III

 正午すぎ、男が家に帰ろうと近くの川の土手を歩いていると、一人の女がベンチに座って煙草を吸っていた。男はそれまでにも何度かその場所で女を見かけたことがあった。

 女は事務員だった。川沿いにある市の保健所に派遣され、そこでデータ入力の仕事をしていた。中学に上がったばかりの子供が一人いた。昼休みには川の土手で、家で作って持ってきたおにぎりを食べ、食後に一本だけ煙草を吸う。女はまだ三十を少し過ぎたばかりだったが疲れた顔をしていた。

「あ、田原さん!」

 女が声を掛けた。男は一瞬立ち止まると、女のいるベンチに近づいていった。

「お昼休みですか?」

 男は女と話したことはなかったが、女の横にやってきて座ると、まるで知り合いのように話しかけた。

「ええ。いつもここで食べるんです」

「外の方が気持ちがいいですねよ」

 女は戸惑っていた。知り合いの男だと思って声をかけたのだが、どうも人違いのようだ……それなのに、相手はまるで私を知っているかのように振舞っている……この男はいったい誰なんだろう……?

 女は恐怖にかられ、愛想笑いを浮かべながら男を観察し、やがて男が手に持っている丸めたパンフレットに目を止めた。そして、相手が誰かを確認するための当然の質問をする勇気も持てず、知り合いごっこを続けた。

「どこかに旅行にいらっしゃるんですか?」

「いや、まだ決めてはいないんですが、話だけ聞いてきたんです」

 男はパンフレットを広げると、中から木彫りが現れた。

「ニューカレドニアのものだそうです」

「景品ですか?」

「ええ……。あの、これ、よかったらもらってくれませんか?」

「え?」

「お子さんにでもあげてください」

「いや、いいですよそんな」

「だめですか?」

「わるいですよ」、そんな知らない人に、と続けそうになる言葉を女はぐっと飲み込む。

「だめですか? 本当に、もらってくれるとうれしいんだけど……」

 男は黙り込んだまま女の返事を待ち続けた。女は居たたまれなくなって、つい折れてしまった。

「いいんですか」と女は疲れ切った口調で言った。

「あ、もらっていただけますか。すいません、無理を言って」

 男は木彫りを女に渡した。女は木彫りを受け取ると、重い木でできているのか、かなりずっしりと手応えがあった。手に持っていろいろと角度を変えて眺めてみるが、何と言えばいいのか、何一つ言葉が見つからなかった。

 男が立ち上がった。

「あ、それじゃあ、私も家で昼食にします」

「すいませんでした、お引止めして」

 女は顔を引きつらせながらその知らない男に答えた。

 しばらくしてから、女は保健所に戻った。隣の机で働いているパートの女はまだ昼食から戻っていなかった。椅子の上に彼女のかばんがあった。女はそのかばんの中に、そっと木彫りの像をねじ入れた。

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