<17・オボレル。>

 おかしい、おかしい、おかしい。


「お、お願い!開けて、ここ開けてくれよ、なあ!」


 どんどんどんどん!

 酒井英次さかいえいじはエレベーターのドアをひたすら叩いた。何故己がこのような状況に陥っているのかさっぱりわからなかった。

 ボタンを押してもさっぱり反応しない。完全に、エレベーター内に閉じ込められてしまっている状態である。


――異世界転移できるエレベーターなんて、マジでうそっぱちじゃねーか!ふざけんなよあのユーチューバー!マジでデマ広めやがって!!


 この儀式を試す人間には、本当に異世界転移がしたかった人間と、ふざけ半分の人間のどっちかしかいないことだろう。英次の場合は後者だった。高校の帰り、友人同士で“SNSで話題のエレベーターの儀式をやってみようぜ”という話になったのである。珍しくもなんともないことだった。なんせ、田舎町で小中学校から顔なじみのメンバーである。SNSやら大型掲示板で面白そうな儀式だとか怪談だとかが出るたび、みんなでふざけて実行したりその場所に行ったりなんてことはしょっちゅうだった。それくらい、気心の知れた間柄だったと言えばいいのか。

 何より今回は、道具も用意せずに簡単に実行できる内容だったというのが大きい。なんせ、人気の少ない五階以上の高さのエレベーターがあればそれでいいのだから。

 自分達の町は都心と比べると田舎の方だが、それでも五階以上あるエレベーターくらいなら無いわけではない。

 特に、友人の家がやや寂れた団地だったというのも大きいだろう。A棟からG棟まである中、旧式のA棟は人気がなくてエレベーターもあまり人が使わない。夕方のこの時間帯でも、儀式を充分に実行できるだろうという魂胆があった。肝試しもかねていたので、みんなで一緒に実行するというテはない。英次を含めた五人組グループでジャンケンで順番を決め、一人ずつ実行してみることにしたのだった。異世界とやらに行って、エレベーターを降りて近くを一週、そのまま“帰る方法”で戻ってきて内容を報告するというものである。

 ただし、やったフリをする奴が出るとつまらないので、全員ボタンを押す様子や呪文を唱える様子はスマホで動画を録画するものとする。英次はその、三番目の参加者だったというわけだ。

 しかし。


『つっまんねーの。何も起こらないんですけど。異世界転移ってやっぱウソだったんじゃねーの?』


 最初から怪しくはあったのだ。何故なら、一人目も二人目も異世界とやらに行けず、そのまま普通にエレベーターで戻ってきてしまったのだから。言われた通りにボタンを押してみたものの、何の変化もなし。それを見て英次を含めた残りの仲間は、噂が嘘だったVS試した奴が選ばれし存在ではなかった、で少々議論が紛糾することとなるのである。

 最終的には、“じゃあ五人とも試して、誰も成功しなかったら噂がデマだったってことにしよう”という結論になり。三人目、まったく期待もせずに英次が儀式を試すに至ったわけなのだが――。


――俺は、成功したのか?それとも失敗したのか?


 変化は、あった。

 最上階の六階でエレベーターを降りたところで、まだ夕方のはずなのに団地の通路が真っ暗になっていたのだから。

 手摺の向こうから外を見れば、外は完全に夜だった。ぽっかりと赤い月が浮かんでいるのに、周囲に照らす光はどこか青い。そして、団地の外には黒いタールのようなどろっとした海がえんえんと続いているという場所である。

 何か変化があったら、一度動画から写真に切り替えて写真を撮って転送しろと言われていた。だから、団地の建物の外や、廊下の写真を友人に数舞撮って送った。それから、言われるがまま動画を撮りつつ、通路をぐるりと歩いてみたものの何かおかしなものがあるでもなし。

 ひとまず、“望んだ夢と希望の異世界になんか行けなかったらしい”が、“妙な世界に行く方法だったのは間違ってなかったらしい?”という結論を出したのだった。が、妙な世界というにしては何もイベントが起きず、実に退屈に感じたのも事実である。そのまま、元の世界に帰るべくエレベーターへと引き返した。そう。

 そこまでは、良かったのだ。


『カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しください。カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しください。カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しください。カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しください』


 一階のボタンを押して、四回呪文を唱える。自分はちゃんと、SNSで出回っている“正しいやり方”で元の世界に帰ろうとしたはずだというのに。

 エレベーターのドアは閉じて、そのままどこにも動かなかった。もう一度開く、ボタンを押してもまったく動作しない。そればかりか。


「ひっ」


 ジャアアアアアアアアアアアアアアア――。

 突然。エレベーターの床の四隅から、水が吹き出して来たのである。それも、灰色にどろどろと濁った不潔な水だった。その勢いは凄まじく、唖然としているうちに英次の靴を越え、足首を越え、膝のあたりまで達してくる。


「なんだよ、なんだよこれ!あ、開けろ、開けろって、開けろってば!!」


 吐き気がするような酷い臭いだ。よく見ると、水の中にはただの泥とは思えない、何かの破片のようなものがいくつも浮いている。よくよく観察したら、細い髪の毛の束や、ふやけた人の指のようなものまであった。まるで、水死体をそのまま水場で放置して腐らせ、そのぐずぐずに溶けた破片を混ぜ込んだような汚らしい水である。妙に生暖かいのも、気持ち悪さに拍車をかけていた。何故、こんなのがエレベーターの中に注ぎ込まれるのだろう。自分はそんなものに浸からなければいけないのだろう。

 いや、それ以上に。


――こ、このまま水が増えたら、溺れちまう……!


