青って雰囲気
伊藤ゆうき
夢破れた二人のスタンドバイミー
こんな高校3年の男子が二人いる。
何のきっかけだかは覚えてないが、気付いた時には野球が好きだった。きっと8歳とかそんな頃。小学生の頃はTVゲームで遊ぶ友達とはあまり仲良くなかった。放課後のやりたいことが違うから当たり前。小3で野球チームにはいり、野球漬け。父親にはよくプロ野球を見に連れて行ってもらった。そのとき活躍した選手を好きになり、選手のプロフィール本を穴が空くほど読み覚えた。その選手の出身校から使っているバットのメーカーまでもが頭に入った。部屋もいつの間にか選手のポスターやグッズで溢れた。野球が好きな友達と一緒にいるのはとても楽しかった。話は何時間しても飽きない。中学、高校でも同じように野球中心で生活が進む。何故だろう。小学生の時の文集も中学のときの文集にも、甲子園に行くというのが夢の欄にあった。きっと僕だけではなく、全ての野球少年にはきっと、漏れなくその夢がついてくるのだと思う。
高校はそれを狙える県内では常連校を選び、入学した。
練習で一度も手を抜いたことは無い。自分も仲間も。汗まみれで泥だらけ、夏も冬も変わらない。やっとの思いでレギュラーを勝ち取った。そして3年生になった。甲子園へ行けると信じて臨んだ夏の大会。この大会のために、長い間がんばってきた。
そして、思いは叶わず、野球少年はただの少年になった。
ここにいる二人の少年の生い立ちは今の説明で大きくは違わない。
1
どちらもボウズ頭の元野球少年二人は最後の大会が終わった次の日に、自分達の高校のグランドのベンチに腰掛け頭を垂らしている。時間は9時10分。始業のチャイムはしばらく前に鳴った頃。
「あのさ、ここにいる意味、無くない?悲しいけど。」
サードを守り、4番を打っていた大介が力も無く喋った。
「うん。無いね。悲しいけど。」
ピッチャーをしていた学も同じトーンで言葉を返す。
「あー。何もないな。」と大介。
「・・・・。」
「・・・・。」
「うん。何にもないね。」と学。
「・・・・。」
「・・・・。」
「俺たちさ、空っぽだよな。」空を仰ぐ大介。
「・・・・。」
「・・・・。」
「・・・・うん。空っぽだね。」足元のアリを見つめる学。
「・・・・。」
「・・・・。」
「俺たちから野球取ったら綺麗に何にも残らなかったな。」
「うん。ほんとに。」
「・・・・。」
「泣きすぎてもう涙も出ないよ。あるのは脱力感だけ。疲れちゃったよ。」
「俺も一緒。」
二人とも県内ではそこそこ有名な選手だった。県でも甲子園に近い学校で4番を任されていた大介の打率は他の学校の4番と比べても秀でていたしホームランの数もずば抜けていた。
学も三種類の変化球を持ちストレートでは最大で140キロを投げた。この二人の実力は小さいときから、ただただひたすらに続けていた練習に裏打ちされるものだ。練習着の形に日焼けしパンパンに膨れた筋肉がその証拠である。
「校庭にいてもしょうがないな。どっか行きたいとこある?」大介は寂しそうに学に尋ねた。
「ない。けど教室には行きたくない。」雲を眺める学がボーっと答える。
「もう、行けないだろ。開始のチャイムもうずいぶん前に鳴ったし。」
「良かった。勉強なんてする気分じゃない。」
「俺も。どっかに行きたいけど、どこもない。」
「うん。同じ気持ち。」
「ここに居たいのかなぁ。」
「・・・。わかんない。どうなんだろう。」
「いや、俺。ここに居たい。」少しだけ力のこもった声で大介が言う。
「俺も。かな・・・。」学は少し笑って頷いた。
本格的に活動し始めた太陽に照らされたグランド。
そこにあるのは、この前去って行った梅雨がお土産にと残していった湿気と、遠くで夏を喜ぶせみの声。ボウズ頭二人とその足元で働くアリ。空には最近作られ始めた入道雲。とても蒸し暑いが静かな空間。
高校三年生、彼らの夏が終わった。昨日の日曜日、甲子園まで続く夏の県大会の準決勝で負けたのだ。彼らの長い夢は破れた。
自分は野球をやるためだけの人間だった。
