<30・メシア。>

 目の前で起きていることを理解するまで、しばしの時間を要してしまった。


「あ、ああ、あ……」


 涼音の目の前で、詠美と名乗った女性の体がゆっくりと捻じれていく。関節が外れるような音さえしない。ただ、服の下にスライムでも詰まっていたかのように、ぶりゅん、と腕やら足やらがおかしな方向に曲がっていくのだ。

 肩がひっくりかえり、こちらがわへと腕がまっすぐに伸ばされる。その腕が肘の当たりでぶりゅん、と裂けた。そして四本に別れた腕の断面は血でも肉でもなく、なにやら黒いゼリーのようなものがみっちり詰まっている状態である。

 切り裂かれ、引き裂かれ。真っ二つになった腕がさらにゆっくりと枝分かれを始めるのだ。そしてゆらゆら揺れながら、さらに複数に枝分かれするように分裂していく、指を一本ずつだけ生やしたその“手だったものは、段々触手のような形状へと変わっていくのだ。


――お、思い出した。そうだ、橋本詠美って名前、どっかで……そう、ニュースで言ってた。え、エレベーターで消えた、女の人の名前だって……!


 彼女に関しては掲示板でも頻繁に名前が出ていて議論が交わされていたのでよく覚えているのである。異界に行ったという写真をSNSにアップして、その後よくわからない書き込みだけ残していなくなった専門学校生。化け物に襲われたのか、それとも本当に望む異世界に行けることができたので連絡を絶ったか、単純にスマホをどっかに落としただけなのか。様々な憶測が飛び交った。なんせ、彼女に関しては死体も見つかっていないのだから。

 だから、ひょっとしたら――素敵な世界に行くことができた成功例なのかもしれない、なんてことも思っていたのである。彼女は見えない力に“選ばれた”存在であったのかもしれないと。でも。


――この臭い……!


 少し収まっていた、魚の腐ったような臭いが強くなっている。明らかに、分裂を続ける目の前の女性から漂ってきていた。

 そして、あの黒いゼリーのような肉。

 あれは完全に、自分を追いかけてきていたあの――エレベーターから溢れてきた汚泥と同じ種類のものではないか。


――なんで?普通の人に見えたのに、なんで?何で急にこんな、おかしなことになっちゃうの?この人は、この世界で化け物になっちゃったってことなの?


 わからない。わかっているのはただ一つ――目の前のおぞましい光景に自分が恐怖を感じていること。足がすくんで、完全に動けなくなってしまっていることである。


「何モ、思い出セなくテ……名前モ、忘れテしまイそう、デ……苦しイの。怖イの……早ク、早くココから逃ゲないト、何モかモ、なくなっちゃウ……そンなの、嫌……お願イ」


 彼女の両目から、黒いどろどろとした体液が触れ出し始める。そして、ばかり、と口が不自然なほど大きく開いた。顎がだらん、と背中(胴体が相変わらず向こうを向いたままであるからだ)のあたりまで垂れ下がる。顎が外れ、筋肉が断裂したとしか思えないようなほど大きく、大きく。


「助ケて、助けテ、お願イ、あ、あ゛、アァ、ア゛、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 その体がぶよぶよと膨れ上がれながら絶叫し、こちらに這いずってこようとした。


「いや、やああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 悲鳴を上げ、逃げようとしたところで足がもつれる。涼音は尻もちをついて倒れてしまった。早く、この部屋から逃げなければ。やはり普通の人間に、都合よく出会えることなどあり得なかった。掲示板なんかに書き込んでいる暇があれば逃げるか隠れるかするばきだったのに――ああ、でも廊下でもあの泥が迫ってきているとしたら――!


――やだやだやだやだ!助けて、誰か、助けて!!


