第7話 もろもろの善を奉行せよ

諸悪莫作 諸々の悪をなすことなかれ 

衆善奉行 もろもろの善を奉行せよ

自浄其意 自ら其の意を浄(きよ)うする

是諸仏教 これ諸仏の教えなり 


  釈迦にしてもイエス・キリストにしても、後世があまりにも偶像化している。

釈迦というか仏教の根本の教えとは上記4行だけです。


また、イエス・キリストが神の子か救世主か、なんて誰にもわからない。ただ彼は「パリサイ派という、狡くて嘘つきで金儲けばかりのユダヤ人集団を徹底的に嫌い、彼らを攻撃した」ことは聖書に書かれた事実です。

  ところが、自分に正直に生きたが故に罪人とされ磔にされて殺され、後世不条理の象徴となった(と、私は考えています)。

見方を変えれば、キリスト教という宗教は、狡猾で(頭の良い)強力なユダヤ人組織に対抗するために生まれた、世の99%の弱者による抵抗運動がその発端です(これも私の個人的な見解)。ですから、ユダヤ人のいない世界へ逃げたといわれる、ヒットラーたちゲルマン人社会に於いては、キリスト教を行なう意味は(半分)ない、というわけです。

○ ナチス・ドイツ UFO作戦 (ロシア2006) 日本語字幕

https://www.youtube.com/watch?v=mqv-7cz_VVA

○ 「20世紀最後の真実」落合信彦 著 集英社

もちろん釈迦には、数千とも数万人ともいわれる多くのインド人修行者たちが一緒にいて、彼らの見解・思惟が、釈迦という名の下に結集されて偉大な「仏教経典」となった。

また、イエス・キリストを鏡としたキリスト教も、正直に・ストレートに生きるという極めて困難な生き方が、西洋科学という真実追究の姿勢・思想を生み、萬里の波濤・艱難辛苦を乗り越えて日本までやってきた宣教師ルイス・フロイスのような、強靱な精神力の持ち主が多数輩出されたことを考えれば、決して「単なる象徴」とはいえない。

キリスト教という宗教の場合、イエス・キリストの生と死という史実から、2つの考え方が生まれたのは当然でした。

① 正直者は損をする、だから(釈迦が言ったように)嘘も方便と、長生きすべきだ。神を信じていながら磔にされたイエス・キリストを信仰して正直に生き、ギクシャクした居心地の悪い人生を送るよりも、「神・真理」から解放されて自由に・自分の好きなように生きた方が幸せだ。


② いや、嘘をついて金持ちになり長生きしても、人生50年(今は80年)程度。

それよりも、自分に正直に生き、たとえその所為で立派な地位や肩書きを持てず貧乏であったとしても、何度も自分に生まれ変わり永遠の命を得る方がよほど割が良いではないか。

 (浪曲歌謡「元禄男の友情 橘左近」三山ひろし、と同じ。橘左近は大石内蔵助の仇討ちを助けるため自分の地位や身分を捨てたため、貧乏な長屋暮らしをすることになる。)


フランスの哲学者パスカル(1623~1662)は、②であったそうです(阿刀田高「詭弁の話術」)。

即ち、「神が存在するかどうかなど、この世に於いて、誰も科学的に解明できないし、納得のいく説明もできない。

しかし、神を信じないで死んだら、実はあの世があって神がいた。神を信じていなかったばかりに天国に入れてもらえない、なんてことになったら大損だ。だから、私は神を信じる。」と。


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「これは博奕のようなものであり、保険でもある。」とまで言ったかどうかわかりませんが、恐らく科学者らしい実利的な判断で、「私は神を信じることで、死んでからという未知の事態に備えよう」と考えたのでしょうか。科学者(数学者・物理学者)らしく科学の限界を知り、それを哲学者でもあったパスカルは宗教に求めた、というわけです。

パスカルが、生前いくら教会に献金したかは定かではありませんが、要は自分の心の問題ですから、神父に「お前は信心深いから天国へ行ける」なんて言ってもらう必要はない。多分、彼の宗教活動とは「保険の掛け金程度」だったのではないか。

私たち日本人が、道を歩いているとたまたま神社があった(と仮定する)。

ちょっとお参りしていくか、と10円でも100円でも賽銭箱に放り込み、パンパンと柏手を2回打って(神に)礼をして満足して安心する。それと同じ程度の信心・信仰心であったのかもしれません。

そんな「日本古来の、さり気ない、しかしごく自然発生的な宗教心・宗教活動」であれば、ことさらイエス・キリストのように、ムキになって偽善者たちの嘘を追求する、というほど徹底した正直さが求められることはない(イエス・キリストは、神殿で金貸し業を営むパリサイ派ユダヤ人の店に一人で殴り込み、蹴って殴って店を叩き潰したことが6回もあったそうです)。

精々、オレは日本の政治屋のような嘘つきではないよ、と世間話をする程度の正直加減で天国(極楽)へ行けるであろう、というもの。

私がネットに掲載している本にしても、毎巻数人が閲覧している程度であって社会的影響力など皆無。あくまで自分が自分であることを自覚するための、いわば自己満足でしかない。見知らぬ土地のちっぽけな神社に自然と足が向きお参りする、そんな信心と同じ。 要は、自分自身でどこまで自分は正直に生きている、と実感できるかどうかという、これはひとえに個人の感覚・意識のことであり個人的な宗教というものなのです。

で、私の場合、「日本昔話」を読んで、「ああ、いい話だな」と納得できて楽しめる自分になるために、自分を世間に曝す(本を書く)。そんな自分の正直さを以て「オレは自分の正直さに素直に生きている」という証(あかし)にしている、というわけです。

また、街で出会った同じく正直者(チリ人やドイツ人)との一瞬の交流とか、大学日本拳法の大会で遭遇した女性拳士の気魂のこもった声に、同じ正直者という共感を得て安心し、且つ、楽しむことができる。

これが私のイエス・キリスト的なる「自分に正直に生きる」ということであり、「もろもろの善を奉行する」ことで得られる自浄其意(自ら其の意を浄うする)人生なのです。

2024年2月27日

V.4.1

平栗雅人

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