<32・キレイゴト。>
日ノ本結友は思う。自分はきっと幸せな人間なのだ、と。何故なら、大切な人を失った事がない。親戚の死は経験しているが、それはあくまで天寿を全うして亡くなったというものに過ぎない。突然事故で身近な誰かが死ぬとか、両親がいなくなるとか、そういう喪失を経験したことは今のところ一度もなかった。ついでに、大きな怪我や病気をするとか、いじめられて不登校になるなんてことも。
勿論、そういった人そのものが身近にいなかったわけではないけれど。それらは全て結友本人の話ではなく、結友自身が死ぬほど何かに苦しんだり打ちこんだりしたことがあるわけではないのだ。警察官になるのだって結局のところ、祖父の圧力と、なんとなく“自分の目的に合った仕事ができるかもしれないから”なんて淡い期待があった程度のもの。未だに、本当にこんな仕事を自分のような人間が選んで良かったのかと思うことしきりである。
平々凡々、何かに特別優れているということもない。
それでいて、とてつもない劣等感に苛まれたこともない、実に退屈な人間だと自分でも思う。ただ。
――凡人の俺にしか、警察官だけど普通の人間の眼しか持ってない俺にしかできないことが……もしかして、あるんじゃないのか。
今回の事件の中で、思ったのだ。自分が想像している以上に人の闇は深く、そして恐ろしいことを。理性を完全に手放せないからこそ、狂気に落ちようともがく人間もいることを。
過去ばかり見るな、と多くの正義の味方は言う。
復讐なんて良くないよ、と多くの名探偵は言う。
でもきっと、そんなこと誰もがわかりきっているわけで。未来に目を向けて、死んだ人のためにも犯罪による復讐なんてしないで生きていけたらどれほどいいかと誰もがどこかでは思っているはずなのだ。
けれどそんな簡単な話であるはずがないのである。愛する者を失った悲しみ、刻まれた傷の苦しみ。それを振り切って生きていくためには、どれほど不毛で無意味だったとしても、寄る辺が欲しいのが人間だから。何かに縋らなければ生きていけない、それが当たり前の人間なのだから。理想だけで生きていけるほど、誰もが強くはないのだから。
――わかってる。俺に、セキエイさんの気持ちがわかるなんて言えない。言う資格もない。でも。
「……俺、セキエイさんがアップした動画、一通り見させてもらったんです。お知らせ動画が上がるより前の動画って、みんな石田絵里名さんと一緒に作った動画、なんですよね」
それでも、想像することはできる。
分かろうと努力することはできる。
気持ちがわかります、なんてうわべの言葉を言うよりきっと意味があるはずだ。――自分を分かってくれようとする人がいるだけで、救われる人もきっといるはずなのだ。
「セキエイさん、前に言ってましたよね。ユーチューバーの仕事って見た目よりずっと大変だって。話題のリサーチから始めて、絵を描くのも収録も編集も全部一人でやんなくちゃいけなくて。それだけ頑張って時間かけて動画を作ってもヒットするかどうかわかんないんでしょうし……しかもそういう動画をかなり高い頻度でアップし続けないといけないんでしょうし。楽しそうな職業とか言われるんだろうけど、下手したらそのへんの一般職よりよっぽど大変なのかなーって……まあ俺は想像するしかないんですけどね」
子供達の憧れの職業として、今や大人気であるユーチューバー。だが、彼等の本当の苦労を知っているのは、彼等自身だけなのだろう。何故なら、彼等はそこに至るまでどれほど辛い経験や苦労があっても表には出さないのだから。
誰かが言っていた。白鳥が本当に美しいのは、水面下でどれほど必死でバタ足をしていてもけしてそれを表に見せないからだと。目に見えないところで、努力を惜しまないからであるのだと。
「でも、そんな苦労を全然見せないで、動画の中ではいつも笑ってる。どうすればみんなを楽しませることができるか、喜ばせることができるかを一生懸命考えて、無料でそんな娯楽を提供してくれてる。……だから、今の子供達に憧れられるんだろうなって思うんスよね」
「……何が言いたいんですか」
「石田絵里名さんが、貴方に望んだのはそういうことなんだろうなってことです。誰かを楽しませる仕事を、貴方にしてほしかったんだろうなって。自分もそれを助けたかったんだろうなって。……さっき話してくれたじゃないですか、絵里名さんとの出会いを。こっそりすみっこで絵を描いてるような人に、積極的に話しかけて日の当たるような場所に誘ってくれるような女性が……自分は全然表舞台に立たないで、貴方のサポートに徹したのは何でだったと思いますか?」
