窓の内と外、あるいは私と彼の話。

夕藤さわな

第1話

 ほとんどの時間を庭に面した窓の前で過ごす。

 あたたかな日差しにお腹を向けて眠り、風の音を子守歌にまどろむ。たまには窓の外をじっと見つめて見張りをすることもある。


 彼は毎日、夕方になるとやってきた。

 ブロック塀の上をすたすたと歩き去っていく日も、庭を堂々と突っ切っていく日もある。どちらにしろ窓の前を――私の世界を彼は一瞬、横切るだけ。


 彼を初めて見たときは警戒し、威嚇した。でも、彼は窓越しにちらっと私を見ただけでさっさと行ってしまう。


 いつもそう。


 彼が窓の前に――私の世界に現れるのはほんの一瞬のこと。警戒する必要も、威嚇する必要も、気に掛ける必要もない。

 それを知ってからは彼が通り過ぎるのをただ眺めるだけになった。


 ある日、激しい雨に立ち往生した彼が窓の前に――私の世界に長居した。庭に下りるための石段の上で濡れた体を毛づくろいし始めたのだ。


 黒猫かと思っていたけれど、お腹にだけ白い毛が生えている。

 あら、まぁ……と見つめていると、彼が黒い尻尾をゆらりと揺らして黄色い目をこちらに向けた。


「濡れねずみに興味があるのかい、白猫のお嬢さん」


 このとき初めて彼の声を聞いた。決して大きな声を出しているわけではないのに窓越しでもはっきりと聞こえる低くて良く通る声。

 私はパチパチとまばたきしたあと、白い尻尾をゆらりと揺らして艶然と微笑んだ。


「濡れねずみに興味はないわ。でも、濡れ猫になら興味があるの」


「なぜ?」


「私、水に濡れるのが大嫌いなの。あなたは好きなの?」


 彼は目を丸くすると何が面白かったのか、けらけらと笑い出した。

 そして――。


「俺も大嫌いだ」


 そう答えた。


 ***


 それからも彼は毎日、窓の前に――私の世界に現れた。

 そして雨音がする日にはいつもよりもほんの少し長居をしていった。


「最近、外がにぎやかね。なんだか楽しそう」

「あぁ、恋の季節ってやつだ。気が立ってるやつらばかりで敵わん」


「今日は日射しがあってお昼寝日和だったわね」

「あの暑さでか? 溶けるか茹で上がるかしそうだった」


「葉がずいぶんと色づいてきたわね。とってもきれい」

「あれは赤くなっても少しも美味しくならん」


「あら、雪。白くて、ふわふわしていて、歩くのが楽しそう」

「積もらなきゃいいが。踏むと冷たくて肉球が凍りそうになるんだ」


 一言二言交わしては互いに顔を見合わせて首をかしげる。そして、それじゃあ……と、言って別れる。

 彼と別れてからしばらくして、ふと彼とのなんだか噛み合わない会話を思い出して尻尾をゆらりと揺らす。


 そんな日々が一年ほど続いたある日、激しい雨に立ち往生した彼がまた窓の前に――私の世界に長居した。


 庭に下りるための石段の上で彼は濡れた体を毛づくろいしていた。私はお腹にだけ生えている白い毛をじっと見つめていた。


「濡れねずみに興味があるのかい、白猫のお嬢さん」


 彼が黒い尻尾をゆらりと揺らして黄色い目をこちらに向けた。

 私はゆっくりとまばたきした。一年前の会話を彼も覚えていたらしい。


「濡れねずみに興味はないわ。でも、濡れ猫さんの世界に少し興味があるの」


 白い尻尾をゆらりと揺らして私は艶然と微笑んだ。


「興味があるなら窓の外に出てみりゃあ、いい」


 彼はそう言って私をじっと見上げた。

 窓の内にいる私を、じっと――。


「そうね」


 私は答えて彼をじっと見下ろした。

 窓の外にいる彼を、じっと――。


 窓の外に――彼の世界に飛び込んで行ったら何が待っているのだろう。


 気が立っているよその猫たち。

 溶けるか茹で上がるかしそうな暑さ。

 赤くなっても少しも美味しくならない葉。

 踏むと肉球が凍りそうになる雪の冷たさ。


 会話に出てくることもなかった彼にとっては当たり前の出来事や光景。


 噛み合わなかった彼との会話が噛み合って。


 〝えぇ、本当にそうね〟――と、彼に向って頷いて。

 〝窓の内にいた私はこんなことも知らなかったのよ〟――と、彼に向って微笑みかける。


 そんな未来が待っているのかもしれない。


 目を細めて、彼のお腹にだけ生えた白い毛を私はじっと見つめた。

