第5章 クロイツェン公国:Kreuzen Fürstentum
俺はまだ眠っているのだろうか。
あの襲撃の後、俺は眠り落ちてから見続ける悪夢から目覚めることができないでいた。暗闇の中、俺は全身の血管を駆け巡る痛みと、両眼が焼ける熱傷の痛みにもがくことしかできなかった。
何とかして乗り越えなくては、ユカシルを、みんなを救わなくては。
『生きたい、生きなくてはならない』……俺はその事だけで頭が一杯になっていた。
どれくらいの時が経ったのだろうか、俺の鼻を芳ばしい香りがくすぐるのと共に急速に痛みが薄れていき視界がぼんやりと戻ってくる。
夢から醒めた俺の目の前に映ったのは、怯えた様子でこちらを見つめる一人の少女だった。
「きゃぁぁ! こっちに来ないで! この、バケモノ!」
「……お嬢さん、俺はレーベン騎士団団長、エルバードだ。落ち着いて、俺は何も君にしないから。」
俺は混乱した様子の彼女を落ち着かせようと試みる。無理もない、あの火の海のことを俺だって忘れるわけがない。
きっと彼女は『あのバケモノ』と混同してしまっているのだ。だから、俺がついていてあげなくては……そう思い彼女に近づこうとするとうまく足を動かせない。俺は足元が何かでぬかるんでいることに気がつく。
なんだ、これは……なんなんだ、この魅了される感覚は…………?
「う、嘘つかないで! だって、私見たんだもん! あなたがそこの人達をグチャグ
チャにして食べているところを‼︎」
……俺が、人を食ったのか? まさか……な。
先程まで悪夢の中にいたというのに、その時の俺には意識が無かった。しかし、よく考えるとなぜ俺は今、屋敷の外ではなく知らない屋内にいるのか。
……このことに対する『解』がまとまらない。
いや、自分がまさか奴らと同じ『バケモノになっているかもしれない』ということを認めたくなかった。
「……お嬢さん、すまない……鏡はあるかな。」
「……え、鏡? なんで今そんなこ……」
「いいから! 鏡を、貸してくれないか。俺は、今の自分の姿を確認しなくてはな
らない。ただそれだけだ。お前を食ったりはしない!絶対に約束するから!頼
む!」
……そうだ、俺は確かめなくてはならない。
少女は俺に怯えながら洗面台にある鏡の前に案内してくれた。
俺はその鏡に映る今の自分の姿に絶句した。
切り裂かれたはずの右半身が、何事もなかったかのように綺麗に繋がっている。
耳は尖った形に変貌し、緑色だったはずの瞳は紅く鈍い光を放つ。
血がついた口には2本の大きな八重歯が生えている。
黒いはずの髪の毛先は返り血で紅く染まっている。
戻った部屋には形の違う腕と脚が合わせて十本、無作為に転がっていた。
……今足元に転がっている人たちを本当に自分が食い殺したのか?
