Ideal

平山芙蓉

4

 黄ばんだビニールみたいな色の空を背に、その廃教会は佇んでいた。まるで、訪れる存在の全てを、拒絶するかのように。多くの信者を受け入れていたかつての様子は、もう見る影もない。


 森に囲まれている立地のせいで、辺りは夕暮れ前だというのに薄暗い。風が吹くと、葉擦れの音が鼓膜を撫でて、平静さを容赦なく削ごうとしてくる。それはどこか、建物へ足を踏み入れようとする人間を、嘲笑っているみたいだった。もちろん、そんな子ども騙しに恐怖を覚えるほど、僕は臆病者じゃない。


 廃墟の周りには水堀が敷かれている。かなりの広さだ。溜まった水は、長い年月を経て、緑色に濁っていて汚い。そこまで深くはなさそうだけれど、水底までは見えない。息を深く吸うと、森の香の奥に、ほんのりと腐った臭が混じるくらいだ。人工のモノでなければ、もしかしたら生態系の一つでも発展していたかもしれない。もちろん、そこはそこで、狭苦しくて嫌になりそうだけれど。


 水堀の上には一本の橋が架かっている。鉄でできているみたいだけど、雨風に晒されていた上に、手入れなんてされていないから、錆びだらけだ。欄干に至っては所々、柵が折れてしまっている。橋板で見えないけれど、橋脚が危ういことも想像に難くなかった。でも、教会へと続く道は、ここしかない。崩落の危険こそあれど、腐りきった水中を泳がなくて良いだけマシだろう。


 それに、奴もここを通ってあの中へ入ったのだ。


 遅れるわけにはいかない。


「こちら、ナンバ4。突入する」


 聞こえていないだろうけれど、僕は念のために通信を入れておく。とっくに電波は圏外だ。それでも、最悪の結末があったとしても、ログくらいは残るだろう。義務であれ、期待であれ、何かを残そうと考えてしまうのは、人間の性なのかもしれない。


 銃を構えて、慎重に橋へと一歩踏み出す。橋板は不快な音を立てたが、意外にも耐えてくれそうだ。それを確かめてから、僕は教会の中に動きがないか、注意を払いながら走り出した。あいつは飛び道具の類はもっていなかったはずだ。でも、出鱈目に逃亡をするフリをして、この教会へ誘い出した可能性はある。つまり、事前に準備を整えていたって、何らおかしくはない。そうだとしたら、明らかに不利なのは僕の方だ。いつだって最悪の状況を想像するのは、僕の仕事柄、染み付いた癖と言っても良い。そうやって考えられない人間から、先に死んでいった。


 今回の任務は、猟奇殺人犯の排除だ。奴は街で無差別に殺人を犯していた。老若男女問わず、多くの人間を。被害者の中には、屈強そうな男だっていた。今まで尻尾が掴めなかったのは、奴が僕たち組織のことを知っていたからだ。それに、凶器が刃物という点以外では、遺体に何の共通性もなかったことが大きい。だけど、部下の手柄で、調査中に一人の男の名前が挙がり、組織はそいつをマークする運びとなった。そして、その疑いは決定的なモノへと変わり、発見次第、即刻処刑の命が僕へと下った。しかしながら、奴もそれを察知していたのだろう。僕が根城へ踏み込んだ時、奴に激しい抵抗をされたせいで、逃亡を許してしまい、今に至る。


 橋を渡りきって、教会の壁に身体を密着させる。正面に位置する尖塔の高さは、ざっと二十メートルくらいはあるだろうか。近くで見上げると、その威圧感はいや増した。


 入口は木製の立派な造の扉が、取り付けられている。もちろん酷く風化してあった。ノブは破損しており、機能を果していない。でも、人ひとりが入れるくらいの隙間は開いている。入口はここしか見当たらないから、奴もここから入ったのだろう。


