第2話 九十九万才の形
五月もそろそろ終わろうかという今日この頃。
俺、
そう、日本に古くから伝わる伝統的謝罪方法、『DOGEZA』である。もう無形文化遺産と言ってもいい。
昨今の地球温暖化の影響からか、はたまた俺の抑えきれないホットで熱々な熱血魂の影響なのか、夏の始まりを先取りするかのようにじわじわと暑さが身をつつむ今日この頃、未だエアコンどころか扇風機さえまわしていないこの部屋は、なかなか土下座に向かない環境だ。
……いや、ホットで熱々な熱血魂って何だ? ほとんど意味変わってないじゃん。そもそも何の部にも所属していない俺がそんな松岡さん的な熱血漢のノリで生きていたら、不完全燃焼起こすか熱がたまって爆発しちゃう。なので俺はクールで冷え冷えな冷血魂で生きていこうと思います‼ ……冷血魂ってなんだ? 熱血魂はいいけど冷血魂ってあんまり聞かないな。ホントにあるのか? あったらあれだな。何故かはわからないが幽霊みたいだとおもっちゃう。長い髪をした女の人がテレビのなかから皿投げてきそう。
いや、それ混ざってるから~‼
アハハハハハハハ
……と、全力全開で現実逃避のくだらない思考を繰り広げていた俺だったが、彼女の慌てたような声で一気に現実へと引き戻される。
「おいおい、なぜ君は来て早々土下座しているんだ? 私はまだ何も言っていないのだが」
土下座する。略して土下座る……下座るだな。なんかべつの意味に聞こえそうだが。『下座ってます! アイツ下座ってます! 下座ってま~す!』 ……はよトイレ行けと言いたくなるな。
「いえ、美人なお姉さんに呼び出されたら、まずはオプション選択の前に感謝の気持ちを伝えるべきかと思いまして」
「そ、そうか。それはどうもありがとう……」
俺の適当な返答に頬を染め、照れたように礼を言う彼女は
肩より少し下あたりで切りそろえられた黒く艶やかな髪。口元の黒子がとてもエロい。整った目鼻立ちは言わずもがな、何より目を引くのはそのプロポーションだ。身長は日本人の男性平均より少し高いくらいで、すらりと長い脚とこれでもかとくびれたウエスト。そして、少し視線を上に向けると先ほどまでの光景が嘘のような大きく形の良い曲線美。日頃からパンツスーツを着こなしている彼女のスタイルの良さは誰がみてもパーフェクトといえる。椅子に腰かけ足を組んでいてもその美しさは変わらないのだから本物である。
名前とは裏腹に甘さのないぶっきらぼうな口調だが、肩にかかった髪を手で梳きながら言うその様子はとても可愛らしい。これで、今年で三十路を迎え、未だに結婚できないというのだから不思議なものだ。
そういえば、と俺は今になって周りを見渡す。
先ほども言ったように、ここはこの学校の職員室。つまり、俺たち以外にも当然人がいるわけだ。生徒の下校時間は既に過ぎているが、先生たちはまだ忙しく働いている。
そう、はたから見れば俺たちは、というか先生は、
『自分の受け持つ生徒に土下座させ、それを見ながら照れている美人教師』
というどう考えても誤解を招いてしまう状態だ。ほら、向かいの席のおっさんだってさっきから俺を睨んで、「畜生‼このクソガキ‼そこ代われよ。羨ましい羨ましい羨まい羨まい………」って握った拳から血を出しながら小さくつぶやいている。てか、それ全く隠せてないぞ、おっさん。隣のお姉さん(多分先生)が今にも警察に通報しようとしてるから。 やめて‼ 思想の自由を奪わないであげて。いや、この場合そもそもセクハラ案件なのか? ……ならしかたないな。うん。俺は何も見ていない。
俺がそんなくだらない思考でまたもや現実から目を背けていると、先生は「んんッ」と軽く咳払いをする。
そして今度はいかにもこれから真面目な話をしますよ、という真剣な面差しを作った。その姿はとても凛々しく、その美しくも鋭い切れ長の目からは目を逸らすことさえ許されない。周囲にもその雰囲気が伝わったのか、この状況がそんなアダルティでエロティックなものではないということを理解してくれたようだ。うんうん、やっぱり美人は得だよね~。でもさ~、な~んでさっきのおっさんは未だにこっちを睨んでいるんだろ~。
