第12部 黎明編 第32話

俺が暖炉の間に行くと、ミヒャエルの歌が聞こえて来た。

1週間泊まり込みで訓練をし、昨日夜遅くに帰ってきたジンコがソファに横たわり、明石が録音したミヒャエルの歌声をオープンリールデッキで再生してうっとりと聞きながら目を閉じていた。


やれやれジンコは凄く草臥れて帰って来たからな。

ミヒャエルの歌で疲れが取れれば良いなと思っていたら、はなちゃんがよちよちとソファに忍び寄り、ジンコの髪を数本掴むといきなり引っ張り抜いた。


「きゃぁ!痛い!

 はなちゃん!なにすんのよ!

 この性悪小悪魔ぬいぐるみ!

 きぃいいいい!」


飛び起きたジンコがはなちゃんに文句を言った。


「ウキャキャキャ!

 ジンコの思い出に髪の毛を少し頂こうと思ったじゃの!」


はなちゃんはそう言うと抜いたジンコの髪の毛を小さな平たい金属の箱に入れ、蓋をすると顔の隙間から着ているクマのぬいぐるみの中に押し込んだ。


「何よ~思い出なんて。

 不吉な事を言わないでよ~!

 月で何か起きたらどうするのよ~!」

「ウキャキャキャ!

 ジンコはきっとここにまた戻って来るから大丈夫じゃの!」

「…なんか…良く判らないわね…。

 でもいった~い!

 いったい何本抜いたのよ~。」


ジンコがぶつぶつ文句を言い、はなちゃんはきゃきゃっ!と笑いながらガレージの方へ走って行った。


「あら彩斗、今の見た?

 久し振りに帰って来たのにはなちゃん酷いんだから~!」

「まあまあジンコ、はなちゃんもジンコがいなくて寂しかったんじゃない?

 ミヒャエルの歌を聴いて、心を落ち着かせなよ。」


ジンコは頭をさすりながらまたソファに横たわった。


「そうね、それにしても、この歌、今まで聞いた事も無いけど素敵ね~!

 月探査に持って行こうかな?

 重量制限があるからあまり私物を持って行けないけど、景行に頼んでUSBメモリとかに入れてもらおうかな?」

「ジンコ、良いんじゃないか?

 宇宙で聞くミヒャエルの歌か…なんかとても素敵な感じだよ。」

「そうね、うふふ。」


その後、午後から『ひだまり』に出勤するジンコが髪を切りたいと言うので圭子さんとユキが裏庭でジンコの髪を切ってあげた。

すっかりショートカットになったジンコ。

やはり月での探査では髪をどんなに後ろでまとめてもロングヘア―は危ないと言う事だった。

思い切りショートカットにしたジンコは今までの優雅でおしとやかな印象からすっきり凛々しく見えた。


「さぁ、ジンコ。

 これで良いかな?

 これはこれで凄く可愛いわよ!」

「そうそう!ジンコは何だか見違えたわ!

 でも、『ひだまり』で失恋したのかとか聞いて来るお年寄りがいるかもね~!」


さっぱりしたジンコは『ひだまり』に出かけて行った。


明石はガレージ地下の一角を掘って広げたスペースに補強の梁を取り付けて壁を張り防音工事を始め、おれは俺とユキの家、クラと凛夫婦の家の工事を監督した。

栞菜はまだ帰ってこない。

恐らく正平が精魂込めてチューンナップしたRX-7が気に入ったのだろう。

考えると正平の見た目は少しおバカっぽいが純情で素直な性格は、お茶目でおバカだが純真で心優しい栞菜と良いカップルになりそうな気がする。


俺は家の工事を見ながら栞菜と正平が上手く行けば良いなと思った。

正平は栞菜の正体を知ったうえでアタックしているのでその辺りの心配はないだろう。


俺はふと、思った。

あれ?

栞菜はその…処女じゃないのか?

そして、同じく乾とデート、いや真鈴が言うには情報収集の為のドライブに出かけている真鈴の事も頭に浮かんだ。

やれやれ、真鈴も本人はかたくなに否定しているけど、やっぱりあいつも処女じゃ無いのか?


…まぁ、そんなこと考えても俺には関係ないや。

最近エロ爺みたいなことを考える自分がすこし恨めしくなった。


夕方になり、栞菜から電話が来た。

なんと、正平と大洗海岸にいて、これから正平を深海オートに送って死霊屋敷に帰ると言っていた。

夕飯は要らないそうだ。


ユキと圭子さんがキャーキャー言いながら、正平と栞菜はやっぱり似合っているかもと噂をしている。


「彩斗、栞菜と正平君、上手く行きそうだね。」


ユキは笑顔で俺に言うとアバルト500で『みーちゃん』に出勤した。


そして、リリー達と藤岡の捜索に参加している四郎が戻って来て、夕食の準備を始めた頃に真鈴から電話が来た。


「彩斗、今日は遅くなるから夕食、食べていて。」


電話に出た俺に真鈴はそう言い放つとガチャンと切れた。

横で聞き耳を立てていた圭子さんと四郎、明石がにやにやした。


「おお!栞菜に引き続き真鈴もか!」

「なんか楽しくなってきたわね!

 知っている人のコイバナは最高に面白いわぁ~!」

「うむ、真鈴も収まる所に収まるかも知れぬな。」


3人が口々にお気楽な事を言っているが、俺は真鈴が高校生の時の切ない初恋とその悲しい結末を、そして今も真鈴はその思い出を重く引きずっている事を知っている。

はぁ、どうなる事やら…。


しかし、人類文明が滅ぶかもしれないと言う切羽詰まった状況でワイバーンメンバーのコイバナを聞いてあれこれ考えて心配したり喜んだりするのも良いかもな。


1年前の俺はブラック企業で働き、あの宝くじが当たらなかったらこんな生活なんて夢にも思わなかっただろう。

そして、あのままだったら人生の先行きに夢も希望も無かったはずだ。

宝くじが当たってアルゼンチンから四郎の棺を輸入しなければ、俺は小規模ながら大家業をして、誰の役にも立たないつまらない人生を送っていたかも知れない。

時間やお金の有効な使い方も知らずに、きっとつまらない爺になり果てていただろう。


この1年近く、さんざんに恐ろしい目に遭ったし顔に酷い傷もついた。

普通ではとても考えられない世界の真実も知ってしまった。

しかし、今、命を助け合うこんな素晴らしい仲間に囲まれて、青春映画のような生活を送りながら、最強のホラー映画のような生活を送りながらも、何とか人類の破滅を防ぐために戦っている俺。


一体どちらが充実している人生なのか…。


まぁ、答えは決まっている。


この先、何が待ち受けているかさっぱり判らないが、俺は後悔はしないだろう。


どんな恐ろしい目に遭っても。






続く

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