さて、野球がなくなったとき、僕たちは何をすればいいんだろうか。空っぽの人間は自分と似た空を仰いだ。でも、空のほうが断然きれいだった。
校庭のベンチにボウズ頭がふたつ。彼らの夏が終わった。秋が始まったわけではない。彼らの夏が終わった。ただそれだけ。これから季節的な夏が始まる。が、念のため、彼らの夏は終わった。
彼らがこのベンチに座って二時間が経つ。引退した今日もいつもの朝練の時間である7時には二人してここにいた。約束したわけではない。個々の意思で朝練に来た。9時を過ぎた今も二人の左手にはグローブがはめられている。
「学さぁ、なんで朝練来たの?」
「なんとなく。大介は?」
「俺も同じ。なんとなく。高校入ってからずっとこの生活してれば体が自動で動くんだ。」
「もう練習しても意味無いのにね。俺も一緒、ハハ。何しに来たんだろ。」と、苦笑いの学。
「だなぁ。何しに来たんだろうな。ハハハ。笑えるな。」学につられて大介も笑い飛ばした。
「うん。変だよね。」
「うん。変だよな・・・。」
「・・・うん。俺たち変だね。」
二人の目には涙が溜まっている。
「俺たちさぁ。野球が恋人だったよな。女子なんかより野球だったよな。」と、大介。
「当たり前でしょ。甲子園が理想の人だよ。」学は自信を持って答えた。
大介も学も目頭が熱い。
「・・・・・・。振られちゃったな。俺ら。」
「うん。」
二人の目から涙がこぼれグローブを濡らした。
小学校のときから今まで、学校とは野球をする場所。校庭は自分たちの全て。校庭に全ての意味を持つ彼らは、校庭に居る意味を奪われた今も、校庭にいる、何故か。そんなことも含めながら、のんびり動く入道雲を見る、喜びを叫ぶせみの声がBGM。静かな場所で、一番居心地の良い場所で、二人はしばらく自分と会話をしていた。
「おー、お前ら何してんだ?」
彼らが作り上げたゆっくりと流れる時間を邪魔しない声。彼らが作ったその雰囲気が発したような音が、彼らの座るベンチの後ろから流れた。
「ん?」「え?」
二人が自然と振り返り声の元を確認すると、二人は揃って安堵した。
「なんだ。吉田先生か。先生かと思ったよ。」大介。
「うん。先生かと思った。」学。
「おいおい。俺も先生だろ。何やってんだ?」吉田。
吉田は彼らに国語を教える教師だ。教師を始めて今年で4年目になる。30歳の若い先生。ワイシャツにネクタイだが一番上のボタンは外し、ワイシャツの長袖は腕まくりされ、肘まで出ている。着崩されたとてもラフな服装。吉田はいつも穏やかで生徒とも壁を作らずに接している。女子からも男子からも人気で何でも話せる兄のように慕われている。
大介が力無く吉田に応えた。
「俺たちさ、今は何にもしたくないの。空っぽなんだよ。だからこうしてんの。ほっといて。」
「ん?何か訳がありそうだな。」
「だからこうしてるの。」学。
「そうかそうか。それならいいんだ。大丈夫。ワケは聞かないよ。ちょっと真ん中失礼。」
そういうと吉田は大介と学の間に座り、シャツの胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
吉田はサボりと分かっても強制的に教室へ行けとは言わない。まずは話を聞き、その理由を知り、一緒に考える。多感な時期の生徒に自分が出来るのは生徒と一緒にいて、生徒の悩みを一緒に悩むことだと思っている。授業に出るのなんかはその後でいい。
大人になって必要なことは教科書には書いていないからだ。きっと、この時間こそが教科書である。そう吉田は考えている。だから大切に扱おうとする。
「俺も今、お前らと同じようなものがある。」
そう言って煙を空に吐いた。
「先生がサボっていいのかよ。」そう言う大介
「俺はお前らと違うの。俺は今、自由時間。どこで何しようがオッケー。お前らこそサボっていいのか?」吉田
「俺たちもサボっていいんだ。」大介
「何で?」と吉田。
「いや。なんとなく。」大介
「そっか。」吉田
「うん・・・。」大介
学はまた足元のありを見つめている。
元高校球児二人と30歳の男一人。ベンチに座り、ゆっくりと流れる雲を見つめる。自然と三人とも自分の世界へ入っていった。