「まあいい。それで、私がなぜここに君を呼んだか、分かるな?」
先生のその言葉に、俺は少し真剣な声音で答える。
「ええ、やっぱり先生も覚えていてくれたんですね。十年前、あの夕日の見える丘の上で交わした約束を(キリッ)」
「……ああ、ここで会ったが百年目。今こそ積年の恨み、ここで果たさせてもらおうか!」
先生は椅子から立ち上がって右足を後ろに引くと、右手に綺麗な握り拳をつくった。
直後、俺は全力で腰を低くしてモミモミっとゴマをする。というか先生意外とノリいいな。
「ストッ~~プ、先生落ち着いて。こここそ照れてくださいよ~。怖いよ~。なんだよ百年目って。あんた今一体いくっゴフッ」
俺の言葉を遮って先生の正確無比な拳が俺の腹部に決まった。おかしい、どこを間違えた⁉
涙目になりながら腹を抱える俺に先生はもう一度訪ねる。それはもう今までに見たことがないくらいとびっきりの笑顔だった。瞬間、確信した。俺はきっと生涯この輝きを忘れないだろう。なぜなら生涯で一番恐怖をおぼえたのもまたこの素敵スマイルなのだから。
「私がなぜ、忙しい時間を割いてまで今日君をここに呼んだのか、分、か、る、か、ね?」
「いや、ホントに分かんないんですって、先生。そもそも俺だって忙しいんですけ――待って、先生。ホントにホントなんだって。だからその拳はしまって。俺のライフは既に尽きてるから‼」
危ない。一体今の会話のどこにアングリーポイントがあったのだろう? 『女心と秋の空』というように、女性の気持ちは理解し難いと聞くが先生もそうなのだろうか? だが、あれはもともと『男心と秋の空』からきているらしい。つまり、秋の空は綺麗だね。(思考放棄)
「……はあ。まったく君というやつは。まだ知り合って数か月しか経っていないが、君のおかげで私の毎日はとても彩っているよ。」
「そうでしょう? さすがは俺。俺も先生の残り少ない人生のピークタイムに貢献出来て感慨無量の心持ちです」
「彩っている色はたいていが真っ赤っかなのだがね。……はあ」
「先生、あんまりため息ばかりついていたら幸せが逃げちゃいますよ? ああ、だから毎回男に逃げられて結婚できないのがはあッ」
「…………」
「ゲッフ」
無である。俺は今初めて虚無という概念を見た。というか先生格闘家? 拳がすべて的確に俺の腹部をとらえている。
三度もの拳の応酬で床に膝をついていた俺だが、愛すべきもののために戦うどこかの戦闘民族さながらに、ふらふらになりながらもなんとか立ち上がった。
「まったく、君は。いつまでそうやって私を傷つける気だい? いい加減そろそろ責任をとってもらうよ?」
「俺、責任とれって言われると死んじゃう病なんで。というか、傷つけられていたのは俺なんですが。……けどまあ、最悪先生が売れ残ったら俺がもらってあげますよ(キリッ)」
俺は何の気なしに冗談のつもりで言ってみただけなのだが、先生は本気だった。
「本当だな⁉ 信じるからな⁉ 本当に私をもらってくれるんだな⁉」
「すみません。嘘です。調子に乗りました」
俺は即座に頭を下げる。今のは俺史上最速かつ最も心を込めた謝罪だったかもしれない。やべえ、俺音速超えたよ絶対。てか、独身女性の結婚願望をちょっと舐めてた。今度からはあまりこの手の話題を持ち出すのはやめよう。じゃないとホントに俺、先生と新婚旅行に行くことになっちゃうから。
「そうか、やはり君も私を捨てるのか……」
「先生ごめんなさい。俺が悪かったからその話はまた今度で。そろそろ本題に入ってくれないとこんなくだらないやり取りだけで終わっちゃうから」
「くだらない、か。確かに君たちにはくだらない事だったかもしれない。でも、それでも私は本気だったんだ‼ それなのに、それなのに~~」
「ああもう、めんどくせえ‼ 分かったから! くだらなくないか! 俺も本気で考えるから! だからもういい加減本題入ろう。入ってくださいおねがいします(切実な願い)」
いつから俺がツッコミにまわってしまったのだろう?
