第1章 金騎士と帝国:Der Anfang

 カーテン越しに柔らかい光がほの明るい黒髪を照らしている。少年は朝日に包まれたベッドの上で緑眼をゆっくりと開いた。


 俺はエルバード・ニューゲート。ここ『レーベン騎士団領』の領主、エトワール・ニューゲートの第一後継者候補である。

 今日は一人前の騎士になるための試験を受ける日だ。俺は昨日は夕暮れまで、後継者としてこの試験に何としてでも受からなくてはならないと、散々父上から特訓を受けた。しかし俺はその疲れを無視して日課の夜の読書に勤しんだ。昨晩の俺は……一ヶ月前、誕生日に贈られた本の続きを読んでいて、そのまま書庫で寝てしまったのだろうか?

 記憶が曖昧だ……まだ寝足りない。このままベッドに潜って二度寝でも…………

 「エルバード、起きなさい! 今日は父上から騎士の試験を受けるのでしょう?い

 つまでも寝ていてはいけません!」

 これは母上の声、アルバ・ニューゲートの声だ。俺はその声を聞いてすぐ布団に包まって、起きる意思がないことを示してみせた。しかし、母上は俺が包まっていた布団を剥がして、口の中にパンをねじ込み、俺がそれを食べている間に鎧を着せていく。俺が五歳の時から毎朝こんな感じだ。

 「エルバード、あなたはもう今年で八つになったのよ? それにお兄様になったの

 だから、もっと自分のことは自分でやるの。私がずっとあなたのお世話をしてあげ

 られるわけじゃないのよ?」

 最近の母上の口癖だ。五月に弟ユカシルが産まれてから母上の小言が増えたと思う。俺だってその気になればいつだって……俺は屋敷を出て、試験の会場になっている騎士団の訓練場へ出かける。そこには昨日と相変わらず険しい顔をしている、少し眠たげで不機嫌そうな父上が待っている。

 眠たいなら俺と一緒に二度寝すれば良いのに……なんて、そんなことを父上に提案しようものなら、その不機嫌の矛先は『俺たち』に向く。


 不機嫌そうな父上に黙ってついて行こうと思っていた俺のところに、いつもの威勢のいい煽り文句が聞こえてきた。

 「お前、今日も時間ギリギリかよ……いいですね! 次期領主様は余裕がおあり

 で?どうせ昨日も遅くまで書庫にこもっていたんだろ? この本の虫め。」

 整列した隣から聞こえてきたのは『ラミア・ルーファス』の声だ。こいつはいつも何かと絡んでくるのだ。レーベン騎士団領名家のルーファス家の長女。彼女は俺の幼馴染であり……ライバルでもある。

 ラミアは変わり者だ。俺たちニューゲート家とルーファス家の仲が良かったこともあり、よく俺の屋敷に来ることが多かった彼女は同じ年の俺に対抗心を燃やしたのだろうか、名家の第一令嬢であるにも関わらず俺が入団している新人騎士団に入ると言い始めた。

 無駄に野心家な彼女は入団してからたった半年というわずかな期間で俺に追いついた。周りの男騎士達には脇目も振らず、いつも熱心に木剣を振り回しては俺に決闘を申し込んでくる。結果は引き分けばかりで今のところは九勝八敗三十三分だ。練習が休みの日には静かに好きな読書をしたいと思っている俺のことなんかお構いなしで、飽きずに勝負を申し込みに来るので少しうんざりしている。

 しかし、練習嫌いな俺にとって良き機会をくれる存在になっていた。お互い負けず嫌いなケンカ仲間ではあるが、俺が次期領主候補だからか、あるいは自ら声をかけることがほとんどないからだろうか……憶測を挙げればキリが無いが、新人騎士団で孤立しがちな俺の唯一の友であり良き理解者でもある。

