第3話 甘地苺桜の形

 彼が去った後、いつの間にか数人だけになっていた職員室で、私は今日の彼との会話を思いだす。


『……いえ、特にこれといって問題があったわけではないです。そもそも、いじめられるほど俺と関わりのある人間はいないので……。ただ少し、昔の罪滅ぼしをしてみようと思っただけです』


 多分、彼が今日私との会話で唯一本音を漏らしたのはこの時だけだ。いや、確信している。

 彼は少し踏み込んだ話をしようとすると、適当な冗談で場を濁してうやむやにする。それはまだ二月に満たない付き合いしかないけれど、間違っていないだろう。ただ、今日は少しだけ彼の心に近づけた気がする。

 彼は「罪滅ぼし」と言った。彼の過去に一体何があったのだろうか。知りたい気持ちはある。彼もまた、私の大切な生徒の一人だ。何か困っているのなら力になりたい。けれど、きっとそれを知るには今の繋がりだけでは弱いのだろう。

 誰にだって辛かった過去はある。犯してしまった過ちだってあるだろう。私にだってある。けれど、その経験が今の私を形作っている。私が今もこうして不相応にも教鞭を執っていられるのは、その過去から学んだからだ。

 私はこれから先もまだまだ間違い続けるだろう。そしてその度に新しい私に出会っていく。つまり、人間は失敗によって学び、失敗によってまた新たな自分に出会うことで成長していくのだ。そうやって人は人になっていく。私は私になっていく。そういうことを、私は教えてもらった。

 けれど、彼はどうだろう。あの赤いガラス玉のような瞳には、何が映っているのだろう。あるいは、何も映してはいないのではないだろうか。彼の言葉も、態度も、行動も、優しささえも、あの目を見ていると嘘のように思えてしまう。

 本当の彼はいったいどこにいるのだろう。

 嘘で覆い隠した彼の中身は、果たして本当にあるのだろうか。


「……はあ」


 知らず知らずのうちにまた大きなため息をついていた。

 周りを見渡してももう誰も残っておらず、時刻は既に七時を回っている。いつの間にか考え込んでしまっていたようだ。

 そろそろ帰らなければ明日起きられなくなってしまう。そう、私は三十路で独身だ。無論、帰っても「お帰り」と出迎えてくれる愛しき恋人もいない。


「……はあ」


 そんな益体もない事を考えているうちに、またもや大きなため息が漏れる。

 そしてふと、今日の彼の言葉を思い出す。


『先生、あんまりため息ばかり吐いていたら幸せが逃げちゃいますよ』


 その後に何か言っていた気がするが、それについては思い出せなかった。拳に残る温もりがそのことを思い出させようとするが、あえて無視する。世の中には忘れてしまった方がいい事だってあるのだ。


 果たして、彼のその言葉は嘘なのだろうか? 

 いや、ただの軽口だったということは分かっている。けれど、そんな何気ない会話でさえ彼との会話の一つなのだ。それがまったく中身のない嘘だというのは、少し寂しく感じる。

 無論私だって大人だ。ため息にはストレスを軽減させる効果もあるから、悪い事ではないということも知っている。まあ、ため息が多いということはそれだけストレスが多いということだから、ため息が多いことをいいことだとは言えないが。そもそも、そのストレスの原因はほとんどが彼である。彼にだけはそれを言う資格はないと思う。


 ……しかし、不思議なものだ。

 あれだけ生意気で、嘘ばかりの言動で私をイライラさせる彼なのに。それが原因のため息なのに。何故か彼を思って吐いてしまうため息に、心地よさを感じてしまう私がいる。ため息を吐くと幸福が逃げてしまうはずなのに、ため息を吐くたびに私は少しだけ温かさを感じる。

 それがなぜなのか、何もわかりはしないけれど一つだけ分かること。

 それは、ため息をつくたびに思い出すのは、あの空っぽの寂しげな赤い瞳だということだ。



 学校から出て駐車場へと車を取りに行く。高校の教師の年収は勤続年数によって変わる年功序列制度だ。この学校も私立ではあるがその体制を敷いている。私ももうすぐ三十代。趣味のドライブやキャンプにとこの春、念願だった四駆の外車を購入した。この先しばらくは仕事をクビになるわけにはいかない。

 それにしてもつい勢いで買ってしまったが、貯金は将来の結婚資金にとっておかなくて大丈夫だろうかと、今になって思ったりしている。まあそもそも相手も見つかっていないのにそんなこと気にしてもしょうがないな、……うん。どちらにせよ私は心にまた傷を負うのだった。

 そんなセルフ自虐思考で傷ついていると、もうすっかりあたりは暗くなっていた。やはりまだまだ夏には遠いなと実感する。


 それにしても、今日は一段と寒い気がするな。すでに暦の上では夏に入って一月近く経つ。今朝方確認した今日の最低気温は昨日よりも高かったはずだが。

 いくら技術が進んでもまだまだ天気予報は当てにならないものだ。 


「……はあ」


 乗車前に漏れたため息は、誰もいない夜の闇の中へと消えていく。

 やはり、最後に思い浮かんだのは生意気な彼の澄まし顔だった。

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