少女が見たのは、悪夢にうなされている俺を見つけ、看病していた五人が目覚めて唸り始めたところを取り押さえようと一斉に向かって行ったのを、俺が腕を一振りしただけでバラバラにしてしまうところだったと言う。豹変した騎士団長が領民を手にかけたのだ、さぞ怖かっただろうと思った。
……しばらくして俺は少女の悲鳴を聞きつけた民衆に取り押さえられた。地面に頭を打った衝撃で流血した。が、吸血鬼になって得た再生能力なのだろう、瞬きもし
ないうちに俺の傷口は塞がった。それを見て周囲の民衆がざわついた。
俺が大人しくなったのを見計らい、死も覚悟の上で突入して来たのだろう。俺の頭を押さえつける大柄な男の手は細かく震えていた。
当然、俺は抵抗しなかった。領主になるはずの者が領民を手にかけたことなど、たとえそれが無意識によるものでも、決して許されることではないと俺はわかっていたから。
***
拘束された後、俺は騎士団領地内に焼け残った騎士団寮の牢屋に入れられた。隣の牢には俺以外に吸血鬼にされてしまった領民たちがいた。
バケモノを感染されたのは俺だけではなかったらしい。
奴らはレーベンの人口の四分の一を吸血鬼に変え、三分の一を殺戮・誘拐した。残された人間の領民たちは俺が眠っていた三ヶ月間、吸血鬼になってしまったものを見つけては裁判にかけたそうだ。
人を襲わなかったものは牢に繋ぎ留め、人を食い殺したものは十字架に磔にされ、火炙りにして処刑してきたという。明日、俺はその裁判にかけられる……その判決は明らかだった。
裁判待ちの者が入っている自分の牢の中を見渡していると、隣の牢の中で独り座っているラミアを見つけた。
「……ラ、ラミア! ラミアか! 俺だ! エルバードだ‼︎ 聞こえるか!」
俺がすかさず声をかけるとラミアも気がつきこちらに向かって駆け寄ってくる。
彼女の青かった瞳も今は紅く染まっていた……再会した彼女も吸血鬼になっていた。
「エル! よかった、お前、無事だったんだな! 良かった……本当に良かった!」
互いが生きていることに安堵した。まるであの奇襲の時のように。
「私は磔にされずに済んだよ。目覚めた時に隣で一緒に倒れていたハインツを、噛
んでしまったが……アイツも吸血鬼にされていたから殺さずに済んだよ。私たちに
は罪を問わないって判決が出て今ここにいるんだ。」
ラミアは少々興奮気味に鋭い牙を覗かせながら色々話してくれた。
よく見渡すと隣の牢でラミアから少し離れた場所に座り込む彼の姿が見えた。ハインツも吸血鬼になってしまったのか。しかし、二人が生きていることを確認して俺は安心して深くため息をつく。
「お前は? エル。随分と長く眠っていたみたいだが……ユカシル、見つかったの
か?」
「……いや、それがまだなんだ。ついさっき目覚めたばかりで取り押さえられ
て……」
二人で覚えていることを話している途中、ラミアが俺の言葉に引っかかる。
「『取り押さえられた』? エル、まさかお前……」
俺はラミアにあの火の海の中で何があったのか、目覚めてからの事も全て話した。ラミアは最初のうちは静かに聞いていたが、途中から目に涙を浮かべて聞いていた。
「そうか、お前も辛かったな」と牢の柵越しに手を伸ばし、泣いて濡れている俺の頬を拭った。
初めて誰かに自分の境遇をわかってもらえた気がした。
いや、この感覚、初めてじゃないはずだ。
クラエルがいた頃はよく彼女にこうして慰めてもらっていたっけ。
彼女がいなくなってからは、ユカシルが毎晩俺の部屋にやって来て、でも、でも、ユカシルは白い花に囲まれて、俺はひとりになって。
もし、もし、彼があの火の海に溺れてしまっていたら。
どうしよう、どうしよう、俺はまた大事なものをこぼしてしまったのか。
俺はラミアの前で散々泣いた。
***
久しぶりに泣いて泣きつかれていた頃、俺が入っている牢が開く音が聞こえた。
そこに入って来たのは……ユカシルだった。
俺は咄嗟にユカシルの元に走っていく。そのまま抱きつくとユカシルも力強く俺を抱き返した……良かった、本当に、良かった!