 そんなわけで、日中は何かとずっと俺の隣にいるのだった。

 「うるさいなラミア、お前は本当に騒がしい奴だな。はぁ、夜遅くに本を読むの

 はお前が日中、俺の貴重な読書のひと時を邪魔するからだよ。全く……もう少し

 名家の御令嬢らしくお淑やかに過ごしてみてはどうだ? それともまだ吠え続ける

 のか? これではルーファス家はお前の扱いに手を煩わすだろうな。」

 俺は煽ってきたラミアに仕返すように挑発してみせた。するとラミアは怒りで顔を真っ赤にして負けじと大声で反論する。

 「はぁ?なんだその言い方! それでは私が……まるで、まるで私が『愚犬』みたいじゃないか! きさ、貴様は……えーっとその、何だ?? ……んあぁっ?」

 ラミアは言い返す言葉を探しているようだが言葉に詰まる。どうやら頭が弱いようだ。

 「ふっ……実際、そんな感じだろ。お前も自覚してるんじゃないのか? なぁ?」

 一つ軽くあしらってやった。いつも振り回されっぱなしであるから全くいい気味である。するとどういうわけかラミアは俺の膝裏に蹴りをいれて俺を跪かせた。彼女のバカにするような笑い声が頭上から降ってくる……こいつ、どうやら俺と一戦やる気らしいな。

 俺は怒りに任せ、愉快そうに笑う彼女の胸倉を掴んで宣戦布告する。

 「やるのか? この剛健令嬢! 愚犬の泣きっ面を皆に晒させて見せようか?」

 「は? 来るなら来いこのアホ毛野郎! その邪魔な毛引き抜いてやる!」

 俺たちが声を張り始めたところに、さらに大きな怒号が割り込む。


 ……父上、エトワールの声だった。


 「お前たち、いい加減黙らんか! 朝からピィピィうるさいぞ! 今からお前たち

 『第十五期団』の試験なのだぞ? 少しは気を張れ! このド阿呆‼︎」

 大きい声で俺たちが言い争いを始めるといつも父上の説教が始まる。どうやら俺たちの小戦は一時休戦を強いられたようだ。確かに朝っぱらからこんな小競り合いを聞かされるのはうんざりするだろうが、俺も朝から父上の怒鳴り声を聞くのにうんざりしている。全く、ラミアの売り言葉さえ無ければ俺だって買わずに静かにするのに……

 「エルバード! お前、また反省していないな? いい加減、朝から大声で怒らねば

 ならない私のことも考えてくれ!」

 「‥‥はい、父上。」

 図星を突かれてしまった。やはり騎士団で最強の実力を持つ『特級騎士』の父上には敵わないと思った。怒られている俺を見て、横にいるラミアは堪えきれずに吹き出し笑いをした。父上はそんな様子のラミアを見て「しっかりしろ! お前もだぞ!」と彼女も揃って追加の説教が始まった。

 俺はラミアも顔に出さなければ怒られずに済むのに、バカだなこいつ、と思ったが、顔に出ていたのは俺も同じだ。俺を小馬鹿にして怒られているこいつと同じだと思われていることが気に入らないが、また反省していないと説教の時間が延長でもされたらたまったものではない…………ここは大人しく耐えるのだと自分に言い聞かせた。



***



 俺たちは父上の説教を聞かされながら訓練場に着いた。試験前の式のために整列をしようと父上から離れた途端、懲りない様子のラミアが俺に小言を言い始めた。

 「今年の金騎士賞はこの私がもらう。お前なんかには絶対とらせないからな。お前

 の泣きっ面が楽しみだな?」

 そう言ってラミアは得意げに眉を上げてみせた、だったら俺だって……

 「はは! お前こそ全力で来てくれないと俺は賞のとりがいが無くてつまらないか

 らな、俺に負けて泣くなよ?」

 先ほどの父上の説教は甲斐なく、会場でも俺たちは小競り合いを始める。

 「上等だ、私を本気にさせて後悔するなよ。絶対負けないからな!」

 「せいぜい頑張れよ、御令嬢。俺だって負けないからな!」

 ……この後、父上の拳が俺たちに飛んで来たのは言うまでも無い。

 俺たちが臨む今日の新人騎士団の試験は、レーベン騎士団に入団してから三年経った見習いである新人騎士が受ける決まりになっていて、レーベン騎士団の中で一番階級の低い初級騎士になるための試験である。

