黒球

平山芙蓉

0

 九つの黒い球体が、灰色の空に浮かんでいた。真っ黒の、面白味を感じない、球体が。そいつらは、円状に等間隔で並んでいるだけだ。揺れたり、形や配置を変えたりしそうな様子すらない。こちらから見える範囲では、プロペラとか、飛行機のエンジンみたいなものはなかった。しかも、何かしらの音さえ、発していないときた。だから、どのような原理が働いているのか、僕には皆目見当も付かない。


 球体の背後の空は、塗装屋がペンキで塗りたくったみたいに、雲が広がっている。濃淡もなく、地平線までずっとそんな調子だ。そうやって続いているのは、地面も同じだった。膝ほどの高さの、暗く、鬱屈とした緑色の草。それが見渡す限り広がっており、意地悪な微風に弄ばれながら、揺れている。


 ここは、一体どこなのだろう?


 僕はようやく、そんな疑問を抱いた。こんな場所、思い当たる節がない。そもそも、ようやくと言って良いほど、時間が経っているのかさえ分からなかった。ずっと長い間、ここに立っていた気もする。けれど、ついさっき目を覚ましたかのように、うつうつとした心地でもある。どうだっただろうか。考えてみても、答は出てこない。ただただ、湿った香が、鼻腔を擽るだけだ。


 そうして佇んでいると、背後から音が聞こえてきた。


 動物でもいるのだろうか。そう思いながら振り返ると、視線の先に亡っと伸びる人影が見えた。まだ僕との距離は少しある。輪郭からして恐らく男だ。


 ようやくその容姿が、ハッキリと見えるところまで近付くと、そこで彼は足を止める。草原には似合わない、スーツ姿だ。合っているのは、真っ黒ということくらいだろう。


「やあ」男は片手を挙げて、そう言った。手には黒革の手袋が嵌められている。


「独りかい?」僕から目を離さずに、彼は続けた。その顔には、虫を観察している子どもみたいに、無邪気な笑みが浮かんでいる。


「誰ですか?」自然と一歩、後退りながら僕は聞いた。


「うーん……、誰、と聞かれると困るね……」男は挙げた手を顎に添えて、考える素振りを見せた。「この土地の管理者、とでも言っておこうか」


「そうですか……」


 怪しい印象を拭いきれなかったが、僕は一応、納得した風な態度を取っておいた。でも、彼には全く気にした様子なんてない。奇妙な笑みを浮かべたまま、隣へやってくると、空を見上げた。僕も同じように彼と同じ方へ向く。視線の先にはもちろん、あの九つの球体があった。


「あれは何ですか?」僕は球体を見つめたまま聞いた。「管理者なら、知ってるんでしょう?」


「何に見える?」彼は聞き返してきた。


「……球体、ですかね」


「素直な感想で、嬉しいね」


「返事になってませんよ」


「そういうところも、君の良いところだ」


 男は声を出して笑う。何が可笑しいのか分からず、僕は困惑してしまった。


「あれは、あの世にある『負』そのものだ」


「負……?」僕は困惑したままだった。


「そう」彼は空に浮かんだ球体を、一つずつ指さす。「悲哀、苦難、狂気、虚無、嫉妬、後悔、恐怖、憎悪」そうして、最後に真ん中の球体へ指を向けると、彼は溜息を漏らし、「あれが、希望だ」と言った。


 思ってもみなかった答に、僕はつい、横目に男の表情を窺う。そこには、何の表情もなかった。気味の悪ささえ覚えていた、あの笑みだってない。そうかと言って、怒りや悲しみがあるのか、と聞かれればそれも違う。まるで、見飽きた映画をまた観ているかのような冷たさ。到底、同じ人間とは思えないその顔に、僕はあの笑みとは異なる気持ちの悪さを感じていた。


「おかしいと思うかい?」男は目だけをこちらに向けて、そう言った。


「一般的に希望という単語は、負の印象と縁遠い気がしますけど」


「だろうね」彼は口角を少し上げた。ウェイターのサーヴィスみたく、心はこもっていない。


「だったら、どうして?」


「人が落ちる世界と、そこに随伴する生には、あんなモノが蔓延っている。どれだけ足掻いたところで、逃れられない。見送った人間の中には、途中で全てを投げ出す奴だっていた。最初からそうなると、分かっていたはずなのにね。だけど、ここへきた人々は、あの希望を頼りにしていた。どれだけの最悪が待ち構えていようとも、たった一つの希望さえあれば、どうにでもなるってね」