 どんどん水嵩は増える一方だ。腰のあたりまで水に浸かったところで、英次の声は完全に悲鳴へ変わっていた。臭いがきつくなる。嘔吐感が喉元までこみあげる。自分の体のすぐ傍を、腐った目玉のようなものが浮いては沈み、消えていく。


「た、助けてくれ!お願いします、助けてください!」


 だが、既に水没しつつあるボタンは一切反応しない。ギリギリのところで気づいて、スマホで友人の一人に電話をかける。幸い、やや水に濡れたものの耐水仕様だったこともあってまだ動いていた。こういうホラー現象の最中では圏外と話が決まっているものの、よくよく考えたらさっきまで普通にメールができていたわけである。電話も通じた。向こうから、もしもし?と暢気な声が聞こえてくる。


『英次ー。なんで電話かけてきてんの。まだ戻ってこないの?何してんの』

「き、桐谷きりたに!た、た、助けてくれ、殺される!」

『はあ?殺されるって、なんだよ。悪いけど、そういうジョークマジつまんねーぞ?』

「違うんだって!エレベーターの中なんだって!か、か、帰る儀式試したら、と、突然エレベーターに水が、水があふれてきて……も、もうすぐ胸のところまでくる、溺れる……!」

『エレベーターの中に水ぅ?んなことあるわけねーじゃん、そんなのあったらショートしてぶっ壊れちまうだろ?』

「ほんとなんだって!」


 どうして信じてくれないんだろう。英次は泣きたくなった。確かに、もう水は胸の高さまできているし、水が注ぎこまれる音も電話越しではよく聞こえないのかもしれない。そして、エレベーターの中が水でいっぱいになって、なんて事態はにわかに信じられないのかもしれないが(こうして考えてみれば、自分も逆に立場なら信じられなかったかもしれない)。


『ていうか、お前の乗ったA棟のエレベーター、段々一階に降りてきてるぞ?お前それに乗ってるんじゃねーの?』

「そんなことあるか!嘘つくなよ動いてないんだよ動かないんだよ!何でか明かりだけついてるけど!すげえ汚い水に溺れそうなんだよ助けてくれよお!」

『嘘つくなって嘘ついてんのお前なんじゃねえの?……ていうか、え、マジなの?』


 ここで、友人の背後から別の友人が声をかけたようだ。そういえばエレベーター怪死事件の被害者の中には、何故かエレベーター内で溺死していた人がいたんじゃ――みたいなことを話したらしい。小さくそれらしい会話が聞こえた気がする。


「助けてくれ!す、スマホ、もう持ってられねえんだ、み、水が首までっ……」


 さすがに、この汚泥のような水に完全に浸かってしまったら、スマホもいつまでも通じないだろう。必死で頭より高い位置まで掲げているだけでももう限界である。油断すると、水が首まで入ってきそうだった。泳げないわけではないので、足がつかなくなってもしばらくは立ち泳ぎで呼吸を確保できるだろうが――それも限界がある。なんせ、エレベーターには天井があるのだ。天井まで水がきてしまったらもう、酸素を得ることは叶わない。


『た、助けてって言われても……!』


 やっと、通話の向こうの友人達も様子がおかしいということに気づいたらしい。警察を呼ぶべきか、どうするべきなのか。混乱気味に会話を交わしている様子が伝わってくる。が、もうこっちからは“どうすればいい”と言われても、とにかく“早くここから出してくれ”としか言いようがないわけで。


「がぼっ……!」


 ついに、限界は訪れた。足がつかなくなり、浮き上がった頭がエレベーターの天井にぶつかる。もう、腐った臭いを気持ち悪いと思う余裕さえなかった。そもそも、けしてサイズの大きくないエレベーターだ、天井もさほど高いわけではない。ここまで来てしまったらもう、耐える方法など殆ど無いも同然だった。


「た、たすけっ……ああっ!」


 手からスマホが滑り落ち、汚れた水の中へと落下していく。電話口からの友人達の声もそれに伴って聞こえなくなった。絶望の中、必死で天井に顔を向けて、口の中に入ってきそうな水から呼吸を確保するので精一杯である。


――俺、こんな死に方しなくちゃいけないほど、悪いことしたっけ。……そりゃ、オカルトな儀式とか怪談とか、面白半分で試してきたのは悪かったと思ってるけど、でもさあ。


 何がいけなかったのか。何が間違っていたのか。あるいはこれが単純に、自分の運命だったというべきなのか。

 前二人の友人は平気だったというのに、何故自分だけが。仲間内の中で、自分だけそんなにも重たい罪があったのだろうか。そんな心当たりなどないというのに。


――やだよ、死にたくないよ。死にたくない。死にたくないよお。


 ごぼり、と水中に沈む寸前。

 英次は涙で滲む視界の中、ただそれだけを想っていたのだった。

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