 ここレーベン騎士団領が創設された時から行われている試験で、初代領主である父上の代から始まり今年で十五回目になる。そして、今日行われるこの試験を通る事で、俺たち第十五期新人騎士団は一人前と認められるということだ。


 この試験の最高成績者は金騎士賞を贈られることになっていた。

 俺とラミアは今期の新人騎士団の中で群を抜いて成績が良く、初級騎士の一つ上の階級である三級騎士との模擬戦では、俺が連続十人抜きラミアが九人抜きの記録を残した。歴代の新人騎士団員の中でも五人抜きが最高記録だったため、周囲の上級騎士からは二人のどちらかが金騎士賞をとるだろうと期待されていた。

 父上の拳を受けた頬を摩りながら俺たちが整列すると、一人の一級騎士が俺たちの前に現れ訓辞を始めた。

 「新人騎士団員諸君! 良いか、諸君らは今日この試験を経て新人から一人前とな

 る! この領地の命運を任される身となるということを心得て、この試験に望むの

 だ!行け! 新たなレーベンの『守護者』たちよ!」

 一級騎士の訓辞が終わると俺たちは一斉に試験へと向かった。

 試験は訓練場の隣にある霧の森の中に隠れた三級騎士から札を三枚奪い取るという内容である。

 三級騎士は俺たち新人騎士の人数より多く隠れていて、一時間以内に札を持って本部に戻らなくてはならない。しかし、全員の新人騎士が受かる分の札は用意されていないため、札を集められなかった者は剣技の才が無かったと見なされレーベン騎士団から去らなければならない。この試験はここレーベン騎士団に入る者が必ず受ける単純かつ厳しい試験なのである。

 その札を集めたタイム成績が最速の騎士に金騎士賞は贈られる。つまり、俺は誰よりも早く三枚札を獲って帰れば金騎士賞をもらうことができるのだ。先ずは一枚……二枚…………俺は順調に札を三級騎士から獲っていった。

 あと一枚、あと一人見つけてラミアより先に帰ることができれば。俺は父上と周りの人たちの期待通り金騎士賞を獲ることができる。俺の心の内で徐々に緊張が高まっていくのを感じた。札を求めて森の奥へ進んでいくと、段々と霧が濃くなっていく。

 レーベンの霧の森は常時霧が濃く目が利かないため、外から来たものの視界を奪う『守護の森』と呼ばれていた。

 俺たちレーベンの騎士は全ての感覚を研ぎ澄ませて、守護の森を見る訓練を何度も受ける。が、並の新人騎士はどれだけ訓練を受けても札を一枚獲るだけで苦労するらしい。俺は生まれつき『空気の揺れ』に敏感な方だった。そのおかげで森の見方を早くに体得して見慣れているのでこの試験も難なくこなせている。

 ラミアも同じようなものだと言っていた気がする……

 アイツは根性論に頼るばかりではなく、しっかり騎士が持つべき能力は持っている。ラミアの性格は気に食わないがその才能は俺も認めている。『アイツにだけは負けたく無い』そう思うだけで俺の足は早まった。

 