 中へ入る。


 扉の向こう側は、エントランスホールだった。外から見て尖塔になっている入口こそ、多少の暗さを孕んでいるが、奥へ向かうにつれて、天井はステンドグラスで覆われており明るい。くすんでこそいるが、なかなかの荘厳さだ。正面中央にはカウンタがあった。受付に用いられていたのだろう。そこを中心に、二階へ上がるための階段が二つ伸びている。真正面から見ると、闘牛の角を彷彿させる形だ。全体的に、風化の影響を受けていたり、埃が溜まっているが、荒らされたりしたような様子はない。肝試しスポットとしても人気はないみたいだ。今この瞬間に、人が立ち寄っても、何ら不思議な印象はなかった。


 足音を立てないよう、気を張りながら僕は進む。エントランスに隠れられるような場所はない。他に部屋らしい場所もないから、精々がカウンタの中くらいだろう。奴もわざわざこんなところへ逃げ込んだのだ。すぐに見つかりそうな場所で、待ち伏せもしないだろう。


 そう考えても、カウンタの陰に潜んでいる可能性を、棄てきれない。僕は銃を構えたまま、そっと近寄る。床は絨毯が敷かれてあるから、幸いにも音はしなかった。


 埃はステンドグラスの色とりどりの光を浴びながら、宙を舞っている。湿気た木材の臭が、つんと鼻を衝く。知らずのうちに口が開いていて、乾燥した舌の上に、鉄の味が乗っていた。感覚を意識する度、心音は脳の深いところを目指して、血液を流す。そいつは筋肉に緊張を与え、握り締めた手の平にじっとりと汗を滲ませた。


 生きている。


 そんな実感。


 今までの全て嘘だったのではないか、と錯覚してしまうほどに、強い刺激。


 本当に、そうだろうか?


 僕は生きていたか?


 分からない。


 自分のことなのに、曖昧だ。


 だけど、この瞬間だけは僕の中で確かなモノとして存在している。


 それ以外なんて、嗜好品と変わらない。


 明日のことも、昨日のことも。


 僕を生かすための、糧にはなってくれない。


 あってもなくても同じ、無価値なモノ。


 セーフティを外すと、呼吸は止まった。


 肺に溜まる古い空気が、膨張を始める。


 引金にかけた指は、お預けをくらう犬のように、ぶるぶると震えていた。


 カウンタに身体を付ける。


 息を整えて、三つ。


 三、二、一……。


 飛び出して銃口を、カウンタの内部へ向ける。


 視線の先に、黒い髪としなやかな四肢の白。


 反射的に引金を引きそうになったけれど、慌てて銃口を上に逸らす。


 違う、対象じゃない。


 カウンタに凭れかかる人の姿を見て、僕は息を吐く。


 心臓は早鐘を打ち続けているけれど、筋肉は僅かに弛緩していた。緊張が解けてしまったのだ。辺りを見回してから、カウンタの中へ入りしゃがむと、その身体をドレスのように覆う黒い髪へ手を伸ばす。


「……人形か」


 髪の下にある顔と体躯を見て、僕は小さく呟いた。ドール、とでもいうのだろうか。関節や腹部が球体になっているタイプのものだ。背丈は実際の人間と変わらない。顔面は半分が砕けていて、空洞が広がっている。でも、残る半分の造から察するに、よほど腕のある作家に制作されたことは素人目に見ても確かだろう。女性……、というよりは、少女然とした身体つきだけど、どこか想像的な趣があった。破損はあっても、建物の廃れ具合と比べれば、汚れは少ない。棄てられたのはつい最近のことだろう。こんなところへわざわざ棄てにくるなんて、悪趣味な奴もいるものだ。


 人形に罠がないことを確認してから、舌打ちをして立ち上がる。時間の無駄だったし、気分も削がれた。分かっている。何もかもが楽しいばかりの仕事なんてない。そんな仕事があったら、それはそれで飽きてしまうだろう。


 それでも、収まらない苛立ちのままに、人形の頭を蹴った。力のないそいつは、簡単にぐらりと床へと倒れる。何度か地面でバウンドすると、中身の詰まっていない、軽い音が響いた。


