第3章 白死病:Todesangst
分厚い雪雲が覆う昼過ぎの寒空の下、俺は騎士団の病棟に向かっていた。自分の怪我の治療をする為ではなく、人の見舞いの為に。
____星暦一五六七年、レーベン一帯には流行病が広がっていた。
『白死病』と呼ばれる病で、全身に病原体の真菌が作り出す花のような形の白斑が広がり、全身の養分をその『白い花』に吸収され、やがて死に至るという病だ。この病に罹った者の特徴である全身にできる白斑からこのように呼ばれている。発生から一年経った今も未だ治療法は見つかっておらず、俺の母上も去年この病に倒れこの世を去ったのだった。
俺は目的の病室に着いた。ノックすると「どうぞ」とか細い声で返事が聞こえた。病室に入ると、ベッドに横たわるクラエルが俺を見つめていた。
「今日の調子はどうだ? クラエル。今日もお前の大好物のリンゴを持ってきた
ぞ。今から剥いてやるからな。」
「あら、エルバード様……今日も相変わらずこのような私の元にいらして…………
ごほっ、ごほっ!」
彼女は激しく咳き込む。最近症状が悪化しており、話すことも辛そうな様子だった。俺は座ろうとした彼女をベッドに寝かせる。
「あぁ! クラエル、あまり無理をするな。いいんだ、こうやってお前に会えるだ
けでも俺は嬉しいんだ。」
「……あら、なんて優しいお言葉。私のこと、そんなに想ってくださっているの
で?」
クラエルは無理矢理な笑みを浮かべて俺を見つめる。
「……まぁ、なんていうか、そうだなぁ。俺は早くお前の祈りの言葉が聞きたいと
いうか、また俺とラミアのことを見守っていて欲しいっていうか……とにかくあれ
だ、いつものお前に戻ってくれるまで俺は毎日来るからな?」
俺は彼女に伝えたいことがたくさんあってうまくまとまらない。整頓されていないままで答える俺を見て彼女は悲しそうに微笑んだ。
「……ふふ、ご好意は受け取りますわ。でも、この私の病。このレーベンにおいて
完治した者などいませんのよ? ……そのことは博識なエルバード様は分かってお
いででしょう?」
クラエルは白死病に罹ってからずっと俯いたままだった。
いつも俺とラミアの喧嘩を制裁しにやってくる彼女のはつらつとした性格がまるで嘘だったかのように。
俺はクラエルが罹っている病の恐ろしさを知っていた。このレーベンの地で白死病が完治したものは居ない。俺の母上は最初の感染者で俺が訓練に赴いている最中にこの病に殺された。その後次々にレーベン内の者が病に伏せ、助かった者は居なかった。
俺は母上の時のように大事な人を看取れなかった悔しさから、こうして毎日訓練をサボってクラエルの病室に足を運んでいるのであった。ラミアからは「騎士団団長なのだから、いい加減、お前は訓練に来い」と毎朝催促されているのだが、俺はそんな気にはなれなかった。
「…………こんな治る見込みのない者など放っておいて、貴方様は姉様の側に戻っ
て、訓練をもっとして、レーベンを守るためにもっと強くなるべきですわよ……」
暗い瞳を懸命に揺らしてクラエルは俺に訴える。『放っておいてほしい』という聞き捨てならない言葉と、戦いを好まない彼女らしからぬその意見に俺は反射的に否定する。
「そんなこと、冗談でも言わないでくれ!!」
俺はさっきまで持っていた剥きかけのリンゴとナイフを、ベッドの隣にある机の上に置いて彼女に向き直った。
「俺はもう、大事な人を、愛する人を、自分の目の届かない所で失いたくないん
だ。母上は、俺が訓練をしている時に亡くなった……君と一緒に居させてくれ。俺
に看病させてくれ……」
「…………エルバード、様……ごほっ、ごほっ!」
俺は起きようとするクラエルをベッドに寝かせると、再びリンゴの皮を剥き始めた。しかし、いつもはうまく剥けるはずなのに、今日は自分の左手の親指を切ってしまった。リンゴに紅い自分の血が滲む、きっと焦っていたのだろう。俺がしっかりしなくてどうする。