「!」
セキエイが目を見開く。彼も同じことを思い出したのだろう。ついさきほど、自分で結友たちに語ったエピソードを。
『出来る出来る!だってさ、凌空は本当は……いろんな人を幸せにする絵が描きたいって言ってたでしょ?それはやっぱり見て貰わないとだめなんだよ。動画も一緒。誰かを楽しませる、その助けになる仕事がしたいんでしょ?大丈夫、一人じゃないんだから!』
彼女はきっと。
誰かを幸せにする動画作りをする、そんな結友を応援したかった。それが彼女自身の一番の夢でもあったのではないか。
「……これは、俺の推測なんッスけど。……絵里名さんは、ネットで嫌がらせを受けて、ストーカーされて……滅茶苦茶苦しんでいたと思います。でも、一度も言わなかったんじゃないッスか?……ユーチューバーをやめてほしいなんて、貴方に、一言も」
セキエイの眼が揺れるのがわかった。それは明らかな、動揺で。
「セキエイってユーチューバーは、鈴原凌空さん……貴方と、石田絵里名さんが二人で作ったんですよね。それって、二人の宝物というか、子供みたいなものなんじゃないですかね。……その動画と活動が続く限り、絵里名さんの心もきっと消えないんじゃないかなって、俺は思うんス。……貴方が自分を失って、壊れて。その大切な“セキエイ”さんをなくしちゃったら。……それは、絵里名さんをもう一度殺してしまうことになりませんか」
「――っ……」
「綺麗事です。すっごく綺麗事ッスよね。でも、綺麗事だって信じて貫けば真実になるんスよ。……いいんですか、鈴原さん。そんな、絵里名さんが“みんなを楽しませて欲しい”って思った大切な宝物の“セキエイ”さんに、その作品に……人を楽しませるどころか、傷つけるための動画を作らせて。挙句、その一番願ってた動画が作れないようになって。……絵里名さんが何を望んでいたかなんてわからない。でも、それでも貴方は、貴方自身は本当にそれでいいんですか?」
ひょっとしたら。石田絵里名は、復讐を望んでいたかもしれない。今もどこかで、自分を追い詰めた人を殺してくれと願っている可能性だって勿論あるだろう。
だが、いなくなってしまった人の声は聞こえない。
死んだ人の言葉は、どう足掻いても生きている人間に届かない。
それでもだ。
「いなくなっていた人が何を望んでいたのかわからなくても、その人のために出来ることがなかったとしても。……その人が、生きていた時に……貴方に望んでいたことを、叶えてあげることはできる。貴方はその望みがなんだったのかを知っているはずです。……違いますか」
彼の頬を、す、と雫が伝っていくのが見えた。その涙を見て、結友は思う。
ああ、きっと。本当はセキエイ自身も分かっていて、どこかで止めて欲しかったのではないか、と。
「……マジで、綺麗事、ですね」
彼は震える声で、だけど、と続けた。
「俺……俺は、絵里名を……殺したくない。まだ、セキエイでいたい……いたいんですよ、本当は……っ!」
「……なら、そうすりゃいいじゃねえか」
ずっと黙っていた光一郎が口を開く。
「待っててくれるよ、あんたのファンは。新作アップした時に、あんだけ喜んでくれたじゃねえか。これからだってきっと、待っててくれるさ。あんたが一番作りたい動画をアップできるようになるまでな」
娘が今まさに命の危機にあるかもしれない。その危機を作り出したのが目の前の男である可能性が高い。それが分かっていてなお、彼はどんな気持ちでその台詞を言ったのか。
ただ。結友は隣にいるその人を、以前より少しだけ尊敬したのである。
私情を押し殺してでもなお、目の前の苦しんでいる人を救う言葉が言える彼を。
***
「ひ、ひいいいっ!」
自分の腕に悲鳴を上げて縋りついてくる少女。縁は彼女の頭をそっと撫でながら、大丈夫ですよ、と繰り返した。
「怖かったら目を瞑ってくださってもいいです。あ、でも臭いは抑えれないので、できれば吐き気は我慢してくれると助かりますけど。正直、このスーツそこそこの値段なんで吐いて汚されるのちょっと辛いです」
「な、何で、縁さんは平気なの……」
「慣れてますからねえ、こういう場所に来るのは」
玄関から出て、エレベーターに行くまではどうあっても廊下を通らなければいけない。その道中に、どれほどの妨害が待っていたとしても、だ。
