第8話 by翠

とにかく考えなければならないことは多い。しかし、今は詩乃の話を聞きに行くことが先だ。

「詩乃ちゃん」

水場で雑巾を絞っていた詩乃は龍馬が声をかけるとすぐに気が付いた。

「待たせたね、話って?」

詩乃は周囲を窺う素振りを見せ、道場の方に目をやり顔をしかめた。

「龍馬様、詩乃のお部屋でお話しましょう」

部屋に龍馬を案内するなり、すぐ戻りますと言い残し詩乃は足早に部屋を出ていった。足音の向かう方向から察するに茶を汲みにいったのか。彼女の部屋は、つい最近越してきたからか物が少なく、必要最低限の調度が備わっていた。

まもなくパタパタと足音が聞こえ詩乃が戻ってきた。案の定彼女の手には茶碗が二つ乗った盆あった。詩乃は茶碗の一つを龍馬の前に置くと意を決したように龍馬を正面から見据えた。

「龍馬様、蟲を知っていますか?」

予想だにしていなかった問いに龍馬は目を見開き言葉を失った。


蟲。それは人ならざる者である。人の見た目をしていながらも周囲の人間の『関係』を喰らい、孤独によって弱らせる。そして、その存在はごく一部の者しか知らない。

龍馬が蟲を知ったのは二年前の事件がきっかけであった。小さな茶屋を営む男性が、自宅で首を吊って死んでいるのが発見されたくだんの件である。現在も未解決のままであるが、調査にあたっていた探偵は最期に龍馬にだけ語った。

「今回の事件、私は嫌な予感がして、それをかき消すように死力を尽くして調査にあたった。……だが、何も出てこないということはそういうことなのだろう。私のこの状態が何よりもの証拠だ。龍馬、この件からは手を引きなさい。決して私の死を無駄にしてくれるんじゃないぞ」

「どういうことだ?」

「――が、来ている」

「今何と言った」

耳慣れぬ単語と、病人の細い声が合わさり上手く聞き取ることができなかった。上体を倒し、臥せる病人の口元に耳を近づけると、今度ははっきりと聞こえた。

「蟲が来ている」

それから龍馬は、故人の言いつけを守り事件から手を引いた。そのかわりに、蟲について調べて回るようになった。書物には蟲に関する情報は一切記載されておらず、人に尋ねても蟲について知る者は殆どいなかった。多くの場合は酔漢の戯言だと笑い流され、辛うじて蟲のことを知っている者も、良くできた怪談話だと思い込んでいる様子であった。結局、龍馬は探偵が残した覚え書きに記されていた以上の情報を得ることはできなかった。


龍馬の知る限り、ここ二年で新たに蟲が現れたという話は聞かない。このタイミングで詩乃が蟲の話を始めるのは偶然なのだろうか?

「さっき、その……厠に行った時に、偶然龍馬様の独り言を聞いてしまったんです。『蟲じゃ』って」

だとしてもだ。「むし」と聞いて蟲だと認識する者は何人いるのであろう。普通は虫を思い浮かべるのではなかろうか。探偵は龍馬以外にあの奇天烈な見解を語っていなかったはずだ。まさか。

嫌な汗が龍馬の背中を伝った。

「詩乃の母は蟲なのです」

「……何を言っているんだ」

「詩乃は……人間の父と蟲の母の間に生ました。父は母が蟲であることを打ち明けてもなお、母を愛し続けたのです」

「……」

「詩乃は蟲の力を使うことができます。でも……人間の血も引いているせいか幼い頃はこの異能を上手く制御できませんでした。……詩乃の異能は父を侵してしまいました……っ」

気が付けば詩乃の声は震え、彼女の頬に涙が伝っていた。

「気が付いた時には、もう手遅れで……っ、父は……母と詩乃を守るために自分の死を自死と見せかけることにしました。母は衰弱していた父を手伝って、……詩乃はその間、物置小屋に閉じ込められていました……っ」

「なぜそのことを俺に……?」

「龍馬様が、前に茶屋で偉いねと言ってくれたから……っ。……私の母は、あの事件を調査していた一人の男性に異能を使いました。彼が蟲の噂をどこかから手に入れたからです。あの頃、母は女手一つで詩乃を守ろうと必死でした。……彼が亡くなったのは全部詩乃のせいです。彼は龍馬様のご友人だったと溝渕様が話していました……っ」

一通り話し切って詩乃は堰が切ったように声を殺しながら泣いた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!詩乃は偉くないのです」

どっと疲れが押し寄せてきた。龍馬は心做しか覚束ない足に鞭を打ちながら帰路についていた。

あの後、詩乃の泣き声を聞きつけ、部屋に入ってきた溝渕を「実は詩乃とは以前から顔見知りで、悩み事を聞いていた。環境の変化で疲れがたまっているらしいから休ませてやってくれ」などと適当な御託を並べて誤魔化した。実際に以前茶屋で会っているのでおおよそ嘘ではない。詩乃と別れたあと、龍馬は亡き同心の言葉を思い出していた。「この件からは手を引きなさい」。当時、龍馬は自分を守るための言葉だと思っていた。しかし、これは結果的に正体を隠し人間に紛れて生活することを望む、久留島母子をも守ることになっていた。もし、全てに気が付き、龍馬の行動を読んだうえで逝ったのならば。本当に惜しい人物を亡くした。彼なら今回の事件をどう考えるのであろう。

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