静かな時間が過ぎ、吉田が三本目のタバコに火をつけた頃、大介が震える声を出した。
「何でだよ・・・。」
「・・・。」
「おいおい大介どうした。」
慌てるでもなく吉田が尋ねる。
何もかもが溢れ出しそうな大介の代わりに学が応えた。
「小学校の時から一生懸命だった。俺たちがんばったよ・・・。」
大介は涙を抑えきれない。頭を垂れながら、さらに学が言う。
「俺たちにはこいつしかなかったのに。ずっと。けどダメだった。」
大介は顔をグローブで覆い鼻をすっている。
「どうしても行きたかった。夢だったのに・・・。」
そう言うと大介も学もうわーんと泣き出した。
使い込まれた二人のグローブは革の色がところどころ濡れてまだらになっている。
「・・・・。そうか。失恋か。それは厄介だな。俺も23の時な。やったよ。大失恋。すげぇかわいい子だったんだ。あれは確か旅行に行った後・・・。」
「ちげぇよ先生。」
大介が泣きじゃくる顔で叫んだ。
「試合で負けたの!甲子園に行きたかったんだ。なのに負けたの。悔しいんだよ。俺たちはどうすればいいんだよ。悔しいよ・・・・。もう、何にもねぇよ・・・・。」
「そうか。野球のことか。残念だったんだな。」
「そう言ってもらいたいわけじゃない。」
学が小さい声でつぶやいた。同情は辛い・・・
吉田はそれを悟り、ばつの悪そうな顔で「おぉ」とだけ言った。
誰でも生きていれば経験する。どんなに我慢しても、どんなにそれが欲しくても、持てる力を全て費やしても、それがサラリと叶わない事がある。彼らは長い時間をかけて、人生においてとても重要な経験をした。
無言の時間が再び。
「分かった。甲子園に行くのがガキの頃からの夢だったんだな。」
吉田が寂しそうに言うと、学が震える声を絞り出した。
「純粋に甲子園に行きたかったんだ。野球を始めてからずっと。何のためにやってきたんだかわからない。甲子園に行けないなら、野球やってきた十年間の意味がなくなった・・・。」
大介が急に叫びだした。
「あぁーーーーーーーー!いみねぇーーーー!」
立ち上がり、鍛えられた太い腕で自分の顔を思いっきり殴り続け、その都度涙と鼻水が飛び散る。
「こんなん何なんだよ!」
大介は左手にはめていたグローブを右手に持ち、助走をつけて遠くに投げた。学も涙を袖で乱暴に拭うと自分のグローブを外し、サッカーのゴールキーパーのように、宙に放り、グローブが地面につかないうちに遠くに蹴り飛ばした。学は無言でその放物線を眺める。
大介が地面を蹴り上げ腕を振り回し再び叫ぶ。
「何なんだよ!もう!いらねえよ。何だよ!なんでボウズなんだよ。あーーー。もう。いみねぇ!何で体がムキムキだよ。もうつかわねぇよ!意味無くなった!あーーー。これもーーーーーーーーーー!要らねぇーーーー!」
大介は使い込んで形も色も変わったランニングシューズを、鍛えられた右腕により勢いよく向こうに飛ばした。
二人は泣き崩れた。
しばらく二人を眺める吉田は少し経つとなんだかめんどくさそうに立ち上がった。
吉田は崩れている二人の横を通り抜け、飛んでいったグローブのほうに歩き出す。大介の砂まみれのグローブの前に立つと優しくそれを拾いあげる。だが、次の瞬間吉田は助走をつけ、大介のグローブを遠くに投げた。その後、すぐに学のグローブに走り寄り、それを思いっきり蹴り飛ばした。無駄の無い、一連の流れで。また大介のグローブに走り寄ると今度はそれをサッカーボールのようにドリブルした。
大介と学は全速力で自分のグローブを助けに行く。二人にとってのそれはもう、ただのボールをキャッチする道具ではなかったからだ。自分の相棒を、それで夢を掴むと信じたもう一つの自分を必死に助けた。それを抱きかかえる二人は吉田を睨み、言葉をぶつける。
「何してんだ!ふざけんなよ!」顔を真っ赤にして大介が言う。「やっていいことと悪いことがあるだろ。」学も鋭く言葉をぶつけた。
「だってお前らだってやってたじゃん。しかも要らないっていうから。」
吉田は胸を張る。
学は吉田に怒鳴った。
