<28・ドロ。>

 エレベーターはゆっくりと下降していく。そして一階に到着してすぐ、再び上昇を始めた。二階、三階、四階――まるで誰かが一階から乗ってきて、上の階を目指しているかのように。


――他にも儀式を試した人、とか?もしくは異界の住人?


 どうしよう、としばし涼音は迷う。元より、あまり自分で物事を決めるのが得意ではない質だ。責任を追わされるのが嫌で、学校でも絶対に委員長だの副委員長だのに手を挙げるということをしないタイプである。一番楽な委員会の、平委員。いてもいなくてもわからないポジションでいい、といつも思っていた。――己が選ばれた特別な存在、褒め称えられる存在としてみんなに注目されるのならともかく。大して評価もされない、大変な仕事を押しつけられるだけの役目なんてまっぴらごめんだからである。

 面倒なことは、きっとリーダーが得意な誰かが決めてくれる。どうしても嫌な時だけ嫌だと言えばいい。いつもそうやって生きてきた。それは、両親をはじめとして一人で物事を決めるのが得意、なリーダータイプの人が揃っていたというのもあるだろうが。ああ、よく考えてみれば祖父母も結構押しが強い人が揃っているような気がする。勿論孫である自分には相当甘いので、嫌なことまで無理強いしてくるということはないのだけれど。




302:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@すーちゃん

なんかエレベーターが動いてるっぽい。一階から誰かが十二階まで来ようとしてる?

どうしよう、異世界の人かな。待ってるべき?それとも逃げた方がいい?




 結局、尋ねられる相手は限られている。

 スレッドに向かって呼びかけてみれば、すぐに返信が来た。みんな揃っててんでばらばらなものばかり。ただ、ほとんどが“面白そうだから待っていよう”“何が来るのか楽しみ”“確認して何が来るのか写真撮って”みたいな書き込みばかりだった。ようするに、何が上がって来ようとしているのか気になっている人達ばかりだということである。ほんの一、二名は得体の知れないものを怪しむ声があったが、その程度だ。


――まあ、みんな実況してほしいって言ってきたのもそういうことだよね。自分達が見たことないもの、見たいんだもんね。


 ランドセルを背負い直し、エレベーターから少し離れたところでスマホを構えた。誰かが降りてきたら、その直後に写真を撮ってアップするためだ。いきなり襲ってくる化け物とかでなければ、写真を撮ることに成功するだろう。スレッドにアップすればみんな喜んでくれるし、きっと自分を褒めてくれるはずだ。

 写真アプリを撮る前に、最後にもう一度リロードをかけた涼音は。最後の書き込みを見て、眼を見開いた。




319:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

だめだ、にげろ




 たった六文字。

 それでも明らかな警鐘。


――逃げろってなに?この人、まるで何が来るのかわかってるみたいに。


 まさか本物の霊能者でも紛れ込んでいたとでも言うのだろうか。どっかの掲示板形式の二次創作小説でもあるまいに、そんな都合の良いことがあるとも思えないのだけれど。

 涼音は首を傾げ、無視してもう一度カメラアプリを起動しようとした、その時だ。

 丁度、エレベーターが――ちん、という軽い音と共に十二階に到着した。そこで、涼音は初めて違和感を覚える。

 このマンションのエレベーターは、ドアの上半分が硝子張りになっている。つまり、外側から中の様子を見ることができるようになっているのだ。中に誰かが乗っていたなら、今の時点でその人物の存在を確認できたはずである。

 しかし。


――何も、見えない?何で真っ黒なの。


 エレベーターのドアが開くまで、妙な間があった。その間に、涼音がまじまじとエレベーターを観察する時間があったくらいには。

 そう、硝子の向こうは不自然なほど真っ黒だった。まるで闇を切り取ってエレベーターに乗せて運んできたかと思うくらいには。


――真っ暗闇?……いや、なんか、そうじゃないような。


 一歩近づいて、よくよく見て見て――そこでようやく涼音は気づいた。硝子の向こうで、何かがゆらゆらと揺れていることに。光を反射して、僅かに何かがちらついている。それは、液体。そう。

 エレベーターの中に、真っ黒な液体がいっぱい詰まっているのだ。

 そう、まるで。マンションの外を取り囲む、あのタールのような黒い海を切り取ってきたかのような。


「!!」


 全身の産毛が逆立ったような気がした。ニゲロ。書き込まれたその言葉の意味が、やっと理解できたような気がしたのである。反射的に後ろにあとずさり、逃げようとしたその瞬間。

 エレベーターのドアが、勢いよく開いた。

 そして、その中から真っ黒な水が。どろどろと溢れ出して来たのである。


「ひっ……!」


 本能が激しく警鐘を鳴らした。あれは、人が触れてはいけない何かであると。涼音は慌ててその場から逃げ出した。どろどろとした黒い汚泥が、段々と速度を上げて迫ってくる気配を感じる。追いつかれる前に、なんとかして逃げ切らなければいけない。だが、残念ながらここは最上階。逃げられるのは、下の階しかない。


――な、何あれ!何あれ!?なんであんなのが、エレベーターの中から溢れてくるの!?