ふと、時計をみると長針は始めの位置から半周していた。マジかよ、俺たちこんなやりとりで三十分近く無駄にしっちゃったのかよ。しかも未だに本題には何一つ触れていないし。まあ、その原因の半分、というか七割いや九割近くは俺のせいだが。
しかし、このままでは本当にこれだけで終わってしまう。
「それで先生。何で俺は今日ここに呼ばれたんでしょうか?」
主客転倒であるが、それを言っている時間もない。あまり帰りが遅くなると、愛しの妹が作ってくれた晩御飯を愛しさ余って怖さ百倍であるところの姉に食べられてしまう。できれば「もう明日でいいよ」という言葉を引き出したいのだが。
「はっ⁉ そうだったそうだった。いや、すまない。少し恥ずかしいところを見せてしまった」
「はあ、まあ、……え、少し?」
「まっ、まあ、細かいことはいいだろう! それよりも本題に入ろうじゃないか‼」
そう言うと、先生はごまかすように机に置いてあったコーヒーのコップに口をつけた。そして真剣な面差しで手元にあった紙を俺に渡す。一体何だろう? そう思って手渡されたそれを見て……俺は一瞬で見たことを後悔した。
「九十九、これが何か分かるな?」
「さ、さあ? あれじゃないですか、優秀な生徒に送られる賞状的な。悪いけど俺は辞退しますよ。人前に立つの、苦手なんで」
「違うよ。……まったく君と話していると頭が痛くなってきた」
「それは大変だー。早く病院に行かないと。それでは先生、お体に障るといけないので俺はこれで帰らせていただきますね。さようならー」
俺は流れるような所作で鞄をつかむと出口へと向か――おうとして肩をつかまれた。
「痛てててて。先生痛い‼ 食い込んでるから‼ 肩に指食い込んでるから‼」
「逃げようとするな! まったく。ママに人の話は最後まで聞くものだと教わらなかったのか? ……はあ。分かっているとは思うが、これは先日行われた一学期の中間テストの個人結果だ」
そう、俺たちの通う一ノ瀬高等学園は私立校であり、俺たちの受けている普通科のほかにいくつかの専門学科があったりと少し特殊なのだが、テストは他の普通高校と変わらず学期に二回、どの学科でも中間テストと期末テストが行われる。そして今目の前にあるのは、何を隠そう俺がこの学校に入学して記念すべき第一回目の中間テストの結果なのだ。
「これでやっと本題に入れるな」
先生は疲れをとるように人差し指と親指で目頭と鼻の骨の付け根の間にある清明というツボを押すと、真剣な声音で言う。
「さて、では聞かせてもらおうか。何がどうしたらこの程度のテストでこんなバラエティに富んだ結果になるのか」
「いや~、日々社会のストレスに苦しむ先生たちに面白い話題を提供したくてですね」
「茶化すな!」
大喝一声。流石にこの雰囲気で冗談を言うのは間違いだったようだ。
「す、すみません。けど、俺もそれなりに努力してですね」
「嘘だな。確かにこの学校は他と比べてもそれなりにレベルも高い。が、それでも全教科三十二点なんていう面白おかしい数字になるわけないだろう? しかもまだ入学して大した授業もしていないのにだ」
「っ……」
思わず言葉に詰まる。
確かにそれは当然の疑問だ。誰だってこんな結果を見たら疑いたくなるだろう。けれど、ここで「はいそうです」と認めるわけにはいかない。
「そんなに悪いですかね? 別にいいじゃないですか。最終的に赤点はないんですから。それにあんまりそんなこと言うのはご時世的にもいろいろとまずいですよ」
この学校の赤点ラインはちょうど三十点。俺はすべて回避しているため問題はないといえる。いや、あるな。赤点じゃなければいいっていうのは問題しかないまである。だが、点数どうこうについて露骨に教師が生徒を責め立てるのはやはりいろいろとまずいのではないだろうか。俺は問題にする気などまずないが、それでも俺以外にも言う可能性があるのならここで言っておくべきだ。