「俺たちの全てなんだよ。こいつは。他人が触れていいもんじゃない。」
吉田は怒ったような、悲しいような表情で大声を出した。
「じゃあさ!大切にしといてくれよ。グローブも甲子園に対しての気持ちも、お前らの十年間も。あと筋肉とボウズ頭も。誇れよもっと。すごいもんだろ、それって。お前ら見てたらすげぇ悲しいよ・・・。要らないなんて言うなよ・・・。そんなにまでなって守る大切なものなんだろ。それに靴履けよ、大介。みすぼらしいぞ・・・・。」最初は大介や学に負けないほどの大きな声で吉田が言葉を発したが、だんだんと悲しげにトーンは下がっていった。吉田は喋りながら悲しくなった。
「・・・・・。」
「・・・・・。うん。」
アリとセミと入道雲はおかまい無しに自分のしたいことをしている。
「さっきは本当にごめんな。大切なものを蹴飛ばして。反省してる。」
吉田はポカリを四本と缶コーヒーを抱えて戻ってきた。二人はまたグローブをはめて座っている。
「泣けばのどが渇くだろ。二本ずつ飲んでくれ。足りなきゃまた買ってやるから。」
「ありがとう。」
「いただきます」
二人はプルタブを引き、缶を口に当て、勢い良く逆さにした。
吉田はそれを見てホッとし、自分の缶コーヒーをあけた。
「お前ら、さっきはごめんな。狂ったお前ら見ていたらどうしていいか分からなくて、悲しくなってやってしまった。」
「だからいいって。気にしてないよ。なぁ学。」
「うん。逆にオッケー。」
「そうか。良かった。でも残念だったな。」
「だからそういわれたくないんだって。」
「まぁ、俺、お前らみたいなやつ、好きだな。」
「は?」
「先生に好かれても嬉しくないよ。」
「そうだろうな。でもお前ら、いい味出してんじゃん?すげえダサくて、潔く無くて男らしくないけど、ぐちゃぐちゃでかっこいいよ。だから好きだなぁ。俺はそういうの。」
「よく分からないよ。褒めてんの?それ。」
「先生分かってないな。かっこいいっつーのは満塁ホームラン打ったり取れないライナー取ったりすることを言うんだよ。」大介が自慢げに言う。
「ハハハ。そうだな。俺はまだ分かってないのかもな。」頭を掻きながら吉田が言った。
「誰が考えたってそうだろ。イチローや松井や新庄みたいなのをかっこいいって言うんだよ。ちゃんと覚えといてよ。」と学。
「ハハハ。その通りだ。覚えとく。」と吉田。
「常識でしょ。」大介に相打ちを求め顔を覗く学。
「そう。常識。」納得の大介。
「ああ。常識だ。」吉田も頷いた。
誇らしげにした彼らだが、またすぐ下を向き、はぁ、と、ため息をついた。きっと思い出したヒーローにやられたのだろう。
吉田は彼らを眺めニコニコしている。
「お前ら、面白いなぁ。」
ニコニコした大人を真ん中に、両端のボウズ頭はその頭を垂れて凹んでいる。事情を知らなければ異様な光景だ。
「よし。お前ら今日は学校休んでいいぞ。俺が担任にうまく言っといてやるから。好きな所行ってこい。」
学が残念そうに答える。
「俺ら行きたいとこないよ。」
「そうなのか。どうしたもんかなぁ・・・。そうだ甲子園行くか。今ならまだガラガラでいいんじゃないか?」
吉田は言い終わると笑い出した。
「先生怒るよ。」
学が残念そうにつぶやくと吉田もごめんなさいとしゅんとした。すると、今まで下を向き落ち込んでいた大介が突然口を開いた。
「先生・・あのさ、俺らこれから何をすればいいかな?」
大介が微かに助けを呼ぶ声で吉田に尋ねた。
吉田は少し考え、うーんと唸る。そして言葉が出てきた。
「知るか。そんなもん。好きなことすればいい。」
それを聞くと、大介はまたボウズ頭を地面に落とした。
「先生に聞くんじゃなかった・・・。」
「意味を取り違えるな。好きなことしかするなって事。お前らのヒーロー達はそうしてきたからああなってんだろ。」
「だけどさぁ。そう言われたってわかんねぇよ。」
「じゃぁ俺がこれから何をするか決めようか?」
「いいよ。自分で決めるよ。」
吉田は大介の言葉を聞かずになにやら考えている。しばらくすると閃いたように吉田の顔が明るくなった。