「すまない、このリンゴは食べられなくなってしまったな。」
俺がクラエルに微笑みかけると、彼女はどこか泣き出しそうではあるが先ほどと変わらず病魔で虚ろになってしまった光のない無機質な瞳で俺のことを見つめる。
……するとしばらく経ってから彼女は口を開いた。
「……エルバード様、今日はもうお帰りください。そんな小さな刃物も上手く扱え
ぬ姿は滑稽ですわ。騎士団長ともあろうお方がこんなことではレーベンはきっと守
れない…………私、貴方様に失望いたしましたわ。」
唐突に彼女が口にした僻事はすぐに理解ができなかった。きっと何かの間違いだと。俺は手を止めてもう一度彼女に問う。
「……お前、今何て言った? もう一度言ってみろ。」
「貴方様に失望した、もう二度と来ないでください。と申したのです……ごほっ、ごほっ!」
彼女の咳き込む姿も気にせず、俺は持っていたナイフを机に突き刺す。剥きかけのリンゴを押し付けるようにクラエルの膝の上に置いた。
「……そうか、俺に失望したのか。俺はお前のことを想って毎日来ていたと言うのに……失望したのは俺の方だ!『もうお前の顔なんか見たくもない‼︎ 二度とな!』」
俺はクラエルに吐き捨てるとさっさと病室を後にした。せっかく俺が訓練をせずに見舞いに行っているというのに、あんなことを口にされるとは思いもよらなかった。
しかし、今日のクラエルは様子がおかしかった。いや、今日だけではない。病に伏せてから彼女の目には以前のようなあの光が消えてしまったのだ。
聖女の式典が行われてから六年後。俺が十六になり、クラエルが十五になる一ヶ月前、去年の十一月にクラエルは白死病に罹った。毎日怪我人の看病も平和への祈りを欠かさなかった彼女が、聖女様がなぜこのような病に侵されなくてはいけないのか、領内は大きな不安で溢れかえた。
その心の不安定と、死に対する恐怖心とが相まってレーベン内の治安は悪化し、白死病による自分の死を恐れ、病気の有無に関わらず白斑のあるものが殺害に遭う事件が至る所で起きていた。彼女にはその事を隠すよう病棟の者に俺は伝えていたが、病室に入ってから彼女の瞳から徐々に光が失われていくのを、俺は見舞いに行くたび感じていた……おそらく、彼女は知っていたのだろう。
そんな彼女を励ましたくて、俺は見舞いのために訓練を休むようになり、こうして毎日見舞いにきていたと言うのに。俺は彼女の冷たい態度に腹を立て出ていった。しかし、先ほどの冷たい彼女の言葉の中にちらついた悲しげな表情が頭から離れなかった。
***
ニューゲート家の屋敷にたどり着くと、弟ユカシルが俺の後をついてきた。
ユカシルは俺よりずっと幼いはずなのに、いつも俺のことを気にかけては相談に乗ってくれる、大事な心の支えになっていた。
俺が騎士団長になったこともあり、ユカシルも父上に背中を押されて騎士団で訓練に励んでいたのだが、やはり剣技は思うように振るわなかった。だが、彼は人付き合いが不器用な俺とは正反対で人の感情を読み取る能力に長けており、この荒れてしまったレーベンの治安維持にあたり疲弊してしまった騎士団員の相談役を引き受け、騎士団全員の心の支えになっていた。
「兄様、これ、ラミア様からのお手紙です。」
ユカシルは自分の部屋に入ろうとする俺の目を見つめようとしてきたが、俺はさっきのこともあり彼に背を向けて話していた。
「ユカシル、今はそっとしておいてくれないか……頼む。」
「……クラエル様と何かあったのですか?」
弟は俺の素っ気ない態度に構わず言葉を続けた。しかし俺も背を向け続けて口を開いた。
「いや、何もないよ。いつも通りさ。」
「……本当に何もなかったのですか? 僕はそうは思えません。」
流石、彼は鋭い。でもこの感情、兄の俺が弟の彼に見せるべきものではない。俺は黙ったまま自室の扉に手をかける……
「では、兄様。先ほどからなぜ泣いているのですか?」
「……‼︎」