 その一瞬。


 死体のように転がる人形の目が、ぎょろりとこちらを睨んだ気がした。


 気味の悪い感覚が、全身を奔る。


 そんなはずはない。


 ただの思い違いだ。


 想像以上に、このシチュエーションに気圧されているだけ。


 今までだって、こんなことはあったじゃないか。


 そう言い聞かせても、人形の姿は脳裏に焼き付いて離れてくれない。


 頭を振って後退り、カウンタから出る。何にしても、時間を費やしている場合じゃない。階段へと向かい、その先を見上げる。二又に分かれた階段の繋がる広間に、扉があった。玄関口のものに負けず劣らずの、立派な造だ。その扉も僅かに隙間が開いており、暗闇が覗いている。どうやらそこが礼拝堂らしい。


 壁際に沿って、階段に足をかけた。入口に動きはない。陽が少し傾いたせいで、屋内の影はより濃くなっている。段を踏みしめる度に、精神は冷めていき、心音も落ち着いていった。もうさっきみたいな高揚はない。きっと犯人を前にしても、変わらないだろう。これも経験からして分かることだ。


 階段を上りきる頃には、頭はすっかり冷静になっていた。扉の前に立ち、隙間から中を覗く。天井までの高さは玄関よりも高く、新月の夜空を彷彿させるほどに真っ暗だ。光を取り込んでいるのは、主祭壇の後ろにある、巨大なステンドグラスくらいだ。もちろんそれも、時間帯のせいで、機能しているとは言えない。そんな視界の悪さに加えて、長椅子や装飾などが多く、玄関口とは違って身を隠せる場所はいくらでもある。罠を張る時間だって、充分にあった。このまま無策で突っ込むのは、自殺行為だ。だけど、躊躇っているこの間にも、奴は脱出のための出口でも見つけて、逃走しているかもしれない。


 さて……、どうしたものか。


 策を考えながら様子を窺っていると、主祭壇の上に違和感を覚えた。


 何かが置かれている。大きな影。目を凝らし、その一点に集中した。


「まさか……」


 僕は扉を蹴って、中へと入る。錆びた蝶番の甲高い音が、冷静さを欠いた僕の行動を、責めるように鳴った。そんな音は無視して、僕は真っ直ぐに主祭壇を目指して駆ける。


 薄っすらとステンドグラスの色合いに染まった祭壇の上。


 そこに、奴が寝転がっていた。


 とくとくと、血を流しながら。


 僕は祭壇の周囲を回り、奴の姿を観察した。耳を澄ますと暗い液体の滴る小さな音が、一定のリズムで聞こえてくる。出血はどうやら、祭壇からだらりと投げ出された腕からのものらしい。目は閉じられており、表情は安らかだ。肌は血を失っているせいで白く、そこに赤や緑の光の色が落ちていた。さっき目にした人形の倒れた様よりも、人形みたいな雰囲気だ。


 一周してから、僕は奴の寝転がる祭壇を力いっぱい倒した。


 がたん、と大きな音が響き、男の身体が床へ落ちる。


 溜まった血液が跳ねて、僕の足元を汚した。


 ほんの僅かな時間が、スロゥに流れる。


 その最中。


 奴の瞼が開き、


 隠れていた瞳が僕を捉えた。


 圧縮された呼吸の音が漏れる。


 黒い瞳孔が、小さく絞られた。


 人形とは違う目。


 人間の目。


 生きている。


 冷めた心からの、丁寧な報告を右から左へ受け流してから、


 奴の両脚へ二発ずつ、弾丸を撃ち込んだ。


 情けない叫び声が、耳を劈く。


 続いて、両肩にも一発ずつ。


 汚れた足で、胸を踏みつける。


 抵抗する力を完全に削いでから、悶える奴の頭へ銃口を向ける。それでも男は、芋虫のように身体を捩り、僕から逃れようとしていた。もちろん、既に遅い。


「死んだフリなんかで、騙せると思ったかい?」


 僕は奴の顔を見下ろしながら言った。失血が激しいからか、息を荒げており、意識も朦朧とした様子だ。周囲をよく見ると、倒れた祭壇の近くにナイフが落ちてあった。自分の腕でも切って、死を偽装したのだろう。そして、僕の気が緩んだところを襲う、なんて筋書きだったに違いない。元々、ふざけた殺し方をするのが趣味の奴だから、僕には到底、理解ができないけれど。


