第50話 最後の夜


 明日か……。

 綾さんから引っ越しの日時を聞いて、俺は絶望していた。

 それにお腹の中には、赤ちゃんが。

 彼女は「まだ誰にも話していない」と言っていた。

 ということは、航太にも。


 自宅に戻ると、部屋の中は真っ暗で、航太はまだ眠っていた。

 ショックを受けている、彼を起こしたくない。

 だから部屋の灯りは点けないまま、キッチンでタバコを吸うことにした。

 

 換気扇の中に吸い込まれていく、白い煙を眺めて一人考え込む。


 俺は本当に無力な人間だ……。

 少しでも引っ越しの期日を伸ばそうと、抗議に行ったつもりだったのに。

 お腹に赤ん坊が入っていると聞いて、ひるんでしまった。

 だが、そのことは、彼に隠していた方が良いのだろうか?


 近くにあった灰皿でタバコの火を消すと、深いため息をつく。


「はぁ……結婚に、妊娠か」


 そう呟くと、背後からなにか大きな音が聞こえてきた。

 振り返ってみると、俺が普段使っているスエットを着た少年が立っていた。


「おっさん、その話。本当なの!?」


 しまった。航太に聞かれていたか。


  ※


 綾さんが妊娠していることを、彼に聞かれてしまった。

 しかし、バレてしまったものは仕方がない。

 俺はなぜ、綾さんが今回の引っ越しや結婚を急ぐ理由を航太に説明した。



 最初は顔を真っ赤にさせて、興奮していたが。自身の母親が妊娠していることを知ると、次第に落ち着きを取り戻していく。

 いや、正しく表現するのならば、あきらめたのだろう。

 


「じゃあ……オレ、もうすぐお兄ちゃんになるんだね」


 必死に笑顔をつくろうとする彼を見て、胸が激しく痛む。

 やはり、彼はなんだかんだ言っても、家族想いの優しい子だ。

 こんな幼い子供に、母親の綾さんは甘えている……。


「航太、無理をするな。今日ぐらい、俺に甘えても良いんだぞ?」


 そう言って、右手で彼の頭を優しく撫でると。

 やはり我慢していたようで、すすり泣く声が聞こえてきた。


「うう……やっぱり、まだここにいたいよぅ」


 これが彼の本音だとわかった瞬間、俺は航太を力いっぱい抱きしめた。

 クリスマス・パーティーの時にも抱きしめたが、あれは事故に近い。

 今回のは、本当に俺がしたいと思って、やったことだ。


「俺も同じ気持ちだ……」


 彼の耳元でそう囁くと、航太は大声で泣き叫ぶ。


「うわぁぁん!」

「……」


 今すぐこの子を連れて、どこかへ誘拐したいと思った。

 でも、俺にはそんな無責任なこと、出来るはずがない……。


 ~二時間後~


 ショックから、しばらく取り乱していた航太だが。

 時間が経つと共に、落ち着きを取り戻す。

 

「おっさん、長いことくっついてごめんね……。あのさ、お腹すいてない?」

「航太……」


 こんな時でさえ、自分のことより、他人の心配か。

 見ていられない……。


「引っ越しは明日なんだよね? なら最後におかずをたくさん作っておくよ。だって、おっさん。オレがいないとダメじゃん?」

「……」


 彼の言う通りだが、今日だけは俺に甘えて欲しい。

 そうじゃないと、俺の方がどうにかなってしまいそうだ。


「おっさん? どうしたの?」


 黙り込む俺を不思議に思ったのか、下から覗き込む。

 大きなブラウンの瞳を輝かせて……。


「あのな、料理とかしなくていいから……。俺と一緒に布団で寝てくれないか?」

「え? おっさんと一緒に?」

「変な意味じゃないんだ。たぶん最後の夜だろ? さびしくならないように、できるだけ一緒にいたいんだ」


 それを聞いた航太は、頬を赤くして、しばらく黙り込む。

 でも、別に俺からの提案を嫌がったり、恥ずかしがっているようには見えない。

 むしろ、驚いているようだ。

 俺からそんなことを言ったのが……。


「わかった。寒いし、お布団の中でなにか話そうよ!」

「ああ、そうだな」



 部屋の灯りは消したので、隣りに寝ている彼の顔はあまり見えない。

 暖房はつけているが、すきま風が入るボロアパートだ。寒いに決まっている。


 彼から「なにか話そう」と言ってくれたが、布団に入ってからあまり言葉が出ない。

 お互いの身体を密着させて恥ずかしい……というわけではなく、急に決まった引っ越しを受け入れられないのだと思う。

 なにを話していいのか、わからない。


 最初に口を開いたのは、彼からだった。

 

「おっさん、オレ……絶対またここ、”藤の丸ふじのまる”へ来るから」

「ああ」

「長崎にも来てよね? 住所と連絡先、あとで送るし。でも、おっさんは貧乏だから無理かな」

 

 正直、彼の皮肉に返す言葉もない。

 航太の言う通り、俺は貧乏作家だからそんな頻繁に長崎へ行くほど余裕がない。


「それでも、必ず行くよ」

「あんまり期待してない」

「……」 

「おっさん、最後だから言ってもいい?」

「ん? なんだ、遠慮せずに言ってみろ」


 俺がそう言うと、航太はなぜか黙り込んでしまう。

 そして、しばらく沈黙が続いたあと、こう言った。


「あのさ、記憶が曖昧なんだけど……クリスマスの日。オレとおっさんって、き……キスしたのかな?」

「!?」

 

 まずい。航太のやつ、記憶が残っていたのか。

 最後の夜とは言え、彼に変態と思われたくないな。


「どうなの? おっさん」

「あ、あの時はお前、かなり酔っぱらっていたからな。夢と勘違いしているんじゃないか?」

「そっか……なら、良いんだ」


 なんだ? 否定したら、少し寂しそうに見えるな。

 どっちが正解だったのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る