ずっと背を向けていたはずの彼に指摘されて思わず振り返った。先刻切ってしまった左手で自分の顔に触れると、頬は涙が通ったのか濡れていた。
……傷口に触れた塩水が沁しみて痛い。
俺がひどく驚く様子を見て、ユカシルは俺の右手を掴むと、俺の目を見て話し始めた。
「やはり、クラエル様と何があったのですか?」
俺は左手で涙を拭うとユカシルに握られた右手をそっと離して自室の扉の取手に再度手をかける。
「……言葉が、まとま、らないな……すまない。」
「……そうですか、とりあえず手紙だけ渡しておきおます。……また落ち着いたら
聞かせてください。」
そうユカシルは言って手紙を俺の左手に握らすと、静かに部屋の前から離れていった。扉を開けて部屋に入って、ようやく俺は自分の頬を右手の袖で拭った。
……俺は無自覚にもこんなに泣いていたらしい。手紙の封を開けることなくそれを握り締めたまま自室のベッドに飛び込んだ。
どうして俺は泣いているのだろう……騎士団長が情けない。
クラエルにどうしてあんな酷い言葉を吐いたのだろう。
明日でいい、クラエルの本当の気持ちを聞きにいかなくては__
グルグルと思いを巡らすうちに、とうとう俺は泣き疲れて寝てしまったらしい。目が覚めた頃には朝日が昇り切っており、鳥の囀りが部屋に響いていた。
__早く、早くクラエルの元へ。
俺は行かなくてはならない。
やはり彼女にはいつまでも俺たちの光であって欲しいから。
雪が降りしきる中、俺は足早に彼女がいる病棟へ向かった。
ひどく冷たく、無機質な景色の中。
紅く咲く、一輪の花を見つけた。
それ は俺の足の先に咲いていた。
俺は悪夢の中にいるのではないかと思った。
でもそこにあるのは、紛れも無い現実だと、それを抱き上げて自覚する。
それは冷たく、触ると自分の手も凍ってしまいそうな程時間が経っていた。
それの表情はとても穏やかで、病の痛みに苦しむ以前に見せていた安らかな表情だった。
それを抱えて、俺は今までに無いほど大声で泣いた。何もかも忘れて泣き続けた。
俺が□□を抱き抱えてどれくらい経ったのだろう。気がついたら病室のベッドの上にいた……彼女が居るはずの病室のベッドの上に。
医者曰く俺は吹雪の中、□□を抱えているところを搬送されたそうだ。あの猛吹雪、泣き疲れて気絶するまで外にいた俺は低体温症、四肢の凍傷になっていた。あと一刻でも遅ければ死ぬかもしれない状態で見つかり急いで処置をしたそうだ。後遺症は残らないそうだが四肢の凍傷が酷く、しばらく剣は握るなと言われてしまった。
俺は現実を受け入れられず茫然としていた。彼女は死んだ。自ら。この窓から飛び降りて。昨晩は新月だった。真っ暗闇の中、誰にも看取られず冷たくなっていたのかと思うと、嗚咽が混ざり寝汚い。誰にも聴き取れない言葉が口から溢れて。昨日彼女と交わした『最後の言葉』が悔やまれる。
まただ、俺はまた大事な人の最後で寄り添えなかった。
だが、後悔しても遅いのだ。その命は、その魂は一つしかないのだ。
どれだけ願っても、その人達には、依然、会えないのだから。
***
彼女の死から二日ほど経ち、俺の体が少しずつ動くようになった頃、ベッドの脇にあった机の引き出しからあの白金の十字架と手紙が見つかった。ひどく崩れた文字だったが、俺には文字を見れば読み始めて直ぐに差出人がわかった。
『拝啓、エルバード様。
今日はあのような失言をしてしまい、ごめんなさい。
私の一方的な感情で貴方を怒らせてしまいました。私は聖女失格ですね。
ごめんなさい。
私は病室でこの領地で何が起こっているのか全部耳にしました。エルバード様が
口止めなさった騎士の方を少し揺さぶって。あの方は悪くありません。私がただ知
りたかったのです。
次期領主となる貴方の妻として、この領地のことを知らずに過ごすのが嫌でたま
らなかったのです。本当にごめんなさい。
私は聖女でありました。ここレーベンの領民の希望であらねばなりませんでし