「ユカシル! お前、無事だったのか! よかった……本当によかった……。」
「兄様! ユカシルはいつでも兄様のそばにおります! 約束、ですから!」
ユカシルと再会を果たした後、俺はユカシルがここに連れてこられた経緯を聞いた。ユカシルはあの晩、病室のベッドで寝ていたところを襲われたそうだ。彼は病で体の自由が効かないので当然のことながら抵抗することはできず、されるがまま、あの金髪の吸血鬼に血を入れられたという。
その後は俺と同様、全身の痛みと目が焼けるような感覚に襲われる悪夢を見ていたが、俺と違うところは二つ。ユカシルは目覚めた時もベッドの上であり、人を襲ってはいなかったこと。気がつけば身体中にあった白い花は枯れて、体の痛みも無くなっていたことだ。
ユカシルは紅くなった瞳を向けて俺と言葉を交わす。
これから俺たち兄弟はどうするべきか。
ユカシルは人喰いにはなっていない。
しかし俺は無自覚ではあるが人を食い殺してしまった……確実に俺は処刑されるだろう。
だが、ひとつ。俺は自分の体に違和感を覚えていた。
牢にいる他の吸血鬼たちは怪我がまだ完治していない者もいた。隣の牢で近くにいた者から柵越しに話を聞くと、確かに人だった頃よりは疲れを感じにくく怪我の治りも早いが、拘束された時の俺のように瞬時に怪我を治すことはできないようだった。
もしかしたら、自分は十字架に磔にされ焼かれてもなお生き続けることになるかも知れない。
また、吸血鬼は本来、人の肉を必要とするわけではないようで、人の血を飲むことで吸血鬼特有の『渇き』を抑えることができるようだった。
まだ一度も血を口にしていなかったユカシルは俺の血を飲んで渇きを抑えた。血を吸われる時、頭の中が真っ白になるような感覚は少し苦手だが、ユカシルが苦しむ姿はもう見ていられない。今自分が彼にできることはこれくらいしかないのだと、この恍惚感に俺は身を委ねることにした。
他の者たちも最初にはじめたラミアとハインツに倣ってお互いの血を少しずつ分け合っているらしい。だが、それにも限界はあるようで、体内の血が枯渇し渇きを抑えられなくなると自我を失ってしまい、俺たちが来る少し前に牢の中で殺し合う者がいたという。
……目覚めた時の俺もおそらくその渇きから自我を失い、本来殺す必要のない人の肉を欲してしまったのだと思った。
俺は、罪を犯した。その事実は変わらない。罰も当然受けるつもりだ。
しかし、かつて同じ人間であり、同じ領民だった者たちが傷つけ合い、殺し合うのは間違っている。と俺は思う。
もう父上に代わって領主になる資格は無いかも知れないが、俺は罰を受けて、生まれ変わって、新しい領主としてちゃんと領民と向き合って手を取り合いたい。
……きっと父上もそう望んでいるはずだから。
「ユカシル、俺は明日、ここにいる人殺しになってしまった者の分も含めて罰を受
けるよ。」
俺から吸った血がついた口を拭うユカシルに告げると、ユカシルは俺に似た大きな瞳を更に見開いて顔を覗き込んで来た。
「でも兄様! そしたら兄様は死んでしまうでは無いですか!せっかくこうして病
も乗り越え再会できたと言うのに……」
彼は悲しげに瞳を揺らし背に生えた黒い翼をばたつかせる。
「いや、ユカシル。明日の処刑で俺は『死なない』。正確には『死ねない』んだ。
この体の再生能力、吸血鬼の中でもかなり異常なものだと俺はみた。明日、皆が殺
した人の数だけ灰になろう。おそらく何度も気絶することになるだろうが、きっと
再生してみせる。
俺は人殺しの罪人だ。死なない身体であるとしてもこのまま何も罰を受けず生き
続けるなんて俺はしたくないんだ。
……それに、このままじゃここは終わりを迎えてしまう。俺は罰を受けて、新し
い領主として生まれ変わって、なんとしてでも、ここの民同士の傷つけ合いを止め
たいんだ。
……だから、この可能性に、俺のこの体に、俺は賭けてみたい。」
俺がユカシルにそう告げると、彼は小さな手で俺の手を握る。
