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マネージャーの運転する車の窓を開けようとしたら、花粉症です! と鋭い声が飛んできた。
慌てて手を引っ込めた。マネージャーはマスク越しに鼻を啜り、ハンドルから片手を離してゴシゴシと耳を擦った。
「なんで耳? 鼻じゃなくて」
「私も知りませんよ、花粉でなぜか耳が痒くなるんです」
「今の時期ってスギ?」
「多分そうです、だから絶対窓開けないでください」
大人しく了承し、安心させようと扉からも離れた。バックミラー越しに頷きが寄越される。マネージャーはまだ痒そうにしていたが片手運転の方が嫌だったらしくすぐにハンドルを握り直した。
次の仕事場まではまだかかる。車のシートにもたれつつ、柔らかい日差しの外をぼんやり眺めた。春だからなのか、色々な草花が目についた。種類は言い当てられないが、名前だけならいくつも言える。桜、
「あ、それ、小説家役の時のですか」
マネージャーの軽い声に言葉を止める。そうだよ、と同意すれば笑い声が返ってきた。
「あそこのシーン、好きなんですよ。続き言えますよ私」
「へえ……さすが俺のマネージャー」
マネージャーは嬉しそうにして、続きを口に出し始める。紫陽花、
バックミラーにきょとんとした目が映る。別になんでもない、外に知り合いがいた気がしただけ。そう適当に言い逃れておけば、一応は納得したみたいだった。
溜め息をつき、鞄から次の役の台本を取り出した。内容はもう頭に入っているが、とりあえず会話を切ろうとパラパラ捲る。時代劇なのがちょっと笑える。あの映画が評価された結果だ。
あれから二年は経っている。俺を揶揄するように、小説家が花の名前を口に出す。石楠花、夾竹桃、それから睡蓮。マネージャーに聞こえないよう舌打ちすれば引っ込んだ。二回目の溜め息を喉で抑える。
あの人がどこで何をやっているのか、俺は本当にもう知らない。
一度だけ探したけれど、それ以降は手立てをほぼ失った。
廃港での仕事から半年を過ぎた頃、俺は久々にドゥルガーへと足を運んだ。単純に忙しかったのもある。最後の仕事のために空けた五日間が案外と効いて、撮影用に押さえていた埠頭周辺の使用許可を再び申請しなくてはいけないと言われてしまった。でも、大規模なイベントが行われる時期だったらしく、通らなかった。
結果的に別の場所で撮影したが監督のイメージに合う埠頭は北の方の遠い場所で、結局遠征となり他のシーンの撮影も現地付近で賄った。
撮影が全て終わった後に、ドゥルガーに向かった。
年季の入った店構えや店内に流れるクラシックは変わらなかったが、店長が別の人になっていた。
「あの、以前の店長さんは?」
ダメ元で聞いてみると退職したのだと告げられた。あの扉の向こうが気になったが入れるわけもなく、ただ、店長も馬酔木もだけど、睡蓮が元気なのかどうかは、どうしても気になった。
少しだけ食い下がって現在の店長だという女性と顔を合わせた。
俺の名前を聞くと合点がいった顔をして、地図の書いた紙を出してきた。
「竜胆さんという方が訪ねてきたら、渡して欲しいと」
受け取って、すぐに向かった。
野山の広がる場所の真ん中には墓地があり、俺はどきりとしたが、入ってみて知った。
死んだ始末屋たちの墓石ばかりが並んでいた。
管理人らしい老人が、そう教えてくれた。
「……睡蓮……南十川睡蓮って人の墓は、ないですよね?」
「聞いたことないねえ……というか、本名じゃあ登録されないよ。始末屋ってのは大体行き場のないやつの溜まり場だ、本名の価値はほぼない。そいつが死んだら仕事の名前で埋葬される」
老人は墓石の群れを見やり、仕事用の名前しか掘られないしね、と付け加えた。
しばらく、同じように墓を見つめた。店長がここを教えてくれた理由は不明だが、定期的に訪れれば、睡蓮が死んだかどうかだけは確認できる。
何度か、そのためにこの墓地に来た。管理人の老人はいたりいなかったりして、そのうちに俺には慣れて何も言わなくなった。
睡蓮の墓はまだない。
そう知れるだけで良かったのに不意の再会は妙な角度から訪れるものだった。
車が会場に辿り着いて、俺は控え室に入るなり高価な黒スーツに着替えさせられた。
柘榴の衣装だった。袖を通すのは久しぶりだけど、案外とまだ馴染んでいる。
着替え終わって部屋を出ると、近くで待っていたマネージャーが改まった様子で俺に向けて頭を下げた。
「竜胆さん、主演映画のロングヒットおめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「あっち、たくさん花が届いてるそうですよ、行きましょう」
頷いて、先を歩くマネージャーについていく。その道すがらすれ違うスタッフや共演者、感動で目を潤めませている脚本家などと挨拶を交わした。
ロングヒット記念での会場を貸し切っての上映会ができるなんて嬉しいと、監督は感極まっていた。
あなたに訪れない涅槃は評価されている。原作小説も当然そうで、主演の俺も恩恵を受ける形だ。
色々な人が謝辞を述べてくれる。
「動員数もまだ伸び続けてますよ、麻生田さん」
「著名な賞に応募しようかとも話してて……」
「竜胆さんの柘榴、本当に原作そのものでした」
「最後の埠頭のシーン、どういった気持ちで演じられたんですか?」
睡蓮も観てくれただろうか。そう思いながら、実体験ですよ、と相手に返した。冗談だと解釈されて笑われたから、俺も合わせて笑った。
まだ客の入っていない会場のロビーに入ると、たくさんの花に迎えられた。ここにも数人スタッフがいて、挨拶や雑談をしながら、一つずつ花を見ていった。
「あ、これ、ハスの花?」
マネージャーが一つの花束を指した。立ち並ぶ祝い花の中に、白いハスの造花が確かに混じっていた。どちらかといえば仏壇に供えるイメージがあるが、涅槃という単語にかけて、仏教に由来のある花を贈ったのだろうか。
ここまで考えて、一瞬息が詰まった。そんなわけないと思いつつネームプレートを確認しようとしたところで、共演者に肩を叩かれた。
「竜胆、おはよ」
「あ、はい……おはようございます」
焦ってそぞろな返事になったが、彼は気にした様子もなく笑い、俺のそばにあるフラワースタンドに目を向けた。
「おお、これ涅槃にかけて仏教花なのか。センスいいな、誰から? あれ、プレートないな」
「え……」
「でも竜胆宛だとは書いてあるから、お前用の睡蓮だろ」
「睡蓮?」
思わず大きい声で聞き返した。彼はちょっと驚いた後に、葉の切れ目を指差した。
「葉っぱが切れてるやつは睡蓮、切れてないやつはハス、って聞いたことあるよ。これ切れてる方だから睡蓮だろ、どっちにしろ蓮華は仏教花だろうけどな」
返事をしなかった。無言で花を束ごと掴んで、ほぼ無理矢理外した。共演者が驚いた顔をしてマネージャーが慌てて寄ってきたけどそんなことはどうでも良かった。
掻き分けると本当に小さなメッセージカードが挟まれていて、一番面白かったとだけ書かれていた。
あの人らしい軽くて平坦な感想に、俺はつい笑ってしまった。
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