た。しかし、私が不治の病に伏せてしまったことで、レーベンに混乱を招いてしま
いました。これは次期領主である貴方にとって多大なる問題であり、その原因であ
る私は、もう貴方についていてはいけないと感じてきました。
それに加え、貴方がこの裏切り者の私のために貴重な鍛錬の時間を使って会いに
きていること。それはレーベン存続にとって、大きな損害であり、連れ添い、支え
るべき立場の私が、貴方の足枷になっているとも感じてきました。
私の身勝手な判断で貴方の想いを踏み躙ってしまって後悔しています。
でも、どうかわかって欲しいのです。このレーベンには貴方が必要なのです。ど
うか私のようなものに構わずレーベンのための希望であってほしい……と言っても
貴方は聞かないでしょうね。お姉様の挑発を受けても私のところにやってくるので
すから。
エルバード様とお姉様の喧嘩の仲裁をしていた頃が懐かしく思えます。私はあの
頃、喧嘩などやめれば良いのにと思っていましたが、今となってはそのありふれた
日常でさえ愛おしいのです。楽しかったのです。貴方のおかげで素敵な時間を過ご
させていただきましたこと、とても感謝しています。
私はもう貴方とお姉様の喧嘩の仲裁はできませんが、どうか私がいなくなった後
もお二人で支え合い、強く生きてください。ハインツもユカシルもきっと勇猛なあ
なたたちについて行くでしょう。この十字架は貴方に託します。私にはとても相応
しくないものですから。
どうかこの身勝手な私を許してください。
今も私はエルバード様を変わらず愛しています。
どうか、お元気で。
クラエル・ルーファス 』
手紙の文字はひどく崩れており、読むのもやっとなほどであった。クラエルの白斑は右手にも進行していたのでその痛みからであろう、以前のような綺麗な文字がそこには無かった。
手紙には涙で濡れた跡が何個も残されていた。彼女は手紙を書いている時、一体何度泣いたのだろう。
俺はこの手紙を見て立ち尽くした。彼女の心になぜ寄り添えなかったのか、自分自身に対する罵詈雑言、醜い言葉が頭の中に駆け巡る。その後に、深い、深い後悔が心の中で渦巻いた。
***
クラエルの死から四日後、彼女の葬式が行われた。
俺はユカシルと一緒に教会に向かった。聖女の行進の時のような人だかりは無かった。白死病が感染ることを恐れたのだろう。ルーファス家とニューゲート家以外にその葬儀に来るものはいなかった。皆クラエルに救ってもらったことがあるのにも関わらず。
……人間、時に残酷。なんて薄情なものだ、と。一人間である俺は白百合を握っていた。クラエルが入った棺桶を埋める時、悲しいはずなのに涙は枯れ果て出なかった。
ラミアは何も言わず空を仰いでいた。
ハインツは大泣きして式服がずぶ濡れになるまで泣いた。
ユカシルは俺の手を強く握って静かに涙を流していた。
葬式が終わり、俺はクラエルの手紙をポケットから取り出し眺める。
あの手紙はラミア、ハインツ、ユカシルの三人には二日前に俺が発見した後、見舞いに来た際に見せてあった。
ラミアは俺の頬を殴り「俯くな馬鹿、クラエルが怒るぞ」と鼓舞し、
ハインツは俺に向かい合い「貴方のせいじゃない」と励まし、
ユカシルはただ俺の隣で何も言わず寄り添ってくれた。
誰一人として俺に『罪』を問うものはいなかったのだ。
しかし、クラエルの『死のキッカケ』を作ったのは自分ではないのか。
『この罪』は俺自身が背負って生きていかなくてはいけない。
俺は彼女が残した手紙を細かく破って宙に捨てた。
雪の中に消えていくその紙片を俺は乾いた目で見つめていた。
この罪を忘れないように。前へ進むために。
紙片が見えなくなってもなお、彼女に託された十字架を握りしめ、脳裏に焼き付けるかのようにその欠片の軌道を眺め続けていた。
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