 まだ時間に余裕がある。

 先程、少し違和感を覚える場所があった。

 なぜだろう……空気が、『誰かの怒り』で揺れている。もしかしたら最後の札があるかもしれない……そう思い俺はその違和感のある場所を目指して足を早めた。


___その違和感の先にあったのは、血塗れになって地面に横たわる三級騎士の姿だった。


 近くにはラミアが涙を浮かべて膝をついていて、そのすぐ近くには見たことが無い服を着ていて白いマフラーをつけている。俺やラミアよりもずっと背の高い男がいた。

 男の紺色の髪は風になびかれ、血のように紅い瞳は卑しそうに細められ、鈍く輝く……男は気味の悪い笑みを浮かべて俺たちを見下ろしていた。

 「ラミア! どうした! 何があった!」

 「エル! ……私、私は………」

 「アレェ? お嬢ちゃん、お仲間くんを呼んじゃったみたいだよ?アハハハ! イイ

 ねぇ、イイよぉ! 子供の血は大好きだよ! お兄さん嬉しいなァ!」

 男はそう言って高笑いする。なんだ? 今まで感じたことがない背筋を這い上がるこの寒気は。

 目の前の男は、俺たちのことを一体どうする気なんだ?

 「ごめんねェ? お兄さん、『子供の肉』には目がないんだぁ!アァ……早く、早

 く食べたいなァ!」

 人を、食べる。と目の前に立ちはだかる者が言う。人がヒトを食うことなんて普通はあり得ないはず…………こいつは一体何者なんだ。

 「貴様! 何者だ! この騎士とラミアに何をしたんだ!」

 俺が男に向かって叫ぶと、彼はまた高笑いした。

 「へぇ、君、人の血を見ても怖がらないんだァ…… その目! 肝が座っていてイイ

 なァ、君の綺麗で美しい見た目だけじゃなくて、その勇敢な中身まで好きになっち

 ゃうなァ!」

 男は興奮気味に笑うといきなりうずくまり、背中から黒く大きな『コウモリの翼』を出す。

 一度力強く羽ばたくと、あたりの霧はあっという間に晴れ、男の姿がはっきりとわかった。

 襟足が長い特徴的な紺色の髪が風になびき、紅い瞳の輝きは先ほどより強くなっている。気味の悪いほど青白い肌は、陽を浴びてないのか? 人間の肌とは思えないほど不健康な色をしている……が男の頬だけは上機嫌という感じで赤く染まっていた。彼はじっとりとした瞳で俺とラミアを舐め回すように見ると、血に濡れた騎士そっちのけで興奮気味に鉄臭い紅に染まる口を開いた。

 「お兄さんの名前はヴァイス・アルマス。君たちのレーベンのおとなり、ストヴァ

 帝国で、軍の大将をやっている『吸血鬼』さ!さっきはそこのお嬢ちゃんを食べよ

 うとしたらねぇ? ソイツが邪魔してきたからつい斬っちゃったのさ! アハハハ!

 イイよね? だって、邪魔するソイツが悪いんだもんねぇ?ハハハ‼︎」

 「吸、血鬼……?」

 『吸血鬼』その存在は母上がよく俺たちに聞かせてくれる『お伽話』の中で以外聞いたことが無かった。でも、その背にある黒い翼と躊躇いもない口ぶりから、今目の前にいるのは『人ならざるもの』であることはわかる。


 ……本当に『あの吸血鬼』なのか?


 それに、なんだ?コイツが放つ異常な威圧感は。俺はその狂気に満ちた笑い声に圧倒されながらも、先ほど立ち上がったばかりのラミアに小声で話しかける。

 「なぁ、ラミア。こいつが言っていることって、ほん……」

 ラミアは目を力一杯拭うと、俺が話を終える前に不気味な笑みを浮かべるヴァイスに向かって叫んだ。

 「おい! お前! さっきから何度も『お嬢ちゃん』って呼ぶな! その口調が耳に障るんだよ!このイカれサド野郎! よくも新人騎士団を、私たちの仲間たちを壊滅状態にしてくれたな!」

 「……か、壊滅状態……だと!」

 目の前にいるものに、たった独りに俺たちの新人騎士団が壊滅状態?同期の彼らも決して脆弱ではなかったはずだ、嘘だと思いたいが……幾時も正直なラミアが嘘をつくとは考えられない。

 どうする、他人より実力があるとは言え、俺たちがこれからなろうとしている初級騎士より一つ上の階級である、三級騎士を軽々倒した奴が相手だ。俺たち新人騎士二人だけで敵うのか?

