<29・エイミ。>

 無茶苦茶に階段を駆け下りたせいで、現在自分が何階にいるのかわからなくなってしまっていた。ああ、ランドセルを家に置いてから儀式を試せばよかった、なんて思っても後の祭りである。重たい荷物に体力を消耗させられ、涼音は完全に息も絶え絶えの状態だった。


――どこか、どこかに逃げなきゃ、どこかに!


 一体どれくらい走っただろう。どこかのドアが開いていないものか――そう思って飛び込んだマンションのドア。ノブがくるりと回ったのを確認して、転がるように中に飛び込んだ。どうやら、空き部屋だったらしい。その部屋の玄関には、靴もなければ家具の類も何もない場所だった。廊下がまっすぐ奥に伸びて、中途半端に開いたリビングのドアから青い光を僅かにこちらに照らしている。

 ベランダに出られるかもしれない。そしたら、うまく逃げる方法も見つかるかもしれない。

 そんな淡い希望と共に、涼音は中へと足を踏み入れた。あの黒い濁流のようなものは、明らかに自分を追いかけてきている様子だった。この部屋に入ったことで、どうにかやりすごせればいいのだけれど。


――帰るには、エレベーターから戻らないといけないんだよね……。


 まだ生臭い臭いはするが、それでも廊下よりはマシである。ほっと息を吐いたら、さらに涙がじわりと溢れ出た。思わず玄関にへなへなとしゃがみこんでしまう。

 馬鹿なことをした、と今更ながらに後悔している。

 エレベーターの儀式をして、実際にいなくなった人が何人もいる。謎の異界に行けた人はいても、夢みたいな異世界に行けたという報告は何もない。そして、異界に行って帰って来れたという話も聞かない――冷静に考えればこれだけの材料がそろっていて何故自分は儀式をやろうなどと思えたのか。自分だけは大丈夫、選ばれてみたいなんてことを考えてしまったのか。

 あいつらのせいだ、と唇を噛み締める。

 あの、おかちゃんねるの奴らが、自分を煽るから。冗談半分で儀式を試すと言ったのを真に受けて、嘘をついたら許さない、やると言ったなら絶対にやれよと脅してくるから。結果自分は、退くに退けなくなってしまったのではないか。本当は不安もあったし、お父さんに隠れてこんなことをやるなんて絶対に駄目だと知っていたのに。


『この世界に、間違いを犯さない人なんかいません。でもね、みんな覚えておいてください。本当に強い人は……自分が間違えてしまった時、その間違いを認めて人に謝ったり、正そうとする勇気をもっているのです』


 不意に、蘇ってきたのは。つい先日、道徳の授業で担任の西村星斗にしむらせいと先生が言っていた言葉である。


『自分がやった失敗を、人のせいにして逃げるようでは、立派な大人になることはできません。……みんなはまだ子供ですが、それでも幼稚園の子や、低学年の子よりはずっとお兄さんやお姉さんになったはずです。己のすることには、ある程度責任を持たなければいけない歳です。……だから、何かをする前にきちんと考えるクセをつけましょうね。そして、その結果に、きちんと責任を持ちましょう。僕は、みんなならそれができると信じていますよ』


 眼鏡をかけた、穏やかでいつもにこにこしている先生。でも、この時は少しだけ怖く感じたのを覚えている。

 否、いつもより真剣に感じたと言うべきか。とても大切なことを教えて貰っているのだと、子供心に思ったのである。


――そうだ、駄目だ。人のせいにしちゃ、駄目だ……。


 涙を拭って、涼音は立ち上がる。


――自分でも思ってたじゃんか。あそこに書き込んだのは、やりたいって気持ちが自分でもあったから。目立ちたかったから、認められたかったから、褒められたかったから。煽られなくてもきっと私、自分の意思で儀式やってた。それを、誰かのせいになんかしちゃいけない……。


 怖いけれど。

 とてもとても怖いけれど。

 自分でやってしまったことには、自分で責任を持たなければいけない。この世界はゲームやアニメの世界ではないのだ。大好きな異世界転生系アニメのように、都合よく助けてくれるヒーローなんてものは現れないのである。

 自分のことは、自分で救うしかない。

 どれほど恐ろしくても、誰かに助けてなんて期待してはいけない。否、まだそういけないほど追いつめられてはいないはずだ。神様に祈るのは、自分で解決できる方法を、全部考えて実行してからにするべきなのだ。


――頑張らなきゃ。


 ここは普通の人間の世界ではないし、構わないだろう。そう判断して、靴のまま部屋の中に上がりこむことにする。部屋の中は、どこかひんやりと寒い。真冬でもないのに、なんだか空気が凍っているような印象を受ける。それはここが異界であるからなのか、それともこの部屋に何かがあるのかは定かでないが。


「!」


 ハンパに開いたままになっていたリビングのドアを開け、涼音は息を呑んだ。

 リビングの大きな窓の前。誰かがしゃがみこんで泣いているのが見えたからである。茶色い上着にジーパンっぽいパンツ、ボブヘアーの女性であるようだった。後ろ姿からだと分かりづらいが、大人になっているかいないかといった年齢ではないだろうか。彼女はベランダへ続く窓の前で、しゃがみこんだまま、しくしくと肩を落として泣いている。


――同じように、迷いこんじゃった人、かな。


 自分より先に異界に来て、同じようにあのドロドロに追われてしまった人なのかもしれない。涼音はそろりそろりと女性の後ろに近づく。

 正直言って、そろそろ一人でいるのも限界だった。誰かと一緒にいたい、知恵を貸してくれるならそうしたい。ただ。


――本当に、大丈夫なのかな。人間、だよね?