「そうだ。お前ら寿司でも食って来い。」
「え?」「は?」
学と大介はきょとんとしている。
「だから、これからお前らが一生懸命することだよ。まずは、寿司を一生懸命食って来い。」
二人は突拍子もない吉田の発言に声すら出ない。
続けて吉田は隣に居る二人と同じように前かがみになりひそひそ話をするように小さい声で話し始めた。
「あのな、よく聞けよ。これから言うことは誰にも言っちゃだめだぞ。秘密にしておけ。」
大介も学も興味なさそうにしているが話だけはしっかりと聞いている。秘密という言葉が二人をそうさせた様だ。
「ここから電車に乗って一時間半くらいのところに富士っていう駅があるのな。そこから五分くらい歩くと宝寿司ってすし屋がある。そこの大将に、ある魔法の言葉を言うと、その日で一番極上の寿司が食べ放題になる。それだけじゃないぞ。魔法の言葉を言えば二階にある特別部屋に案内されるんだが、その時二階に上がるとき案内してくれるアルバイトの女の子のスカートの中が見えるんだ。どうだ、すごいだろう。その店の行き方と魔法の言葉は紙に書いてやるから行って来い。」
「それってすげぇけど、あのさ、何で魔法の言葉言うだけで寿司食えるの。」
大介が尋ねると吉田は鼻で笑い肩をポンと叩いた。
「大介、お前分かってないな。だから誰にも言うなって言っただろ。かなり上級な魔法なんだよ。」
大介も学も納得は出来ないが吉田の自信満々に言う言葉に頷いた。
「そっか、じゃあ分かったよ。」「うん。よく分からないけど分かった。」
あれこれ言っても、二人は空腹と健康な高校男子なら誰でも持つかわいい性欲を刺激されてしまっている。それだけで、行きたい理由は満たされていた。
「よし、分かったなら校門で待ってろ。今職員室に行って地図と魔法の呪文を紙に書いてきてやる。」
そう言うと吉田はのんびりと校舎のほうに歩いていった。
「どうする?大介。」
「面白そうだしいいんじゃない?どうせやることないし。」
「じゃあ行ってみよっか。」
校門に向かう二人の顔はさっきよりも少しだけ明るくなっていた。
校門で二人が待っているとプラプラと歩いてきた吉田が紙と封筒を差し出してきた。
「これ、行き方と魔法の言葉を書いた紙な。あと、ついでにちょっと買い物をしてきてくれ。帰りに駅のそばにポツンとタバコの自販機があるから、そこでこれと同じやつ買ってきてくれ。買うときこの封筒の中に小銭入れといたからこれで。」
そういうと吉田は地図を書いた紙と自分の吸うタバコの空き箱と封筒を学に渡した。
「タバコなんてどこにでも売ってるじゃん。」
「ああ、そうなんだが、色々試した結果そこのタバコが一番うまいんだよ。だからよろしく。あっ。あとそこの駅は無人駅だからな。キセルなんてするなよ。」
そういうと吉田は腹いっぱい食って来いといい校舎に戻っていった。
「無人駅だからキセルするなよ。って、キセルしろよに聞こえたな。」
「うん。まぁね。」
「じゃぁ行くか。」
「だね。」
この先の微かな楽しみに与えられ、二人の気分は、先ほどよりやや高揚している。
2
電車での長時間の移動は、期待と少しばかりの安らぎを与えてくれる。
都会から徐々に田舎へと移り変わる風景を見ながら、二人は会話も無く、電車は優しく揺れながら進む。東海道線に乗り、昼前の下り電車なので客数は控えめ。ゆったりとした時間が彼らを包んでくれた。
何を考えるでもなく、二人は風景を眺める。野球関連のもので埋め尽くされた自分の部屋も、練習で流したたくさんの汗を吸った校庭も、彼らにとって今まで居心地が良かった場所全てが、今となっては逆に居心地が悪い場所になってしまっていた。野球に触れてしまえば沸いてくる悔しさ、それから逃れる場所を彼らは日常生活では持っていなかった。野球に触れない電車の中で、やっと二人はリラックスしている。
「学、俺な、今、凹んでいてもダメだって分かってるんだ。だけどさ、今はこうしてたい。」
「うん。俺も大介とおんなじ。だから別に言わなくてもいいよ。」
「そうだよな。」
「うん。」
「そういえば、吉田先生からもらった地図見てみようぜ。」
