボイラは、それ以外の目的に使用される蒸気を発生させる装置である。


 意外にも船内では蒸気の使いどころが多い。

暖機用のLOや清水の加熱など機関室内の用途に限らず、生活面においても、例えば風呂に使うお湯を加熱するのがそうだ。


 実は日々食卓に並ぶ米を炊く炊飯釜も、蒸気加熱式である。




 それはさておき、ジルルに機関室内を案内しながら作業を行っていたため、思ったより作業には時間がかかっていたが、どうにか主機試運転の時刻には間に合わせることができた。


 本日もプロペラ翼角は25.5度のFPP固定ピッチモード運転だ。


 本船は確かにCPP可変ピッチプロペラを装備しているが、航海中に翼角を変更することはない。CPPの性能が活かされるのは、入出港など繊細な操船が要求される場面である。


『エアランニングを行う、上段注意せよ。エアランニングを行う、上段注意せよ』


 放送がかかり、圧縮空気が突き抜ける甲高い轟音を、俺はジルルと上段より更に上のクレーン操作台で聞いていた。


 やがてその作業も終わり、主機には燃料が投入され始動する。

 ジルルはその爆音に縮こまっていたが、しばらくするとそれにも慣れ、一言「すごい…」とつぶやく。


「これが… 人の作った機械なんですね」

「そうさ。俺たちの先輩たちが、何百年も何千年もかけて積み上げてきた知識の結晶だよ」


 ドドドドと、規則的なリズムを奏でながら動く主機を見ていると、俺も感動してくる。


「まるで、生き物みたいです」

「そうだな… いい例えだ。けれど生き物と違うのは、機械は人間の言う通りに動くということだ。人間が間違えなければ機械はその通りに動く。間違えるのは、いつだって人間の方だ」


 人間は必ず過ちを犯す。

 それは当然のことだ。ホモサピエンスの本質は、旧石器時代の原始人から何も変わっていないのだから。


 しかし、その過ちを省みて、再び同じ過ちを繰り返さないよう前進できるのも、人間が持つ力だ。

 その試行錯誤の集大成が、この船である。


『デッドスローアヘッド!』


 主機は前進側に出力を得る。


 新しい仲間とともに、今度は明確な目標を持って。

 船は再び進み始めた。





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