 俺がラミアの言葉に動揺していると、ヴァイスがこちらの会話を受けて可笑そうに笑いながら答えた。

 「エェ? だって君たちの騎士団すぐ壊れちゃうんだもん。お兄さんはもっと強い

 と思っていたのに、期待外れだったよぉ……でも、一人で来て正解だったかもな

 ァ!……だって、こんなにいい『オモチャ』、俺が独り占めできるんだからァ!楽

 しかったなァ、アハハハ!」

 こいつ……やはり人じゃない。『バケモノ』だ。こんなやつ、逃してたまるか。しかしこの言葉は俺たちを挑発しているだけなのかも知れない、だから少し様子をみて…………


 「エル! 行くぞ! こいつ許せない! 仲間を! よくも‼︎」

 ラミアは考え込む俺の忠告を無視して怒り任せにヴァイスに斬りかかる。彼女を引き止めようと手を伸ばしたがすんでのところで届かなかった。どうする。このまま彼女一人行かせていいのか?

 ……あの騎士のように……さっきのヴァイスは裏に何かあるような嫌な笑い方をしていた。

 「待てラミア! 一人で行くな! ……あぁ、クソっ!」

 どう考えたってラミアだけでは勝機が薄い、彼女に続いて俺もヴァイスに斬りかかる。

 「君たち……やっとお兄さんと遊ぶ気になったのかなァ?イイよぉ! おいで? お

 いでェ?」

 狂った笑いを森の霧の中に響かせるとヴァイスはその体格に似合わない軽い身のこなしで、俺たちの渾身の連撃をヒラリと軽くかわす。

 やはり新人騎士の俺たちでは全く相手にならなかった。いや、まだ諦めて堪るものかと、俺とラミアが今度は同時にもう一撃ヤツに斬りかかる。

 「へぇ、いい剣の立ち回りするじゃないか! さっきの騎士とは全然違うや!

 イイねぇ、イイねぇ‼︎ お兄さんすごく楽しいよ!」

 ヴァイスはそう言うと俺たちの剣を両手の人差し指で止めてみせた。

 だめだ! 全く刃が立たない!

 悔しがりながら睨みつける俺たちをヴァイスは止めた剣を素手で掴むと、剣を握っている俺たちごとつまみ上げて楽しそうに笑う。……力の差があまりにも大き過ぎる。

 「でもまだ筋力が足りないなぁ、そうだねぇ、大きくなった君たちと遊ぶっていうので良いかもなぁ! アハハ!!」

 ヴァイスは俺とラミアに顔を寄せると煽るように紅い目を細めて笑った。それは心からの侮辱だった。流石に腹が立った俺はラミアに目配せして“次の連撃 ”を合図した。彼女も相当頭に血が上ったようで“連撃の次 ”を俺に目配せする……

 俺たちでこのバケモノとの遊びを終わらせてやるんだ。

 「クッソ! 私たちのこと舐めやがって!」

 「‥‥くっ! 俺たちだって!」

 俺たちはヴァイスに吐き捨てると、剣を持つ手を離して地面に手をつき、下から回し蹴りをヴァイスの腹に二発喰らわせる。ヴァイスは無傷だったが俺たちの素手での攻撃に動揺したのか少し力が緩んだところを二人で狙って剣を奪取した。ここまで計画通りだ。


