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役者を始めたのは偶然だった。ぼんやり町を歩いていた時にスカウトされ、そのままなんとなくついていき、単館上映映画の端役として出演した。懐かしいし忘れはしない、二十歳頃の話だ。
俺はオーケストラの団員の一人で、主人公やヒロインと同じ楽団に所属している、クラリネット吹きの新人だった。新人の役に新人をあてがって、場馴れせずにばたつく様子や緊張する様子を撮ろうとしたのだとは思う。実際に、撮れたのだと思う。
でもそのフレッシュさみたいなものは、俺じゃなくて俺の中に生まれた楽団員が元々持っているものだ。
やっと念願の楽団に入れて、ほのかな憧れをヒロインに向けていて、主人公を目標に毎日練習に励む、普通に純粋で普通に努力家の青年だった。
でも、俺の中に初めて出来た役柄だったから不慣れな部分があった。それを今やっと自覚した。
あの時は役柄にすべてを任せ切れていなかった。
クラリネットの青年は自主練習のために人気のあまりない、楽器を思い切り吹いても迷惑にはならない廃れた場所を探し歩いた。暗い裏路地、誰も住んでいないと言われるボロ屋ばかりの一角。向こう側のわからない雑木林に囲まれた、人の気配がない地帯。本当ならそんなことはしない。役柄は俺が死ねば死ぬのだから、明らかに危険な判断はしない。俺も死ぬようなことはするなと、役柄たちにルールを守ってもらっている。
でも青年も俺も未熟でまだ半端だったから、ルールなんてなかった。青年は自己判断で冷えた空気の流れる一角を、社会の表側から覗き込んでしまった。
その時に、人が人を始末する光景を目にした。倒れた相手に容赦なくとどめを刺した始末屋の後ろ姿は恐ろしく、震えながら慌てて逃げた。この時の恐怖だけを俺はうっすら引き継いでいたらしく、撮影外で危険なことはしないとルールを定めたようだと、今やっと腑に落ちた。
青年は二度と始末屋のいた地帯には近付かなかった。撮影とは何の関係もない自主練習だったから、彼以外は誰も知らないままクランクアップまで時間は進んだ。そしてクラリネットの青年は眠り、俺が目覚めて、出来事自体は知らないまま、役者としての道を歩んできた。
青年の記憶がふつふつと蘇る。もっと詳しく言うのなら、溶け始めて滲み出している。
手を叩いても青年は顔を見せなかった。五年も眠っているから起きられないわけではないと、自分の中身のことだからよくわかった。
俺……いや、僕は役者じゃなくなり始めている。
一番古い役柄から淘汰されていっているのだと、自分の両掌を見つめながら理解した。
クランクインはまだだが台本の読み合わせをすると連絡が入った。マネージャーからではなく、監督から直々にだ。こちらの役作りについては伝えてもらっている筈だから独断の連絡なのだろう。
断るものでもない。了承し、当日はスーツにコートを羽織って、昼前に家を出た。刀も持った。丸腰で歩くことは有り得なかった。
読み合わせは取り立てて秀でたところもなく、無難に進んでゆっくり終わった。
相手役の女優が役者数人と食事をしないかと誘ってきたが断った。引き下がっていつなら都合がいいかと聞かれている時に、演出家が満面の笑みで寄ってきた。
「竜胆さん! ただの読み合わせでしたが、もうほとんど柘榴で驚きました……役の落とし込み方の話、噂には聞いていましたが本当に凄いというか、特技ってレベルじゃないですね、正直かなり興奮してます」
瞳孔が少し開いていた。本気で、純粋に、感動しているようだった。
だから、向き直って笑みを返した。
「ありがとうございます。僕としては、いつも通りですよ」
「それが凄いんですよね……立ち位置の微調整とかは演出家として口を出すとは思うんですが、演技指導めいたことはほぼしないので! 撮影開始後もよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします。細かいことでも、引っ掛かるところがあれば遠慮なく指導してください。頼りにしています」
「いやそんな……お互いに頑張りましょう、今から楽しみです……!」
演出家は笑顔のまま更に話す。あなたに訪れない涅槃は元々好きな小説で、やっと実写化に漕ぎ着けたから本当に気合いが入っている。自分だけではなく、監督も脚本家もだ。昨今批判されがちな、いわゆる原作レイプにならないよう、主演に据える役者を三年以上探していた。やっと竜胆さんに辿り着いて、請けて貰えた。役柄そのものになれる竜胆さんなら柘榴を絶対に演じ切れる。
熱弁を聞いている間に、相手役の女優はどこかに行った。その代わりに監督がやってきた。演出家を交えて原作小説の話に花が咲き、せっかくだからこのまま食事にと問われたので、今度は快く了承した。
和食屋に移動して、多少早い夕飯を食べた。色々と話す演出家と監督の話題がふと途切れた時に、聞きたかったことを聞いた。
「あなたに訪れない涅槃、原作者の方って、死因はなんですか?」
二人は一瞬黙り、顔を見合わせ、そういえば知らないな、と呂律の回らない様子で言った。納得したので、不思議ですよね、だから余計に名作なのかなと、世間話として流した。
作者はどう調べてもろくな死因が出て来なかった。自殺としてあったが、違うだろうなと今の自分には推察できた。
ほとんど真実に近い始末屋の話を書いてしまったから、始末された。そう考えるのが妥当なのだ。
そして柘榴のモデルは作者本人だ。
今僕の腰にある刀の以前の持ち主が、小説の原作者なのだから。
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