「そうだね。ちょっと待って。」
学がカバンから吉田に貰った紙を出した。
「ずいぶん簡単な地図だな。」
「うん。でも、分かりやすそうなところでよかったね。」
「魔法の言葉も書いてあるよ。」
《オモシロキ コトモナキヨヲ オモシロク》
「なんだこりゃ。気落ち悪いな。意味分かる?」
「分からない。」
「まあ上級な魔法なら何でもいいか。」
「うん。寿司食えるなら。」
一時間もすると目的の駅に着くアナウンスが流れた。
快適な時間をくれた電車と別れ、ホームに降りると見晴らしの良い景色が広がった。
「うわー。いい景色だなぁ。」
「すごいね。大介、富士山が見えるよ。」
「でけー。富士山はやっぱ迫力があるな。さすが世界一だ。」
「ん?世界一じゃないよ。富士山。」
「あぁ、そっか。迫力に負けて大げさなことを言ってしまった。」
「時々あるよね。そういうこと。じゃあいこっか。」
「おう。」
吉田に渡された簡単な地図を頼りに5分ほど進むと宝寿司と書いてある看板が見えた。
「お。あった。あそこだ。」
「あってよかったね。」
すし屋ののれんをくぐり戸の前で、二人は黙って立ち尽くした。造りの上品な建物だ。日本料理店独特の高級感を思わせる雰囲気。足元にある20センチほどの敷居が彼らには自分の背よりもはるかに高いように思えた。
こんなところ、入ったことない。
「学、ドアを開けてくれ。」
「やだよ。大介が空けてよ。」
「俺こういうとこ入った事ないんだ。だから緊張して。」
「うえー。俺だって入ったことないよ。」
「じゃあ俺がドアを開ける。で、学が魔法言うのな。」
「えー。逆がいいよ。魔法のほうが気まずいもん。」
二人が恥ずかしさの押し付け合いをしていると前の戸がガラガラと音を立てて勢いよく開いた。
「ラッシャイ!」
彼らの目の前に威勢良く板前が現れた。
突然の事態に固まる二人。固まる二人を見て固まる板前。
寿司屋の客にしては若すぎる。板前の頭の上には大きなハテナマークが浮かんでいる。
「あ、あ、あのっ、えっと、僕たち、オモシロ、イ、ヨヲオモシロク、なんですけど。」
息継ぎを5回して、やっと学が答えた。
「ん?」
板前のハテナが膨らむ。
「オモシロキ・・・・。いえ、間違えました。すいません。」
学が板前と自分たちを遮断するように戸を閉める。すると戸の向こうから声がした。
「オモシロキ コトモナキヨヲ オモシロク、でしょ?」
大介が勢いよく戸を開ける。
「それです!」
板前の顔は急に晴れ、嬉しそうに言った。
「ボウズたちは篤の教え子か!おし。入れ。」
「え?あの、篤って誰ですか?僕たち吉田の教え子ですけど。」
「どっちも同じ人間だ。早く入れ。」
そういうと二人を店に入れた。
店の中は昼時ということもあり席はほとんど埋まっている。
「おい。二名様を二階に案内してくれ。」
店の人に板前が告げると奥から美人のお姉さんが出てきて、彼ら二人を案内した。彼らはお姉さんのスカートばかりを見ている。先導してくれるお姉さんの後ろにくっついて二人は階段を上った。
二階に着くと少しばかり豪華な部屋があった。20畳ほどの部屋だが、一番に目に入ったのはカウンター奥にある壁一面に大きな水槽。きれいな魚が泳いでいてオシャレな雰囲気だ。カウンターには椅子が4脚。ネタを入れるガラスの保冷ケース。奥には座敷がありテーブルに座椅子が四つ。座敷のほうの壁には綺麗な富士山が描かれた絵が飾られてある。豪華で小さな寿司屋と言う感じだ。
「適当に座ってくれ。」
発泡スチロールの箱を持って板前が上がってきた。
「何が食べたいんだ?最初は食べたいものを握ってやる。」
板前は持ってきた発泡スチロールの箱から魚や貝や切り身を出してカウンターの前の保冷ケースに入れながら彼らに言う。
ボウズ二人はカウンターのイスに座ると縮こまり、小さな声で問いに答えた。
「あ、えっと、あー、なんだろ。僕、タマゴ。」
「あっ。そうそう、僕もタマゴ。」
「お前ら遠慮すんなよ。金払えなんていわねぇから。」
「はい。」
「すいません。」