 …………いける、俺たちなら。


 そして俺たちは剣を構えて、もう一度斬りかかろうとヴァイスを見上げる……ヴァイスは微動だにせず、少し不服そうな薄笑いを浮かべて俺たちを見下ろしている。

その笑みからは圧倒的な強者の余裕と、純粋にこの惨状を楽しんでいる狂人の歓喜が伺えた。

 ……俺の中にあった熱い感情が一気に冷め、背筋を強い悪寒が伝う。

 やはり二人だけではこのバケモノには敵わない。ここは一時撤退しよう。俺がそう考えていた時、先まで俺たちを不服そうに見下ろすだけだったヴァイスは急に嬉しそうに笑い声をあげた。

 「イイ……イイねぇ! やっぱり最高だよ! 君たちのその顔! あははは‼︎」

 大きな牙の生えた口で不気味な笑みを浮かべると目にも止まらぬ速さで俺とラミアの目の前に現れたヴァイスは、目の前の状況に呼吸を忘れた俺たちの額に爪を立てる。長くなった爪はざくりと二人の額を切り裂き血が噴き出す。それが目に入り視界が紅く染まって……気がつけば俺は宙にいた。

 まずい、まずい、前が見えない、血が止まらない、息もできない、嗚呼、殺される…………

 俺は初めて自分が死ぬことへの恐怖を感じた。

 「大丈夫! その傷は浅いからすぐに綺麗に治るよ! 君たちの綺麗なお顔は傷つけ

 たく無いからさ? ……うふふふ! でも君たちの心の中には『跡』を刻んどかなき

 ゃ、ね?『十年後』、俺は絶対君たちのところに行くからね!……また遊ぼう?

 バイバイ。可愛い騎士くん。と騎士ちゃん!」

 ヴァイスがそう言うと俺はようやく地面に返された。ヴァイスは高らかに笑うと霧が立ち込める森の奥へと消えていった。


 俺はどうやらあのまま首を掴まれて宙吊りにされていたらしい……息が苦しい。

 起き上がり、掴まれた首の痛みでさっきまでの状況を理解した俺は、隣で同じ目にあったであろう地面に倒れているラミアと目が合う。

 …………よかった。生きている。 ……俺も、ラミアも。

 二人は無事を確かめるとそっと寄り添い、互いの傷の手当てを始めたのだった。



***



 俺たちはラミアをかばった騎士を担ぎ本部へ帰還した。

 俺たち以外の第十五期新人騎士団のほとんどが壊滅、半数近くが帰らぬ者となった。試験官の三級騎士にも新人騎士を庇い死んだものがいた。俺の母上が本部に傷を負った俺たちを迎えに来た。

 「心配したのよ! 二人とも無事で本当に良かったわ!」

 母上は俺たちの姿を見た途端、俺と同じ緑色の瞳に涙を浮かべ俺とラミアに抱きついた。その後俺たちが治療を終え、ニューゲート家の屋敷に帰ってきてから母上から話を聞いた。俺たちに話していたお伽話は隠されてきた『史実』だったそうだ。

 俺は母上が西の島国である『グレイス島』にある小さな人間の村出身であることをこの時初めて知らされた。確かに前から俺たちの住むレーベンの人たちと異なる黒髪に緑の瞳を持つ母上が不思議だと思っていた。しかし、俺の感じた違和感の解は、俺の予想をはるかに超えていた。

 まさか遠く離れ、しかもあの『呪われた島』と呼ばれるあの島の出身だとは思わなかった。母上は、流浪の民の長であった父上があの島に辿り着いた時に父上と知り合ったそうだ。

 父上が母上に一目惚れしてこちら側の大陸に連れてこられたらしい。母上の緑の瞳は島の中でも珍しく、その地を支配している魔族の瞳の色と同じことから『呪われた瞳』と忌み嫌われてきたそうだ。