彼女が証言した通り、廊下に出た途端どす黒い津波のようなものが一気に押し寄せてきて自分達を呑みこんでこようとした。あれは、この世界に取り込まれた人間達の魂のなれの果てであると知っている。この世界では、正確には死という概念がない。ただ、この世界の怪物や与えられる痛み、恐怖などの濁流に呑まれて自分を見失ってしまうとあのようなものに変わってしまうのである。自分の名前と姿、そして帰りたい場所か人の記憶。それらのどれかを失ってしまった時、この世界に取り込まれた人間は完全に帰る術を失うのだ。あの橋本詠美は辛うじて名前と姿は覚えていたようだが、帰りたい場所の記憶をなくしてしまっていた。だからドロドロと溶けた怪物になり、救うことができなかったのである。
そうして溶けてしまった者達は、己が帰り道を失ったことも気づかず彷徨い続けることになる。そして、失った記憶を取り戻すために、他者を取り込んで補填しようとするのだ。その記憶を“奪う”方法は、相手に恐怖を与えること。腕をへし折る、脚を千切る、内臓を引きずり出す、目玉を抉る――そうやって肉の中から感情を引きずり出し、それによって自分の失った心や記憶の代わりにしようとするのだ。残念ながらそのようなことをしても、新たな亡者を増やすだけで、誰かが救われるようなことはけしてないのだけれど。
――この現代の地球とはまったく違う理で動くこの異界で……己を失わずに生き抜くことは難しい。多くの人間が怪物に襲われてあらゆる苦痛を体験させられ、精神を崩壊させてしまい、帰り道を失ってしまうことになる。異界に来れば来るほど、そのすり減りは激しくなる。
ゆえに、縁が適任なのだ。
自分がただ一人捜査一課陰陽対策係として選ばれた最大の理由は、現世で見えないモノが見えるからではない。何度異界に踏み込んでも、心が壊れずに帰ってくる耐性をただ一人持ち合わせていたからである。
ゆえに今、こうして涼音を助けに来ることができているのだから。
「つっ……!」
濁流に呑まれた途端、そのどす黒い水が牙をむいてきた。歩き出そうとする縁の右足を掴み、ばきばきとへし折って来たのである。
「い、今の音なにっ!?」
「……気にしなくていいです。ちょっと歩きづらいですが、前に進みましょうか」
涼音が目を瞑っていてくれて助かった。自分の足がへし折られていくのを見るだけで、彼女には十分すぎるほどの精神的ダメージがあるだろう。
激痛に耐え、縁は折られた足を引きずって歩きだす。手摺に捕まって歩きながら、折れた足をもう一度“元通りに”イメージする。
死という概念がない、この世界。どれほど肉体を壊されても、心が壊れなければ亡者になってしまうことはない。裏を返せば、元の自分の姿を強固にイメージし続けるだけの胆力があれば、肉体はいくらでも再生できるということである。
すぐに足は元通りになり、痛みもなくなった。しかしまた数歩歩いたところで、今度はぶよぶよとした黒い水が槍状になって襲ってきた。それとなく前に出て涼音を庇うと、水はぶりゅん!と音を立てて縁の腹部を抉って来る。
「げほっ……」
何度経験しても、酷く不快な感覚だ。己の腹の中に異物がもぐりこみ、抉り取っていく感触。思わず鮮血を吐き散らかし、“吐くなって言ったのに僕の方が吐いちゃったじゃないですか、まったく”と他人事のように思う。でろん、と腸やら肝臓のようなものやらが飛び出し、腹の傷から溢れて飛び出す。お腹から尻尾でも生えてしまったかのようだ。
――まあ。全身メッタ刺しにされたり、レイプされるよりましってことで。
冷静に頭を回しながら、さらに回復を図る。痛みは感じるし、苦しみもするが。それはあくまで肉体的な苦痛のみ。精神には、ほとんど傷がつかない。――それが、縁の異常性だった。あの日、弟の手を引いて闇の中を彷徨って、あらゆる心身の苦痛を体験させられた日。そういう風に、心のどこかが歪んでしまったのである。
だから、どれほど痛みを与えられても心に傷がつかない、耐えられる。あの時の地獄と比べたら、なんと生ぬるいのだろうと思えてしまうから。
「あ、到着しましたよ」
「え……」
想像以上に時間がかかってしまったが。どうにか、二人揃ってエレベーターまで到達することに成功する。恐る恐る目を開ける涼音の前で、縁はエレベーターのボタンを押した。
さあ、ここまでくればもうあと少しだ。
「帰る準備をしましょうか。今から僕が言うことを、復唱してくださいね」
帰る方法はわかっている。
自分は異界の仕組みを知り、元の世界の番人の名を知る魔術師なのだから。
「“エスケイト様、エスケイト様。今からそちらに帰ります、貴方の命が、心が、魂が帰ります”。……さあ、言ってみてください」
間違えることなどない。
この手を離す理由など、もうどこにもないのだから。
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