「タマゴは却下。勝手に出していくからな。ほい。ヒラメ。」
二人の前に握りずしが二貫ずつ出された。
「うんめぇ!」
「おいしー!」
「うまいだろう。ほれ、これ中トロな。」
「うんめぇ!」
「おいしー!」
板前の手はすばやく動き、切り身とシャリからあっという間に寿司にされていく。
「ほれ。これは鯛。」
二人は休む暇なく寿司を食べた。
「ボウズたちは何でここに来たんだ?」
手を素早く動かしながら板前が尋ねたので彼らは朝からの一部始終を話した。
「はっはっは。ボウズたちは野球で負けて凹んでるのに篤に大切なグローブを投げられたりドリブルされたりしたわけだ。その後ポカリ二本って篤らしいな。」
「おじさんは吉田先生の知り合いなの?」
「知り合いって言うか親友かな。高校の時からつるんでた。あいつにはほんとに恩があってな。篤がいなきゃ俺は板前も辞めていたかもしれない。」
「え!そんなに影響されてるの?」
「一大事だね。」
「影響というか・・・。この部屋凄いだろう。ビップルームってやつだ。篤のお客さんしか入れないことになってる。」
「え?先生の客しか入れないの?」
「先生ってすごいのか?」
二人はお互いの顔を見て首をかしげた。
「って言っても篤の直接の知り合いが来るのは久しぶりかな。」
「直接知り合いじゃない人が来るの?」
「ああ、なんていえば良いかな。3年前、俺がこの店を出したけど、全然お客様が入らなくて、うなだれていてな。あいつは週末になれば良く電車に乗ってきてくれてたんだ。
全然客が入ってない状況を心配してくれてたんだけど、俺は見栄を張って大丈夫だって応えてたんだ。平日は満席だ。なんて言って嘘ついてな。だけどそれも続かなくてさ、しばらくして店を閉めるって決めて、あいつに言ったんだ。そしたらあいつ、店を閉めるのを一ヶ月待ってみろって言うんだ。言うとおり一ヶ月待とうと思って店を閉めるのを一ヶ月延ばすとな、今まで来なかった客が来るんだよ。しかもこの辺の政治家や経営者や地主の金持ち達が。
最初は気にしなかったんだけど段々気になってきてお客様に聞いてみたんだ。そうするとみんな手紙をもらったっていうんだよな。それを詳しく聞くと差出人は篤でさ、封筒には気持ちのこもった文章で大体こんな風に書いてあった。
「自分の友達がこんな風ないきさつであなたの近所で板前を始めている。彼はこういう気持ちで寿司を握ってる。今はまだ認知されずに厳しい状態だが、いつかここの土地で愛される素晴らしい板前になるはずである。若者の夢と頑張りを一度応援してあげて頂けないか。大先輩によろしく頼み申す。是非一度ここの寿司を食って戴きたい。」
って感じの文章と50円玉が入ってたんだって言うんだよ。
俺はもうびっくりしたよ。その日の営業終わってから車を飛ばして篤の家に行って篤に聞いてみれば、この辺の社長や政治家や地主なんかを市役所で調べて1000人に手書きで手紙を書いて送ったって言うんだ。手紙を簡単に捨てられては困るからって50円玉入れて。それを1000人だよ。金だけでも80円切手と50円玉カケル1000で13万円だろ。それに手書きで1000通な。お客様から手紙を見せてもらったんだけど本当に気持ちがこもってた。俺も読んだ後こいつが握る寿司食いに行きてぇなって思ってしまうくらいな文章だった。篤が言うんだよ。「出来た大人ってもんは、若者の頑張りを応援したい生き物なんだよ。その通りだっただろ?」って。よく分からない理屈だけど、それを体験したんだから妙に納得したよ。俺はさ、篤が負担した13万だけでも受け取ってくれって言ったけど受け取らなかった。あいつは言うんだよな。俺はみんなお前がうめぇ寿司握ること知らないから教えてやっただけだって。それからは篤が呼んで来てくれたお客様が知り合いを連れて又、又と、来てくれて今は繁盛してる。だから篤のお客様には失礼のないように、特別にもてなさせて貰ってるんだ。だからボウズたちにもな。」
喋りながらも素早く動く板前の手に対してボウズ二人の口は止まっていた。
「すげー感動した。そんなことしたんだ。先生。」と大介。