「一応、聞いておきたいんだけど」僕は無駄だと分かりつつも、彼に聞く。「どうして殺人なんか犯した?」


 そう続けると、男は犬のように息を吐きながら笑った。


「おかしなことを、聞くんだな、あんたは」切れ切れながらも、男は語る。「ただ殺さなければ、ならないから、殺した。私は、そういう生き方しか、できなかった。理由は……、それだけだ」


「間違いだという認識はないのかい?」


「私は、私の世界で、正しく生きた」


「残念だけど、社会はそれを許しちゃくれない。個人が尊重される時代は、もう終わった」


「ならば、あんたが今、している行為は、正しいことなのか?」


「……仕事だ」


「羨ましいね」


「自身のためだけに生きる人間を、必要とするような世の中じゃない」


「そうやって言い聞かせてるんだ、あんたは」


「何?」男の言ったことに対して、つい眉間に皴を寄せてしまう。


「あんたは、この仕事を、楽しんでるんだろう? 社会のためだ、とか、正義のためだ、とか言いながら、銃を撃って、殺すことに、喜びを覚えている。違うかい?」


「厭味のつもりなら、チープだね」


「そうかい……?」男は力なく、首を横に振った。僕にも彼が理解できないように、彼にとっても、僕のことが理解できなかったのだろう。今際の際だというのに、それをジェスチャするなんて、本当に狂っている。


「言い遺すことは?」


「私は、あんたに生まれたかったよ」男は喜ぶように、目を閉じて笑った。


「僕は、君に生まれなくて良かった」僕は冷めた心で、口をきつく噤んだ。


 それ以上は、必要なかった。


 会話が死んで、

 言葉が死んで、

 時間が死んで、

 最後に、意味だけが残る。

 僕が奴を殺さなければならない意味と、

 奴が僕に殺されなければならない意味が。


 そうして、僕はその意味を噛み砕くことなく飲み込む。


 生きている、なんて解釈をして。


「さよなら」


 引金を引く。


 一発。


 眉間に穴が開き、頭蓋骨が弾ける。


 薬莢の転がる軽快な音と、


 火薬の甘い香が、


 感覚の内側へと広がっていく。


 煙はこの場に蔓延るどんな暗闇よりも、深い穴へと吸い込まれる。


「ナンバ4、任務完了」


 相変わらず、繋がっていない無線に報告を入れて、僕は息を吐いた。男の死体から足を退け、頭を擡げる。視界一杯に、聖書の一場面を象ったステンドグラスがあった。そして、その下には人々に崇められていたであろう、主の像。


 彼の目は、僕を見ていた。


 その仄暗い瞳に映る自分の姿を想像して、


 何故だか僕は、責められているような気分になる。


「やめてくれよ」


 殺さなければならない人間を、殺しただけなんだ。


 人を消すことが、僕の役割なんだ。


 正義のために。


 社会のために。


 そうやって自分を殺して、この仕事をやってきた。


 自分を殺せない奴が、他人を傷付ける側に回る。


 きっとこれからも、僕はずっとこの仕事を続ける。


 ……続けられる。


「そうさ」


 僕は男の死体を蹴った。


 見開かれた目が、僕を睨んだ。


 人形のように、無機質な目。


 それでも、人形ではなかった、生者の目。


 世界から拒絶された、愚者の瞳。


「僕はお前の、理想さ」


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Ideal 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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