第26話 私は私

まだ午後の授業が残っていたが、ジェシカはそのまま学校から抜け出した。一分一秒を争うような緊急性はなく、授業を受けてからグレイに会いに行っても問題はないだろう。

学費を免除されている特待生であるジェシカはしっかり学ぶ義務があるし、学園に通うことで両親には負担を掛けている。


それでも湧き上げる想いに突き動かされるようにジェシカは、グレイの下へと向かっていた。

いまさら謝ってもグレイは許してくれないかもしれない。そんな思いが胸をよぎるが、ジェシカが足を止める理由にはならなかった。


(たくさん失敗したけど、今の私の行動も間違っているかもしれないけど……でも、それでいいんだ)


前世の自分だって最初から物事を客観的に見られたわけではなく、失敗しながら学んできたのだ。記憶が戻ったことで自分の言動を振り返り、反省することが出来たとはいえ、だからといってすぐに全部上手くいくはずがない。

過去の知識と経験はあくまでも前世の自分のもので、ジェシカのものではないのだ。


(前世がどうあれ、私は私だから)


前世の記憶は物語と同じで、教訓を含んでいるが全てが正しいわけでもない。別の世界、別の環境であることもそうだが、一番の要因はかつての自分とジェシカは違う人格だということだ。

思考や視点は有用だが、全ての選択基準を前世に合わせる必要はない。


そう理解すれば何でもないことだったが、掛け違えていたボタンが元の場所に納まったような感覚に胸のつかえが解け、呼吸が楽になった。


(前世の私だったらグレイに前世のことを打ち明けたりしなかったと思う)


グレイにしつこく追及されたからだけでなく、その方がいいと無意識にそう思っていたからこそ説明したし、それはグレイの言うジェシカの直感なのだろう。


いつの間にか前世の記憶に引きずられすぎて、これまでの自分を否定するような考え方ばかりしていたのだ。

きっと間違いばかりではなかったし、ジェシカがジェシカでいたことで役に立ったことだってあっただろう。


(多分これからも何度だって間違えるし、上手くいかずに悩むことだってたくさんあるけど、そうやって成長していくものだと思うから)


ようやく家まであと少しのところになって、ジェシカは呼吸を整えるために立ち止まった。息も絶え絶えになりながらもすっきりとした気分だったが、見慣れた雑貨屋を目にすると緊張が高まってくる。


(大丈夫。後悔しないように、ちゃんと言わなきゃ)


ちりんと涼やかなベルの音にカウンターにいたグレイが振り向いて、目を丸くした。


「……っ、ジェス――どうした?何があった?」


本来授業を受けているはずのジェシカが現れたことに驚いたようだが、すぐさま心配そうに声を掛けてくれたことが嬉しい反面、申し訳ない気持ちが強くなる。


いつだってグレイはジェシカに優しいが、それは妹のように思ってくれているからだ。ジェシカにとっても頼れる兄のような存在の幼馴染だったのだから、当然だろう。


(でも、もう違うから)


それは記憶を取り戻したあの日、グレイと間近で顔を合わせた時から分かっていたのに、目を逸らし続けたのはジェシカの防衛本能だったのかもしれない。無意識のうちに諦めようとして結局諦めきれなかったジェシカは愚かなのだろう。


もう二度とあんな風に一緒に過ごすことは出来なくなると思えば、今からでも逃げ出したくなるが、ジェシカはぐっと踏みとどまって顔を上げた。


「心配してくれたのに、酷いこと言ってごめんなさい。これ以上グレイに迷惑を掛けたくなかったのに、上手くいかなくて八つ当たりして……本当にごめんなさい」


目頭が熱くなったが、ぐっと奥歯を噛みしめて堪える。傷つけたジェシカが泣くのは駄目だし、そうするとグレイは何でもなかった振りをして気にするなと流してくれるだろう。

それにまだ一番大切なことを伝えていないのだ。


「ジェス、謝るのは俺のほうだ」


ジェシカが気持ちを立て直している間に、何故かグレイが謝ろうとするのをジェシカは慌てて遮らなければならなかった。


「グレイ、ごめんね。もう私のお兄ちゃんでいてくれなくていいよ。私……グレイのことが好きだから。――今まで面倒見てくれてありがとう」


もう二度と気安い幼馴染の関係には戻れない。グレイが過保護なのはジェシカを妹だと思っているからだ。気持ちを伝えることで今の関係を崩してしまうが、エイデンのことはジェシカの問題なのだし、もうそろそろお互いに別々の道を歩くべきだろう。


店内に沈黙が流れて、ジェシカはぎゅっと拳を握り締める。急に告白されて戸惑っているのかもしれないが、そろそろ限界だ


「本当にごめんね。もうお店の手伝いも大丈夫だから――っ」


耐え切れなくなったジェシカは最後にそう言って立ち去ろうとしたが、強い力で引っ張られた。


「俺のこと好きだって言ったのに、何で離れようとすんだよ。意味分かんねえ」


気づけばグレイの腕の中にいて抱きしめられていた。そんなジェシカの耳元に呆れたような口調で言われた挙句に溜息を吐かれた。


「だって……もう妹じゃないから」

「妹だと思ってないからな」


思わず顔を上げると、ジェシカの好きなヘーゼル色の瞳と目が合った。少し拗ねたような表情だが、その眼差しは柔らかい。


「……う、嘘だよ、そんなの。だってグレイはいつもと変わらな――」


一瞬だけ触れあった唇に、ジェシカは言葉を失った。


「これで信じたか?確かに以前は妹扱いだったけど、ちょっと前からは違うぞ。それと昨晩は俺も責めるようなことを言って悪かったな。お前が結局……魔術師様を選んだのかと思ったら、つい頭に血が上った」


気まずそうに目を逸らすグレイの顔がいつもより赤い。


(え……ええっ!それってつまりグレイが嫉妬したってこと?!)


グレイの言葉の意味を理解した途端に、ジェシカは自分の頬が熱を帯びるのが分かった。都合のいい解釈をしているのだろうかと頬をつねる前に、グレイはジェシカの頬を撫でながら言った。


「ジェス、俺もお前のことが好きだ。前世の話を聞いたあの日辺りから、妹とは思えなくなったけど、お前が望むならそれでもいいと思っていた。実際にはそうじゃなかったけどな」


いつもと変わらないと思っていた優しい眼差しに熱が灯る。ゆっくりと近づくグレイの顔に、ジェシカは安心感と幸福感をに浸りながら目を閉じたのだった。

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