「私が言っているのは何も点数だけを見て言っているわけじゃない。それにこの結果、君は明らかにわざとやっただろう? その真意を聞くために今日はこの場を設けたんだ」
先生の声は真剣で、その探るような瞳には流石の俺もここで軽口をたたいて逃げることはできなかった。
「……なるほど、理解しました。つまりあれですね? 先生は、俺には低い点数を取らざるお得なかった何らかの理由があって、もしそうなら、その理由は俺がいじめでも受けているんじゃないか、と考えたわけですね?」
「ああ。……分かっているのなら始めから真面目に言ってくれ」
「それはほら、ご愛敬というやつですよ。……まあ、こんなあからさまな点数とったら流石にばれちゃいますかね。でも、ただ単に俺が物凄くバカか、わざと実力を隠した俺ツエーな主人公に憧れているだけのアホかもしれないですよ? それか、美人な先生に心配されたかっただけのお茶らけたやつかも」
俺は少し息を吐くと、先生を試すようにおどけた態度で問うてみる。
先生はいい人かも知れないが、それが必ずしもいい先生だとは限らない。テレビの中の熱血先生に憧れて、借り物の言葉で生徒と向き合った気になっているだけの自己満足のオナニー野郎だって世の中にはいる。そういう人間はただ、『誰にも打ち明けられなかった生徒の悩みを唯一聞いてやっている俺、超頼られてる~♪』というシチュエーションに憧れているだけで、生徒を自分の劇の道具だとしか思っていない。だからこうして王道の台本にはないひねくれた軽口で返してやると、だいたい機嫌が悪くなったりする。そして言うのだ。「人が心配してやったのに、なんだその態度は‼」と。いつ俺があんたに心配してくれと頼んだのだろうか? 不思議なものだな。それからはあいつが積極的に俺を攻撃していたように思うが、あれは結局誰に相談すべきだったんだ? 中学社会の山下!
と、少し昔の体験から先生を疑ってしまった俺だが、先生は別段不機嫌になった様子はない。そして、さも当たり前かのように言った。
「ふむ。まあ、もしそうならそれはそれで構わない。君の言う通り、そういった生徒も少なからずいることは確かだ。けれど、万が一にも私の生徒が傷ついている可能性があるのなら、それを見過ごすわけにはいかないよ。私は君たちの先生だからな。それがたとえ君のような、生意気なガキんちょでもね」
そう言って彼女は慈愛溢れる微笑を浮かべて、しなやかに伸びる人差し指でツンと軽く俺の鼻の頭をノックした。
それは間違いなく先生の本音だと思った。もし、これがただのカッコつけただけの台詞だとしたら、それはそれで構わないと思った。そう思うほどに、その笑顔は綺麗だった。
その仕草に俺はどのくらい見とれていただろうか。多分、実際は数秒にも満たない時間なのだろう。けれども俺は確かにこのとき、それを数分にも数十分にも感じていた。
先生は心底美しい女性ではあるが、俺は普段その程度で見とれたりはしない。
けれどこの時ばかりは仕方がなかった。彼女のその仕事に対する姿勢が、生徒に対しての誠実さが、包み込むような優しさが、彼女の魅力を何倍にも引き立ててしまっていたのだから。
ああ本当に、なんで結婚できないんだろうな。俺が学校卒業するまでに相手が見つかっていないと、俺が立候補しちゃいそうだから困る。
そんな恥ずかしい心情をごまかすように俺は軽口をたたく。
「ガキんちょって。まあ確かに先生の年齢からしたら俺なんてまだまだガキんちょ小僧なんでしょうけど。……まあ、先生が本当に先生だということはよくわかりました」
「もう一発私の拳を食らいたいようだな。……ん、どういう意味だ? それは」
はてな?と首を傾げる姿は素直に可愛らしい。けれど、それをやって許される年齢はもうとっくに過ぎていると思うな。
そんなことを言おうものならまた拳が飛んでくるので俺はさっきの話を続ける。