 一抹の不安が胸をよぎる。こういうあの世っぽい世界で出会った人が、ちゃんと意識を残している普通の人間である保証はどこにもないからだ。

 彼女に声をかける前に、もう一度スマホに目を落とす。掲示板の人達に意見を伺ってみようと思ったからだ。




346:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@すーちゃん

どうにかどろどろしたのからは逃げきった?っぽい。もう今何階にいるのかもわからない。

どっかの部屋に逃げ込んだら、女の人が一人で泣いてるのを見つけたんだけど声かけるべき?

正直一人じゃ心細いから、生存者さんがいるなら一緒にいたいけど…


347:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

面白そうな展開になってきたじゃんww


348:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

声かける一択だろjk


349:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

幽霊かもしれないなら写真撮って!


350:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

>>349

幽霊に肖像権要求されたらどうすんだよwww


351:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

>>350

その発想はなかった


352:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

おーいみんなまじめに考えてやれよ、すーちゃん困ってんだしさ


353:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

ていうか、オバケかもしれないならそのままスルーして一人で探索すればいいじゃん、何で俺らに訊くのさ


354:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

霊感ないし写真もないならその人が大丈夫かなんて判断つかないですしおすし


355:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

昔懐かしの安価とかやってみる?


356:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

やめれwww


357:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

とりま声かけてみればいいじゃん、ていうかその方が面白そうだし


358:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

そうそう、声かけるしかないって


359:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

やばいと思ったらそこで逃げればよくね?




――みんな、勝手なことばっかり言わないでよ……!


 さっき逃げろ、と教えてくれた人は落ちてしまったのだろうか。なんだか、ふざけた返信しか返ってこない。これだけレスが超速でつくのだから、このスレに張りついている人がたくさんいるのはわかりきっているのに。

 誰も彼も、本気で困っている涼音に寄り添ってくれる気配はない。

 ただ、より楽しい展開が起きることを期待しているだけ。安全圏からそれを眺めて面白がっているだけなのだ。涼音を助けてくれようと思っている人は誰もいないのだ――思い知った途端、手の中が冷たくなるような心地を覚えた。

 唯一この掲示板が、外界と繋がるツールだと思っていたのに。まさかこんなにも頼りにならないなんて。都市伝説や小説の世界では、名前も知らないたくさんの人達がピンチに陥っている女の子を助けるために尽力してくれたりもするというのに。


「……誰?」

「!」


 突然声をかけられ、涼音は慌ててスマホをポケットにねじ込んだ。いつの間にか、座っている女性に気づかれていたということらしい。彼女は座り込んだままこちらを振り返っている。


「あ、あの、えっと、私……」


 心の準備がまったくできていなかった。振り返った彼女の顔は逆光でわかりづらいが、それでも一見すると眼鏡をかけた普通の女性であるように見える。やはり、年は二十前後であるような印象だ。自分の感覚なのでどこまで合ってるかわからないが。


「誰でもいい、助けて」

「え」


 そして涼音が何かを言う前に、彼女はぽつりと呟いた。


「このよくわかんない世界に来ちゃって、どうにか脱出したいのに出来なくて……もうどうすればいいのか、どうすれば助かるのか、全然わかんなくて。もう、怖くて、誰もいなくて、それで、それで」

「あ、えっと、落ち着いてください!」

「お願い、助けて、助けて……っ」


 彼女は完全にパニックになっているようだった。誰がどう見ても小学生にしか見えないはずの、涼音の姿もはっきりと見えていないらしい。助けてと言いたいのはこっちの方だし、どうすればいいと言われてもそんなこと自分にもわからない。言葉に詰まっていると、女性は。


「私、橋本詠美って言います。でも、もう、覚えてるの名前だけなの」


 名前を名乗って、それから。

 さらに首だけ、こちらに大きく傾けた――足も体も、座り込んだ姿勢のまま。

 そう。


 ぐにゃり、と。首だけが不自然に捻じれたのだ。


「そレ、以外にハ、なニも思イ出せなクて……だカラ」


 唖然とする涼音の前で。詠美、と名乗る女性の首がこちらをまっすぐに向いたのである。

 体とは、180度真逆へと。


「助ケてくレナい?」


 ノイズがかった声で、懇願しながら。

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