「兄様……わかりました。ならば僕も覚悟を決めましょう。兄様が炎の中に行くと
言うなら僕もついて行くまでです。」
ユカシルは俺が言葉を言う前に、すかさず彼はその小さな手で俺の口を塞いだ。
「僕はレーベンで唯一、あの不治の病を乗り越えたのですよ? それに僕は兄様の
弟です!あなた一人に罪は背負わせない。
……ともに罰を受け生まれ変わるのです。この地の盾となる『守護者』とし
て!」
***
翌朝、俺とユカシルは牢から連れ出された。
その裁判を見届けるために領民全員と牢の中の吸血鬼たちも全員集められた。
俺たちは民たちと約束をした。
俺の罪に加え、牢にいる者が人を喰い殺した罪も全て俺たち兄弟で引き受ける。磔刑と焼身刑を受ける代わりに、もし生きていたなら俺にここの領主として吸血鬼たちと人間が共存する道を模索させてほしいと。
人間側に何の損失もない提案であったことと、今までの吸血鬼たちがそうだったように、吸血鬼が処刑されてもなお生きているわけがないと知っていたので、この約束はあっさり受け入れられた。
裁判は淡々と進み、吸血鬼に殺された者の名前が読み上げられる。家族を亡くした者、親しい者を亡くした者、それぞれ思いを重ねる者たちから、俺たちはさまざまな感情の混ざる眼差しを浴びる。
読まれた名前の数は百を軽く超え、読み上げ終えた時、最初十字架の長い影を作っていた太陽は処刑台を真上から照らしていた。
とうとう俺たちは大きな十字架の前に立たされた。
十字架に縛りつけられたあと、松明を持った執行官が現れる。執行官の隣には数名の薪くべ係もおり、二人の十字架に執行官の松明で火が付けられた。薪くべ係が用意していた松ぼっくりに松明の火が移る。その小さな火は徐々に大きな炎に変わり、その業火は十字架に縛られた俺たちを包んでいった。
気がつけば隣のユカシルがこの眼に映らなくなっていた。
また現れて、また失明して……
無意識に広げた翼が焼けて焦げ臭い。
伸びた爪は縄を捉えず自身の皮膚を引き裂いた。
喉が渇いてもここには何も無い。
牙は何度も炭化しては漂白された。
__炎の中に包まれて、どれくらい経っただろうか。
俺たちの身体は燃焼と再生を繰り返していた。
何度も意識は飛んで、炎の中で焼かれる痛みと再生する痛みで目を覚ます。
兄弟であるユカシルもやはり俺と同じく再生能力が異常だった。
俺たちは『死ねない』身体になっていた。
この時、やはり俺たちは正真正銘のバケモノになったのだと理解した。
二人の悲痛な断末魔が、夜通し響き渡った。
***
用意されていた燃料が尽きた頃、ようやく俺たちを包む炎は火に戻っていった。煤だらけになった身体には、五日間に渡り焼かれ続けたと言うのに火傷の痕の一つもなく、俺たち兄弟は処刑前の姿のままだった。
原型もわからなくなった十字架の灰の山から二人は這いずりだす。
それからゆっくりと立ち上がった俺は、そんな姿のバケモノ二匹をみて唖然としている民衆に向かって宣言した。
「ここに、吸血鬼と人が治める国、『クロイツェン公国』の建国を宣言する!」
空高く挙げた人差し指に、先程まで茫然としていた国民たちは目を停めず、『何か』に気づいた様子で俺から目を背け始める……
どこか体を再生し忘れたか? 自分の体を診ていると、群衆を掻き分けて赤面したハインツが毛布を俺に届けにきた。
「あの……我が君主。建国宣言をされた直後で大変申し上げにくいのですが、そ
の……裸で宣言は少し、いや、かなりお恥ずかしいかとっ‥‥‥‼︎」
俺は咄嗟にハインツから受け取った毛布でその身を包む‥‥穴があれば入りたい気分だ。俺は赤面するよりも先に自分が裸で宣言する姿を想像して思わず笑ってしまった。
すると、灰まみれになって横たわるユカシルも、赤面していたハインツも一緒に笑い始めた。
その笑いはだんだんと広がり、久しく笑える者が居なかったこの土地に、新たな裸の君主への笑いの声が響き渡るのであった。
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