IV

 その男は東京の郊外の住宅地に住んでいる。二階の書斎の窓からは、ちょうど窓の前に立っている電柱にごちゃごちゃと絡まったような電線と、せせこましくひっつきあう家屋が立ち並ぶ町内が見える。互いの距離があまりにも近いので、他の家から見える側の窓にはいつもカーテンが引かれている。

 かつて男は都心にある会社まで毎日通勤していた。電車を乗り継いて片道一時間半の道のりだった。通勤は地獄だった。毎朝、座席をめぐって赤の他人と争い、狭い座席で互いに体を押しつけあう。シートは嫌な臭いがした。夏は特に。だが、いくら嫌でも男には通勤をやめるという選択肢はなかった。給料は悪くなかったし、転職するほどの自信はなく、家のローンは七十歳すぎまで返し続けねばならない。何だか罠にはめられたような気分だった。前世で何かよくない行いでもしたのだろうか。

 ところが、コロナのときにテレワークになり、コロナが下火になってからも在宅勤務でよいということになった。それ以来、よほどのことがない限り、男は会社へは行かなくなった。

 それから数年が経っていた。会社の方ではすっかり男のことなど忘れてしまったようだった。男にはそうとしか思えなかった。報告書、レポートその他、男の書くすべての書類は、深い霧の中に投げ込まれたつぶてのように音もなくどこかへ消えてしまう。きっと誰も読んでいないのだろう。それでいて、なぜか給料は毎月きちんと振り込まれる。不思議だった。たいしたものだと男は思った。ただ、社長だけは自分のことを覚えているに違いない、なぜならあのたたき上げの社長は、こと金に関するかぎり、いっさい他人を信頼しない方針をつらぬいているからだ。したがって全社員の給料や、一万円を超えるあらゆる支出も経理まかせにはせず、自分できっちりと詳細まで把握している。当然、自分は少なくとも給料の支払先としてしっかりと社長に捕捉、認識されているに違いない。そしてちょっとでも怠けた痕跡や不正が見つかったらクビにしようと、手ぐすね引いて待ち構えているに違いないのだ……この妄想が男を堕落から守り、テレワーク中に近所のヨーカドーの本屋に行ったり、酒を飲んで酔っ払ったりする誘惑からかろうじで引き留めていた。

 家族は妻と、高三の息子が一人。

 男はその日、四時半に起床した。それまでは六時だったのだが、早起きして、暑い日中に昼寝をしようというのだ。もちろん仕事はあるが、会社でも昼過ぎになるとみな床に思い思いの向きにござやマットを敷いて部屋の明かりを消し、たっぷり昼寝をするというチャーミングな習慣のある会社なので、こちらが寝ていても分からないにちがいない、そう男はふんでいた。

 昨日の日曜日は記録的な猛暑だった。六月の最高気温の記録に並んだらしい。天気予報では、今日はさらに暑くなるという。昨日はがんばってクーラーをつけずに暮らしたが、暑さで体がぐったりして何もする気がおきなかった。今日はクーラーをつけずにはすまないだろうと男は思う。

 早起きをしたのはいいが、眠くて頭が働かなかった。午前は早めに仕事を切り上げて昼食をとり、クーラーの効いたリビングで体操をした。二時になり、半時間だけ休むつもりでソファーに横になるとそのまましっかりと熟睡してしまった。目を覚ましたときには四時だった。全身が余計に疲れたように感じて、ソファーに座り新聞を読んでいると、男の妻と息子が相次いで帰宅する。

 保健所での仕事から帰った妻は、かばんから木彫りの像を取り出し、息子の前に置く。

「これ、いる?」

「なにそれ」

「知らない。かばんに入ってたの」

「いらないよ」、息子は不機嫌そうに答える。

「あなたは?」と妻は男の方を向く。

「なにそれ」

「知らないわよ」と、今度は妻が不機嫌に答える。

「いらない」

「ふん。じゃあ捨てる」

「捨てるの? じゃあぼくがもらっとこう」

 男は妻から木彫りの像を受け取ると、ひょいとそれを、ほとんど物置になっている飾り窓の前のスペースに置く。


 十一時ごろ、パジャマ姿の息子が誰もいないリビングに足音もたてず、ゴキブリのようにこっそりと降りてくる。部屋の明かりをつけると、スマートフォンで木彫りの写真を撮り始める。さまざまな角度から撮っては絵を確認し、懐中電灯を持ってきて、顔の下の方から光を当たりして工夫する。やがて満足のいく写真が撮れたのか、息子はスマートフォンを右手に、木彫りを頭から左手にひっつかんで、階段を上がっていく。


 次の日の朝、息子は学校の教室で、かばんから木彫りの像を取り出す。SNSを通じてあらかじめ情報を得ていたらしい数人のクラスメートがそれを見て、おお! と感嘆の声をあげ、笑う。ホームルームの時間になり、教師は教卓の上に置かれた木彫りの像を手に取ると、あらゆる角度からしげしげと眺めまわして言う。

「誰だ、これを置いたやつは?」

生徒の短い笑い声がしたが返事はないので、教師は木彫りを教卓の天板の下の、プリントの残りなどがくしゃくしゃに丸めてつっこんであるすきまに押し入れる。

それから教師は教室にいる生徒全員にアンケートを配り始める。


・自分を大人だと思う

いいえ

・自分は責任ある社会の一員だと思う

いいえ

・将来の夢を持っている

いいえ

・自分で国や社会を変えられると思う

いいえ

・自分の国に解決したい社会議題がある

いいえ

・自分の国の将来は良くなっていくと思う

いいえ

・社会議題について、家族や友人など周りの人と積極的に議論している

いいえ

・収入の少ない家庭の高校生に経済的な援助を与えることは、政府の責任だと思う

いいえ

・この一ヶ月間に、助けを必要としている他人や知らない人を助けたことがある

いいえ

・自分自身に満足している

いいえ


息子は「いいえ」に丸をつけながらイライラして、最後の方は強く書きなぐったので紙に穴が開いてしまったが、そのまま提出する。

次の日の朝、最初の生徒が来たときには、木彫りの像はもう教室からなくなっている。

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