 さっきまでの高揚感も、わくわくも、何もかもが霧散していた。胸の内から噴きあがってくるのは、ただただ言い知れぬ嫌悪感と恐怖のみ。なんせドアが開いた途端、今までこの空間に満ちていたものとは比較にならないほどの悪臭が鼻腔を突いたからである。鼻の奥を突き刺すような腐臭。うっかり真夏の車の中に生魚を入れたまま忘れて、放置してしまったかのような。

 気持ち悪い。鼻の奥がジンジンと痺れて痛いほど。あれが、人体に無害であろうはずがない。


――よくわかんないけど、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!


 パニックになりながらもどうにか階段まで辿りつき、転がるように駆け下りた。

 何処に逃げれば助かるのか、どんな選択が正しいのか、何も理解できないままに。




 ***




 果たしてこれは本当に、同じ人間の顔なのだろうか。ユーチューバー・セキエイこと鈴原凌空と再会した結友は。背筋がぞっと冷たくなるのを感じていた。


「……なんですか、刑事さん。また来たんですか。俺、忙しいんですけど」


 先日会った時は、ややチャラそうな印象こそあれ、現代の若者らしくお洒落な青年という印象だった。イケメンなのもそうだが、何より身の回りに気を使っているなと感じたためである。ユーチューバーならそれも当然なのかもしれない。なんせ彼は、動画を使って見ず知らずの他人を相手に顔を晒すのが当たり前の仕事をしているのだから。まあ、あのエレベーター以降、新しい動画をアップしている様子はないのだけれど――。


――あの時は軽くてヘタレだけど、でも社交的な若い男の子に見えてたのに。


 今の彼は。あれから何日も過ぎていないのに、妙に頬がこけている。この数日で急激に痩せてしまったかのような印象さえある。目の下にははっきりと隈があり、眼も真っ赤に充血していた。ここ最近、明らかに眠れていないのがわかるほどには。


「あ、あの……どうしたんですか、顔色悪いッスけど」


 思わず本題を横に置いて、そう口にしてしまった。するとセキエイは、別に、とぼやくように一言告げる。


「最近ちょっと不眠気味ってだけなんで。お気になさらず。……あの、用事あるならさっさと言って欲しいんですけど。今日はなんか、先日とは違う方といらっしゃったようですが」

「え、えっとあの……」


 さっきまでタクシーの中で散々、セキエイがアップした動画を見て来たし最後の情報収集もしてきたつもりだ。説得の材料も、自分なりに揃えていたつもりでいる。参道涼音の行方も気になるし、他の犠牲者もこうしている間に増えているかもしれない。だから彼に会ったらすぐ、事実を突き付けてまずは犯行を自白させるよう持っていくつもりだった。――なんせ、まだセキエイに対しては逮捕状を請求したばかり。どっちみち、今の自分達にはどう足掻いても任意同行までしか求めることができないのだから。

 そう、固めていたはずの決意が揺らぎそうになる。

 明らかに彼の様子は尋常ではない。この様子、恐らく直前まで儀式を使って恋人を、石田絵里名を探していたのではないか。しかし見つけることができなくて、それで。


――ここまで追い詰められている人間を相手に、本当に……俺の説得なんかが、通じる、のか?


 思わず足踏みしそうになってしまう。が、結友が躊躇っていることに気づいてか、脇から光一郎がさっさと口を挟んでしまった。


「セキエイさん、あんたちょっと署までご同行願えますかね。例のエレベーターの儀式を作ったっていう、占い師のジュリアン早智子さんに話を聴きましたよ。彼女は言いました、全部あんたの依頼だったって。あんたの意思で始めたことだって」


 一応同行を求める物言いだが――そういえば自分達、パトカーで来てないんですけどどうするんスかね、と結友は心の中で思う。ドタバタしすぎていて、結局二人でタクシーでこの場まで来てしまったのである。まだ“逮捕”ではないので、そこまで堅苦しいことをしなくてもいいのかもしれないが――パトカー、急いで手配した方がいいのではないか。

 やや現実逃避気味にぐるぐるとそんなことを考えた、まさにその時だった。


「……そっか」


 セキエイは今にも死にそうな声で、ぼそぼそと言ったのである。


「……バレちゃったのか、早いなあ。……話。ひとまずうちで、してもらってもいい?俺もあんま具合良くないんで……立ち話はきついんですよね」

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