<27・イカイ。>

 何だかひどく湿った風が吹いている。涼音は恐る恐るエレベーターの外へと踏み出した。パラパラと降りはじめていた雨が止んでいるかわりに、空は真っ暗になってしまっている。見える景色は、見慣れた自宅マンションそのものだというのに。

 まるで自分だけ、一気に何時間もあとの世界に飛んでしまったかのようだ。


――ここが、異世界。……写真で出回ってたのと、同じ場所?やっぱり、中世ヨーロッパ風の世界には行けなかったってことなのかな。


 十二階の手すりに寄りかかって外を見る。天高く浮かんでいるのは、赤い目玉のような月だった。月は赤いのに、そこから差し込む光は青いなんてなんだか不思議な気分である。そしてマンションの周辺には、どこまでも続く黒い海が広がっている様子だった。なんだか妙に、どろっとした波が立っている。それ以外に、何か生き物や島、建物のようなものがあるようには見えない。


「うーん……」


 ひとまず、掲示板で報告だけしておこう、とスマホを取りだす。

 他の実況者もしていたように、外の様子などの写真を多く撮っておくのがいい。写真を次々アップすればそれだけみんなも喜んでくれるし、注目もしてくれるのだから。




257:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@すーちゃん

なんか黒い海が広がってるし、赤い月みたいなのが浮かんでて超不気味。

やっぱり、魔法の異世界には行けないのかなあ。


つ【マンションの階段の写真】

つ【マンションの外、赤い月が照らす黒い海の写真】


正直ちゃんと手順は踏んだし、間違ってないと思う。だからひょっとしたら私は違うところに来ちゃったんじゃなくて、ここから本当の素敵な世界に行けるとか、そういうことないのかなって思う。

だからちょっとマンションの中をいろいろ探してみるね!




 平日の昼であるはずだというのに、スレの流れは随分早かった。誰かが涼音の書き込みが面白いからとSNSで情報を拡散してくれているのかもしれない。

 注目されるのは、気分が良かった。ここまで計画実行を急いだのは確かに掲示板に約束してしまって引っ込みがつかなくなり、せっつかれたからというのも大きいが。それはそれとして、自分はきっと誰かにせっつかれることがなくてもいずれエレベーターの儀式を試していたと思うのである。

 『悪役令嬢に転生したはずが、遠い国の双子の王子様に愛されまくって困っています』に出てくるような――青い三角形の西洋のお城が森の中に立っていて、眼が醒めるように美しい金髪碧眼の双子の王子様が現れて、よくわからないまま自分に一目惚れしてくれて、お城に連れて帰ってくれて。そういう妄想を、小学生や中学生の女の子が抱いてしまうのがごくごく自然のことではないか。涼音のように、クラスの野蛮な男子達に辟易し、年上のかっこいい男性に憧れるタイプなら尚更のことである。

 そんな世界に行ってみたい。そうしたら、退屈でつまらない日常を脱ぎ捨てることができるのに。そうでなくてもせめて、少し面白いことをしてバズってみたり、お前は凄いと褒められてみたいと思うのはなんらおかしなことではあるまい。――今まで、ろくに誰かに認められたことがなかったから尚更に。


『涼音ちゃんって、結局何が出来るの?何が得意なの?』


 悪意もなく、そんな風に尋ねられることが多いのが涼音だった。地味な顔、運動神経も勉強もド平均。誰かに自慢できるようなことが何もない涼音が、周りに覚えて貰える唯一の要素が“親が警察官”であることくらい。刑事さんってかっこいいね、なんの仕事をしているの?と。それくらいしか、みんなに話題を提供できない。自分自身に興味を持って貰える要素がまったくないのが、いつだって涼音にとってはコンプレックスだったのだ。小学校三年生にしてはやや背が高いが、だからといってスポーツが得意なわけでもないから尚更に。

 だからいつだって、望んだ自分になれるのは妄想の世界だけ。

 自由帳にいつも、自分が想像した夢ヒロインが、異世界ファンタジーの王子様達に愛される小説やマンガを書いて自分を慰めていた。

 けれど、そういうイラストや小説をツイッターや小説投稿サイトに上げる勇気さえなかったのだ。褒められたい、注目されたい、けれどそれ以上に誰かに叩かれるのが恐ろしかったからである。自分の作品のレベルが、小学生のラクガキの範疇を越えていないことは自分が一番よくわかっているのだ。そんなものをアップしたところで、物笑いの種にされるだけ。世の中には年上で、もっと凄い絵や小説を書ける人なんかいくらでもいるのだから。


――私だって、注目されたいのに。……みんなの人気者になってみたいのに。


 だから、大型掲示板に書き込みをしたのは、ほんの出来心だったのだ。

 今大流行しているエレベーターの儀式。それを自分で試して実戦してみせたなら、少しは大人の人達に認められるような、そんな気がして。




374:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

私やってみようかな。高層マンションだから試せるし




 気まぐれに書き込んだら、思いのほかすぐに反響が来た。

 おかちゃんねるの人達は想像以上に、異世界を実体験するエピソードに飢えていたのだ。




375:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

>>374

マジで!?ほんとにやるなら専スレ立てて実況して!


376:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

>>374

言ったからにはマジでやれよ?期待してるからな?


377:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@以下名無しのメロン

盛 り 上 が っ て ま い り ま し た




 己は、望まれている。期待されている。

 それが涼音に暗い喜びを齎した。それが、己の才能だとか魅力への評価でないことくらいわかっている。スレッドにいる人達がただ、安全な場所からホラーを体験したいだけ、それをやってくれる相手なら何も涼音でなくても良かったということくらいは。

 それでも、やめるという選択肢はなかった。

 嘘をつくなよ、絶対にやれよ、というプレッシャーをかけられたのも事実だが。それ以上に、涼音自身が己に期待していたのである。これは、人気者になれるきっかけになるかもしれないと。だって現在、誰も異界に行って帰ってきた人がいないのだ。中世ヨーロッパ風の世界を見ることに成功した人もいないのだ。自分がその第一号になったなら、どれほどみんなに評価され、注目されることだろうか。


――選ばれた人間に、なりたい。


 選ばれし人間になれば、心清らかな人間であれば、正しい手順を踏めば。

 必ず望んだ場所に辿りつき、帰ってくることができるだろう。――その噂が、涼音の背中を押した。自分ならきっとできる、そう信じたい気持ちが恐怖や不安を大きく上回ったのだ。それはさながら、見えない力が涼音の後押しをしてくれているかのように。


――少なくとも、わけわかんない場所だとしても……異界に来れた。私は、まず最初の関門を突破したんだ。ちゃんと選ばれたんだ!


 やってきた場所は、望んだキラキラの世界ではなかった。しかし、エレベーターの儀式を試したのに失敗した人が数多くいる中、自分はちゃんと成功させることができたのである。その時点で、己は見えない力に選ばれているはず。ひょっとしたらここで何かをすることで、新たな世界に飛ぶこともできるようになるのかもしれない。

 ゆえに、涼音はこう書き込んだ。




263:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@すーちゃん

マンションの中に、ひょっとしたら別の世界に通じる新しい入口とかあるのかも。そういえば、さっきからマンションの中で誰の姿も見かけないし……どこかのドアが不思議の空間に繋がっててもおかしくないよね。

ちょっと十二階から順番に調べてみる!




 頑張れ、期待しているぞ、という声が次々書き込まれた。なんだか変な臭いのする暗い世界だが、今は不快感よりも高揚感が勝っている。涼音は、ひとまずエレベーターホールに近い部屋のドアからノックしていくことにした。

 自分達のマンションは、エレベーター側から順に“一号室、二号室”と番号が振られている。十二階の場合は、1201号室から始まるといった具合だ。


――そういえば、マンションにどういう人が住んでるのかなんて、確認した覚えないのなあ。お母さんたちは引っ越してきた時に、挨拶して回ったのかもしれないけど。


 このマンションに引っ越してきたのは、まだ涼音がとても小さかった頃である。同じ階に菓子折りでも持って挨拶して回ったのかもしれないが、残念ながら涼音はよく覚えていなかった。三歳くらいの頃のことだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。

 1201号室には、“鏑木”という表札がかかっていた。学校で習っていない漢字なので、なんと読むのかわからない。後ろの字はそのまま“き”でいいのだろうか。ピンポンを押してみたが、一切反応がなかった。


「こんにちはー、私、参道涼音と言いますがー!」


 声も張り上げてみたが、一切応答がなし。


――お留守、なのかな。それともこの世界には、誰も住んでないってことなのかな。


 一応ドアを引っ張ってみるも、ドアは鍵がかかっているというより空間に固定されているような感触でまったく動かない。涼音は諦めて、次の二号室の前へ行くことにする。

 ピンポンをして、もう一度ご挨拶だ。1202号室はプレートが真っ白だったが、今時は自宅プレートに名前を掲げない家も少なくない。真っ白だからといって、空家とは限らないことは涼音もよく知っていた。


「こんにちはー!参道涼音っていいます、どなたかいらっしゃいませんかー?」


 こちらもしーん、と静まり返ったまま。ドアをひっぱるも、やはり動く気配なし。


「うーん……」


 その後も。涼音は一つ一つドアを確認していったのだが、どのドアからも人の気配はまったくしなかった。居留守をつかわれている、という様子でさえないのだ。ピンポンを押しても、ノックしても、呼びかけても。向こう側の空間が凍りついたまま止まっているような、そんな雰囲気でしかないのである。

 これは本当に、この異界のマンションには誰もいないということなのかもしれない。




289:おかちゃんねるより、ぼっちがお送りいたします@すーちゃん

さっきからピンポンしまくってるけど、今のところ十二階はどの部屋からも応答なし。誰の気配もなし。

うーん、これは十一階も同じかもしれないけど、やってみた方がいいと思う?




 おかちゃんねる住民に相談してみようかな。その返事次第で行動を決めてもいいだろう。そう思って書き込んだ、次の瞬間だった。


「!」


 どこか、耳慣れた機械音。

 1207号室の前に佇んでいた涼音は、後ろを振り返って目を見開いた。廊下の突き当たりにあるエレベーターが動いているのである。十階、九階、八階、七階――まるで、下の階の誰かがエレベーターを呼び出したかのように。


――誰か、いるの?


 いざとなったら帰ることができる。その意識が、涼音の恐怖心や警戒心を麻痺させていた。

 面白いイベントが起きるかもしれない、期待。

 そろそろとエレベーターの方へ、少女は来た道を戻っていったのである。

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