 何処に逃げればいいのかわからない。それどころかもう完全に腰が抜けてしまって立ち上がれない。涼音がパニックになって頭を抱えたその時。




「自分を失ってしまってはいけませんよ、参道涼音さん」




 玄関のドアが開くと同時に、その声は突然降って湧いた。


「え」


 現れたのは、紺色のスーツ?か学生服?を着た青年。彼は涼音の前に飛び出すと、なんの躊躇もなく腰から何かを抜いて“橋本詠美だったもの”に向けた。


「すみませんね。もう、貴女の名前を呼んで差し上げることはできないんです。貴女はもう、手遅れだから」


 その言葉は、怪物に向けられたものであるようあった。彼はそのまま武器を――拳銃の照準を肉塊に向けると、引き金に力を込める。


「ンギャッ!」


 甲高い破裂音が響いた。化け物の体に、二発、三発と銃弾が炸裂する。詠美の面影を残していた額を貫き、背中を突き刺し、伸ばされていた右腕と思しき腕の先端を引き裂いた。


「ぎ、ギイイイイイイイ!」


 濁った声を上げて、怪物がどろどろと溶け――地面に染み込むように消滅する。それを見届けたところで、彼はふう、と一つ息を吐いて銃を下ろした。

 どうやら、ひとまず自分は助かったらしい、と涼音は悟る。安堵と共に涙が溢れてきてしまう。本当は泣き叫んでしまいたいのをぐっと堪え、涼音は青年に声をかけた。


「あ、ありがとう、ござい、ます。……えっと、貴方、は?」

「雨宮縁と言います。貴方のお父さん、参道光一郎さんと同じ警察官です」

「お巡りさん……?」

「そうです、お巡りさんですよ」


 思わず、彼の顔から足元までをじっと観察し、正直な感想を漏らしてしまう。


「……見えない」

「……よく言われます」


 父はちょっと怖い、威厳のある刑事という印象なのだが。この人はなんというか、高校生が拳銃持ってるようにしか見えないというか、なんというか。お父さんよりだいぶ小さいみたいだし、というのが本当のところである。いや、それでも勿論、小学生の涼音よりは大きいのだが。


「でも、お巡りさんじゃない人が拳銃持ってたらダメでしょ?だからそこは信じてくれないと困りますって」


 言われてみれば、それもそうだ。そして、そんなコメディのようなやり取りがほんの少し涼音の心を落ち着けてくれた。彼は確かに引き金を引いたし、その銃弾で怪物を打ち貫いたようだった。ということは、やっぱりその拳銃は本物だと思って間違いないのだろう。


「……オバケに、ピストルって効くんだ」


 とすれば、次の疑問はそれである。某ゾンビゲームで、ゾンビを銃で倒せるのとはわけが違う。日本の幽霊や妖怪に、人間の武器はまず効かないというのがお約束だ。ましてや、実態がある存在とも思えないというのに。


「拳銃が効くのではなく、“否定”と“拒絶”が効くんですよ、涼音さん」

「どういうこと?」

「銃で容赦なく撃つってことは、相手を敵とみなして否定するということ。殺すのを躊躇わないというのは、相手を人間と見なさないこと。それを示すのに、これほどわかりやすい武器はないんです。……この異界に取り込まれた人は、心が壊れたり死ぬことで異界の一部になります。バケモノのような存在になってしまうということです。だから本来、銃だろうとナイフだろうと殺せないんですよ。……でも、元の姿に戻りたいという意思が残っているから、否定するという意思そのものが凶器になるんです」

「え、えっと……」

「よくわからないなら、それでもいいですよ。ただ、大切なことは一つ。……自分自身を見失わないこと、それだけです。己の名前と姿、もう一度会いたい大切な人の姿をどうか忘れないでください。それを忘れてしまったら最後、貴方も喰われてさっきの女性のようになってしまいますから」


 縁、という青年が言っていることは半分くらいしかわからなかったが。それでも、自分を見失ったらオバケになってしまうらしいということと、彼がそんなオバケになってしまった人への攻撃手段を持っているらしいということは理解した。――この世界への知識を持っていることも、自分を助けに来てくれたことも。


「私……助かる、の?元の世界に、帰れる、の?助けて、くれる、の?」


 思わず、ポケットの中のスマホを握りしめる。その手をじっと見つめた縁は苦笑して、少なくとも、と続けた。


「貴女が頼ろうとした、大型掲示板の面白半分の人達よりは……貴女を助けようと思ってますよ」


 そこまで知られているということらしい。これは、後で間違いなく父の雷が落ちるコースだなと思う。

 そして、そんなことが考えられた自分に少しだけ安堵した。まだ自分は、父の顔も、その後どうなるかということもちゃんと想像できている。

 この異界とやらに、喰われてはいない。自分はまだ、自分でいられている。


「……帰る方法ならあります。ただし、そのためには貴女が此処に来たエレベーターを使う必要があるんです」


 廊下の方へと視線を向けて、縁は言う。


「貴女が掲示板や動画で知った儀式の方法は……来る方法は正解だったのですが、戻る方法が実は間違っているんですよ。カギリ様、はこの世界の番人の名前。帰る時は、帰る先の世界の番人の許しを得なければいけない。つまり、現代日本の境を守る番人の名前を知らなければいけないんです」

「ばんにん?」

「門を守っている人ですよ。……ご安心を。僕は、その番人の名を知っていますし、帰るためのやり方もわかっています。問題は、そのためにはエレベーターに辿りつかないといけないし、帰るまでにどれほど恐ろしいことが起きても自分を保ち続けなければいけないということです」


 まだ、恐ろしいことが起きるのか。涼音はきゅっと唇を噛み締める。正直もう、いっぱいいっぱいだというのが本心だ。これ以上怖いものなんて見たくないし、何かに追われたりするのもこりごりである。でも。

 それ以上に、帰りたい。

 帰ってちゃんと、お父さんとお母さんに謝りたい。

 まだその気持ちは、強く残っているから。


「……帰りたい、です。そのために、がんばらなきゃいけないなら……そうする」


 涼音がそう告げると。彼はいい子ですね、と涼音の頭を撫でた。


「ええ、頑張りましょう。ですからそれまで、この手を離さないでくださいね」

「……うん」


 優しい手だと、そう思った。

 涼音は頷くと、縁の手を強く握り――勇気を振り絞って、彼とともに玄関の外へと足を踏み出したのである。

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