II

 川沿いに低い土地の広がる郊外のアパートにその男は住んでいた。部屋の中は雑多なもので一杯だった。招き猫、額に入れた厄除けの護符、何のために買ったのか忘れてしまった、百均ショップの大小様々なジャムの瓶、それに六法全書。六法全書なんて使う用事はなかったが、ある大学の法律の授業に忍び込んだとき、同じものがあまりにもたくさん机に並んでいたから、何だかイライラして一つ盗んできてしまったのだ。

 男の母親は万引きの常習犯だった。近くのショッピングモールからは出入り禁止をくらっていた。男はかつての生活をときどき懐かしく思い出した。母親は背が高く、体格がよかった。冬は腹巻と、ゴムひものスカートと、だぶだぶのコートを着て、万引きしたものを体のあちこちに突っ込んだ。母親はあちこちのすきまにとことん物を、まんべんなく取り込むコツを知っていた。外から見れば、ただ着ぶくれしているようにしか見えなかった。家に帰ってくると、母親はその服の中から魔法使いのように品物を取り出して並べていく。そのときの母親の冷静かつ誇らしげな表情を男はいまでも記憶していた。小さな机の上はみるみる一杯になり、そのころまだ幼かった男は、まるでたくさんの兄弟が母親の中から生まれ出てきたかのように、大はしゃぎで手をたたいたのだった。

 おれは立派に親の職業をついだわけだ、と男は思う。母は技術的なことは何も教えてはくれなかったけど。死ぬ前にもっといろいろと聞いておけばよかった。コツや、心構えのようなものも含めて。でもよく考えてみれば、改めてきくようなことなんて何もなかった。何だって一から発明しなおさねば身にはつかないんだ、と男は思う。母は生きるために盗んだ。これは、ある意味立派なことだ。男はといえば、生きることには特に興味はなかった。男は詩人だったのだ。本を持たず、本を読むのも嫌いだったが……。そういった詩人は意外と世間には少なくない。男はいつも周りに耳を澄ましていた。周囲から聞こえてくる物音の細かなニュアンスを聴き分けようとしていた……

 たとえば、駅ビルにある旅行店で、どこのものとも知れない木彫りの像を盗んだときもそうだった。たぶん現地の土産物屋で大量に売られているような代物。我が国ではすでに絶滅した肩の凝らない職人芸の、手作りの風合いがあった。しかも一度見れば決して忘れることができない独特の表情をしていた。

 その都心にあるターミナル駅の通路は、いつも洪水で氾濫した川のようにものすごい数の人が流れていた。男は旅行には興味がなかった。ただ、通路に面した間口が開けっぴろげのその店のカウンターがガラガラのように見えたから、休憩するために入ったのだった。ひっきりなしにやってくる客たちは、すでにネットかどこかで予約した券を引き替えたり代金を払ったりするだけで、誰も店員と旅行の相談などしなかったし、手続きが済むとすぐに去っていく。ガラガラのカウンターで店員に、どこでもいいから一週間ほどくつろげる旅行先はないかと咄嗟にでっちあげた質問をすると、ご予算はと言うので、でたらめに三十万円と答えると、カウンターの延長上にあってそこだけ外からは隔離された奥まった場所にあるブースへと案内された。

 そこは四方と天井を真っ白の薄っぺらいベニヤ板で囲まれ、安っぽい椅子とテーブルが置かれただけの応接室だった。壁が少し斜めにたわんでおり、電車を降りて改札を出た相撲取りが通路を歩行中にわかに発狂し外側から全力でぶつかってくれば自分を含めてこの部屋はあっけなくぺしゃんこになってしまうだろう、その造作の頼りなさに男は恐怖を感じた。すると、カーディガン姿がどことなく艶かしい若い女性の店員が現れた。グアム、ハワイ、ニューカレドニア、タヒチと、その女はある限りのパンフレットをテーブルに並べ、最初のうちはまともな客つまり本当に旅行好きの客向けのポイントを押さえた解説をしていたが、男が旅行にはまったくの素人だと分かると、それらの国や島がどういった場所なのかということを、やさしく一から説明し始めた。男は女の話にときどきうなずきながら、その小さく形の良い頭と、つやのある長い髪が揺れるのを眺めていた。コバルトブルーのラグーン。水上のホテル。白い砂と、どこまでも透明な水。サンゴ礁のすばしっこい魚たち……。一通り話を聞き終わると男は、テーブルの上のパンフレットを集めながら、そこに置いてあった木彫りをさっとその中に包み、女に礼を言うとその場をあとにした。

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