 そして、ゆるゆると首を横に振った。


「やっぱりやめておくわ。いなくなったり、事故に遭ったり、ましてや死ぬようなことがあったら家族を悲しませてしまうから」


「そうか、悲しませちまうか」


 彼は窓の内に目をやった。彼の視線を追い掛けて私は振り返った。

 そこにいるのは人間たち。体の大きさも、生きる時間も、言葉も、私や彼とは違う。でも、私の家族。


「家猫ってのは窮屈だね。うっかりいなくなることも、事故に遭うことも、ましてや死ぬこともできない」


 彼の言葉に私はパチパチとまばたきした。


「何言ってるの? 野良猫も同じよ。あなたがいなくなったり、事故に遭ったり、ましてや死ぬようなことがあったら悲しむわよ?」


「……誰が?」


「私が、よ」


 だって庭に面した窓の前で彼がやってくるのを待つ時間は、日差しにお腹を向けて眠ったり、風を子守歌にまどろんで、雨音が激しくなって彼が窓の前に――私の世界に長居しに来てくれるのを待つ時間は私にとってかけがえのない日常だから。


「そうか」


 でも――。


「なら、もうここに来るのは良そう」


 彼はゆらりと黒い尻尾を揺らして立ち上がると、止める間もなく激しい雨の中へと駆け出していってしまった。


 それきり。

 彼が窓の前に現れることはなくなってしまった。


 ***


 しばらくは淋しいと思うこともあったけれど私の前からいなくなっただけだと思えば悲しくはない。

 ある日、突然に来なくなって、事故に遭ったのか、死んでしまったのかと心配するよりはずっといい。


 そう思えるようになって気が付いた。


 多分……彼はきっと、私を気遣って姿を見せなくなったのだ。


 ***


 そのあとも、ほとんどの時間を庭に面した窓の前で過ごした。

 あたたかな日差しにお腹を向けて眠り、風を子守歌にまどろむ。たまには窓の外をじっと見つめて見張りをすることもある。


 だけど、雨が降る日に窓の前で過ごすのはやめてしまった。

 だって、どれだけ雨音が激しくなっても彼が窓の前に――私の世界に来てくれることはもうないのだ。


 だから今日も窓に背を向けるようにして置かれたソファの上で、耳をふさぐようにして丸くなっていた。

 雨の音をって聞こえてくる私を呼ぶ家族の声にのそりと顔をあげる。何度も名前を呼ばれて私はようやくソファから飛び降りると二階の部屋にあがった。


 そして――。


「大怪我した状態でうちの庭の隅っこに隠れてたのよ。事故にでも遭ったのかしらね」


 目を丸くした。

 家族の一人に抱きかかえられていたのは仏頂面の彼だった。


「ずいぶんとケガもよくなったし、うちの子とごあいさつと思ったんだけど……仲良くできる?」


 家族の言葉を聞きながら私は白い毛が生えていたはずのお腹をじっと見つめた。ハゲて痛々しい傷跡があらわになっている。


「ハゲネズミに興味があるのかい、白猫のお嬢さん」


 憮然とした声に彼のお腹から黄色い目に視線を移した。

 私はパチパチとまばたきしたあと、ゆらりと白い尻尾を揺らした。


「ハゲネズミに興味はないわ。でも、おなかの白い毛がどこに行ってしまったのかには興味があるの」


 彼はゆらりと黒い尻尾を揺らして仏頂面を崩すと苦笑いを浮かべた。


「俺も知りたいところだ。ハゲネズミのままというのはみっともなくて敵わん」


 彼を見上げて私はゆらり、ゆらりと白い尻尾を揺らした。


「ハゲネズミのままでも構わないんじゃないかしら」


 窓の外では激しい雨音がする。

 ハゲネズミではあるけれど、濡れねずみにも濡れ猫にもなっていない彼を見つめて私はすっと目を細めた。


「ハゲネズミさんでも、私はまた会えてうれしいもの」


 彼はゆらり、ゆらりと揺らしていた黒い尻尾の動きをピタリと止めて、ふいとそっぽを向いた。

 そして――。


「……そうか」


 ぶっきらぼうな声で言ったあと、黄色い目をこちらに向けるとはにかんだ笑みを浮かべたのだった。

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窓の内と外、あるいは私と彼の話。 夕藤さわな @sawana

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