 男は語りながら、球体のある方へと歩き始めた。幾ばくかの間、逡巡したけれど、僕はついていくことにする。


「希望はね、人を狂わせる大きなファクタだ。砂漠の中に一粒のダイヤモンドがあると言われて、必死に探そうとするようなものさ」


 確かにその通りだ。僕は彼の話を聞いて、そう思った。同時に、自分がどうしてこんなところにいるのか、なんてことも微かに思い出す。


 僕は終わった人間だ。それも自分の手で。理由と手段は、ほとんど憶えていない。だけど、そんな選択をしなければならないほど、僕はあの世界に絶望していたということは、確たる事実だ。


 だから、男の語る話は妙に納得できた。人間はどれだけ酷い状況に陥っても、心のどこかで希望を抱いてしまう。そいつに全て預けてみたくなる。僕だって、きっとそうだった。死ぬことだって、希望の一つだ。少なくとも、その瞬間に存在していた僕は、楽になるという希望に縋っていたに違いない。


 球体の真下で立ち止まり、僕たちは見上げる。あれは、あの世――、こちら側とは違う世界の全てを表したモノ。どこまでも黒く、暗く、表も裏もない。囲われた希望までもが、黒く染まっているのも、周囲にあるあの球体たちからは、逃れられないという暗示なのだろう。


「君はどうしたい?」隣に佇む男が、僕に聞いてきた。「あの球体に手を伸ばせば、もう一度、新しい人間として産まれられる。もちろん、ここでの記憶は消えるし、以前の君だった頃の記憶も失う」彼は僕の前に立つと、シャツの袖ボタンを外した。「でも、ここにいることだってできる。草原しかないが、話し相手には困らないだろう。遠くまで歩けば、永住を決めた人間たちだっているんだ。もちろん、私も」


「どうすれば良いんでしょうか」


「さあ……」男は肩を上げるジェスチャをした。「まあ、生まれ変わるなんて、私はおすすめしないけどね」男は笑って続ける。「でも、君が決めることだ。どうしたって、君の選択も逡巡も、誰に決められるモノでもないさ」


 僕はどうすれば良いのか分からないまま、球体を見つめた。空にあるその異物も、何かしらの答をくれるわけでもない。ただそこに、当然の如く存在しているだけだ。


 だけど、希望と呼ばれた、円環状の真ん中にある球体に、変化があった。殺風景な色合いの世界に、ほんのりと温かな何かが見える。気のせいか、と目を擦ってみた。でも、僕の網膜は、確かにその熱を捉えている。


 炎だ。


 赤とオレンジを放つ、炎。


 まるで、闇の中に現れた光のように、現象としてそこに存在している。


 あれは何か、と男に聞こうとしたけれど、彼は気付いていない様子だった。どうやら炎は、僕だけに見えているらしい。


「行きます」


「そうかい……」男は腕を組んだ。笑みは相変わらずだったけれど、そこには些か、気難しい感情が混じっていた。そんな表情を見て、僕は彼も人間なのだ、と何となく思った。「差し出がましいようだけど、理由を聞いても?」


「理由ですか……」今度は僕が難しい表情をしてしまった。「僕も希望に中てられたんだと思います」


「なんだ、私は君のことをまともと評価していたけれど……。残念だよ」


「すみません」呆れる彼に対して、僕は続ける。「でも、人間ってみんな、何かしらの希望を抱いているんじゃないでしょうか? それが、世界中の誰から見ても、陳腐な絶望だったとしても」


 僕はそう言ってから笑ってみせた。


 彼は何も言わず、静かに笑った。


「ありがとうございました」


「私は何もしていないさ」男は目を伏せて、息を漏らした。「行ってらっしゃい」


 何も返さずに、僕は球体へ――、希望へと手を伸ばす。


 揺らめく炎が、僕の身体を包んでいく。


 熱の伝う感触。


 しかし、苦しくはない。


 空気が動き、身体と世界の境界が曖昧になる。


 いつの間にか、目の前は赤い光でいっぱいだった。


 その中で、一際強い輝きを放つ九つの光が見える。


 そこへ吸い込まれながら、崩れていくような錯覚。


 僕という、存在そのものが。


 肉体も、


 精神も、


 記憶も。


 何もかもが、崩れていく。


 だけど、恐ろしいとは思えない。


 ただただ、心地良い。


 光だけが残り、


 僕は吸い込まれていく。


 生まれる。


 僕はまた、


 希望に唆されて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒球 平山芙蓉 @huyou_hirayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