「別に、どうもないですよ。それより、何でそんな点数を取ったか、でしたっけ?」
俺が問うと先生は再び真剣な面差しで答えた。
「ああ、言いたくないのなら無理にとは言わないが、もし何か悩みがあるのなら相談してほしい」
「……いえ、特にこれといって問題があったわけではないです。そもそも、いじめられるほど俺と関わりのある人間はいないので。……ただ少し、昔の罪滅ぼしをしてみようと思っただけです」
知らず知らずのうちに自分の声が真剣なものになっていることに気づいた。そういうのは柄じゃない。だから、俺はごまかすように軽口をたたく。
「な~んて~。言ってみただけです。特に深い意味はありません。気にしないでください」
しかし先生はそれで納得したようには見えない。何かを言おうとして――止めた。代わりに彼女は笑顔を作る。それはさっきの見とれるような笑顔とはまるで違っていたけれど、なぜか同じ温かさを感じた。
「そうか。まあ、若いころはそういう意味深なセリフを意味もなく言ってみたくなるものだ。おっと、
『先生はもう若くないからそういうことないんでしょうね?』
とか言うのはやめてもらおう。私もあるから! 私まだまだ若いから! お風呂の時とか鏡に向かって、
『そうか、君はそう考えるのか。ふ~ん、なるほどね』
とか決め顔で言っちゃうから‼」
「……先生、それは普通に恥ずかしいですよ? さすがにイタすぎます」
いくら先生が美人でも、それは流石の俺でもちょっと引いてしまう。思わず本音がポロリとでてしまった。
けれど先生がそんな恥ずかしい行為をしていることを言ったのは俺を気遣ってのことだろう。いや、後半は俺からの年齢いじりを牽制するものだったような? ……まあいい。ここは一応励ましておこう。
「まあ、いくつになってもそういうカッコいいシチュエーションには憧れるものですよ、ええ。皆言わないだけですから。それを堂々と言っちゃう先生素敵です。よっ、三十路病‼」
俺の中の渾身の美辞麗句をかき集めたその言葉はどうやら、先生にとどめを刺すには十分だったようだ。
先生は右手に、もはや見慣れさえしたきれいな握り拳を作り、大きく後ろに右足を引くと、今日一番の渾身の右ストレートを俺の腹部に叩き込んだ。
「う、うるさいなあっ‼ お前らだってカッコいいこと言ってみたいとかおもっちゃうだろうが~‼」
先生の拳を甘んじて受け入れた俺は、ヒーロー戦隊の悪役さながらに地面に膝をついて倒れた。これにて、悪は滅びたのである。めでたしめでたし。
あ、俺、巨大化できないから、ライダーものの悪役だったかな?
*
先生との激闘を終えたあと、なんとか復活を果たした俺はどこかのFさんのように復讐などはせずにそっと戦地を後にする。先生も他には特に話はなかったようで、
「本当に何も問題は無いんだな? ……まあいい、呼び出してすまなかった。もし困ったことがあったらいつでも言ってほしい。必ず相談にのる」
と言って帰してくれた。やはり先生は最後の最後まで先生だった。
職員室から出て廊下を歩く。
腕時計を確認すると、そろそろ針は六時を回ろうとしていた。
窓から見える夜空には薄い月が浮かんでいて、時間の経過を実感する。既に暦の上では小満を過ぎたとはいえ未だこの時間帯は肌寒い。けれど、今日はやけにそれが顕著に感じられた。
冬場に炬燵から出るとより一層寒く感じるものだが、やはり温かいものに浸っていた時間が長いほど寒さもまた際立つものだ。だから、今日の寒さがより一層強く感じられるのもまたそういうことなのだろう。
温かいもの、で思い浮かんだのが冬場の親友炬燵さんでも暖房さんでもなく、誠実で優しい美人なお姉さんだったことに、少し気恥ずかしさをおぼえて頬をかいた。
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