 「父上ったらね? 私が今まで村の人たちに『呪われた緑眼の少女』って言われて

 いた私のことを初めて見て『君の目はこれまで見てきたどの色よりも美しい』なん

 て言っていたわ。……うふふ! この人は変わっているって私は思ったわ。でも、

 あの人があの呪われた島から連れ出してくれたから、私は私としてこのレーベンで

 暮らせているのだと感謝しているわ。」

 母上は父上との出会いを懐かしむように話をすると、さらに俺に続けて話した。

 「今となって私はこの緑の瞳も誇らしく思っているの。この瞳のおかげで素晴らし

 いあなたたちの父上と私を繋ぐきっかけが得られた……そして、あなたたち、愛お

 しい子供たちに出会えたの。だから、エルバード。あなたたち兄弟の緑の瞳も誇っ

 ていいのよ。呪われた瞳? いいえ、違うわ! 今なら断言できるわ!私たち家族を

 つなげた『奇跡の瞳』よ!」

 その言葉を受けて、俺の緑の瞳は燭台の火に照らされて煌めいていた。

 母上は俺に緑の瞳のことを話し終えると、今度はあの史実……『昔話』について話し始めた。母上は親が亡くなり独りになったのち、村で嫌われ者だった母上を支えてくれた変わり者のご老人からこの『昔話』を聞かされ育ってきたのだという。

 母上の父親は母上が産まれてすぐに『村の生贄』として捧げられ、母親は母上が俺よりも幼かった頃に病に倒れ、しかし家は貧しく薬も買えなかったので、そのまま亡くなってしまったそうだ。「今なら治せる病気だったのにね……」と母上は悔しそうに時が過ぎることの残酷さを俺に漏らした。

 俺は母上の話を聞き終えて自室に戻る。


 治療を受けた額の傷に少し痛みを覚えて右手でさすっていると、あの吸血鬼の愉快そうに笑う艶かしい紅い瞳が脳裏にチラついた……あの物語の中で、最初に生まれた『原初の吸血鬼』の恐ろしい出立が語られていたのを、背筋を這い上がる悪寒と共に、今更、思い出した。


『__吸血鬼、それは人間が孕んだ悪魔の子。


その悪魔、母親を腹の中から食い破り、会う人全てを喰らい尽くした。


その悪魔、罪の裁きを受け灰になるも、翌朝には村の民食い尽くす。


その悪魔、断罪逃れ島から大陸へ、その呪いをもって飛び立った。


だが、彼も元は人の子。我らと変わらぬ人間であった。


呪いの絶えぬこの地に運命を狂わされた哀れな子。


呪いの解けぬこの地に見捨てられ、人を恨むバケモノと成り果てた。


忘れるな、この忌子の恨みは、必ず我らを呪い殺す。


祓え、呪いを。


この忌子の呪いを払わねば、災禍に堕ちる。その日までに__』


 しかし、俺には一つ不思議に思うことがあった。俺たちを襲ったヴァイスという吸血鬼には、俺がつく前に三級騎士と争ったからだろうか顔に少し擦り傷があったのを覚えている。この物語の吸血鬼と比べると再生力に劣っていることから、この吸血鬼とヴァイスは違うとわかった。

 では、吸血鬼はどれだけの数が存在するのか? この物語の吸血鬼は島から飛び立ってこの大陸に降り立ったのなら今は一体どこにいる?『吸血鬼』俺たちの目の前に突然現れた脅威は、いつかこの地をも飲み込んでいくのだろうか。その晩、俺はその理解しきれない脅威に独り身震いした。


 翌日、俺たちは侵略者ヴァイスの話を聞き出したことで、奇襲の犯人は北方に位置するストヴァ帝国であると明らかにし、さらに仲間を連れて生還したということが評価され、特例で二人が金騎士賞受賞という結果となった。

 金騎士賞を得られたことは喜ばしいことだったが、それよりもヴァイスが言っていた『十年後』が額の傷が癒えても頭の中からは離れなかった。俺たちは、またあの『バケモノ』と戦わなくてはいけないのか。 

 俺たちはもっと強くならなくてはいけない。

 俺はラミアと二人でこの地の守護者になるのだと誓い合ったのだった。

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