「うん。いいお話だね。」と学。
二人は涙ぐんでる。
「おいおい。早く食え。食わないと次に置く場所がないだろ。」
二人が目の前を見ると寿司を置くゲタには色とりどりの握り寿司がギュウギュウに並んでいた。
「ほんとだ。」
「うん。食べなきゃ。」
それからも板前により寿司は握られ大介と学はそれを口に運んだ。
板前は若いときの話をたくさん話した。その大半に吉田が登場していた。仲が良いというか、ウマが合う、そんな感じだ。お互い同じ日に彼女に振られ、次の日仕事なのに朝まで飲んでお互い仕事をすっぽかしたり、海でナンパして女の子におごりまくってそのあげく振られ一文無しになり、二人で歩いて帰ったり、吉田が板前のレンタルビデオ屋のカードでAVを借り延滞して、家に督促状が来て板前が母親に叱られたりと、そんな失敗話が多かった。
3人は良く笑ったが一番楽しそうだったのは板前だった。
「腹いっぱいになったか?」と板前。
二人は3杯目のアラ汁を飲む手を休め大きな声で答えた。
「はい。すっごくおいしかったっス。」
「こんなおいしいお寿司食べたのは初めてっス。」
板前はニコニコと笑って、そうかそうかと頷いている。
「ボウズらよぉ。野球が終わってしまったことは辛かったかもしれないけどな、球場の外にも面白いことが山ほどあるぞ。探してみ。」
そういうと板前は照れくさそうに鼻を擦って照れ笑いをした。
3
「気をつけて帰れよ。」
板前は店の前まで見送りに出てきた。
「はいご馳走様でした。」
「ご馳走様でした。」
二人は試合が終わった後の整列のようにピンと立ち、深々と頭を下げた。
「今度は自分たちで稼いで食いに来てみろ。とびっきりのうまい寿司出すから。」
「僕今日、お寿司屋さんに会えて良かったっス。」学。
「俺もっス。」大介。
「吉田先生に宜しくな。」板前。
「はい。失礼しまっス。」
「しまっス。」
満腹の帰り道、のんびり歩く真っ昼間。右手には富士山、左手には田んぼ、この道の先に駅がある。
「いやぁーうまかったな。寿司。」両手を伸ばして大介が言う。
「ホントだね。今まで食べた中で一番おいしかった。」笑顔で学が答えた。
「あんなに高級なものばっかり食わせてくれるなんてあのおじさん気前がいいよな。」大介
「うん。俺さ、あのおじさん、すっごいかっこいいと思ったんだ。お寿司握ってるの見てたらなんていうか、鮮やかでさ、華麗なんだよね。ずっと魅了されてた。しかもさ、おじさん握ってるときあんなに楽しそうにしててさ、うまいって言うと照れながら頷くでしょ。それ見たらこっちまで嬉しくなるのね。かっこよかったなぁ。何でだろ。」学
「あぁ、あのおじさんかっこよかったって俺も思うよ。何でだろうな。だってさ、ホームランも打ってないし、盗塁もしてないのに。おかしいよな。」大介
「うん。まぁそうだけど、あそこで急に盗塁されても困るよ。」学
「おい、学。盗塁っつーのは急にするもんだろ。」
大介が真剣に学に言う。
「・・・・。」
「・・・・。」
大介は急に全力で走った。
「うわ!やられたっ!」
学もそれを追いかける。
一塁から二塁間の27メートル走ったところで学は止まる。
学も追いついた。
「はぁはぁ、盗塁成功。」
「はぁはぁ。ああ、大介はかっこいいよ。」
「ハハハ!さんきゅー。」
「ハハッ。」
二人の気分は良い。やっと二人の感じが戻ってきたとお互いがそう感じていた。
駅に着き、切符売り場に歩くと大介が吉田から頼まれたお遣いを思い出した。
「あっ。そういえば、先生になんか買って来いって言われなかったか?」大介。
「そうだタバコだ。駅前の自販機でって言われたね。」学。
「どこだ?」
キョロキョロと大介が探すも、学が見つけた。
「あれじゃない?」
「ああ、あれか。じゃあサクッと買っちゃおうぜ。」
「うん。封筒、封筒・・・。」
学が封筒を逆さにして小銭を出した。
「そもそも、未成年にタバコなんて買わせるなよなぁ。」
自販機に小銭を入れている学の背中に大介が言う。
「まぁいいじゃん。先生のお陰でいい思いできたし。」
光るボタンを押すとタバコが落ちてくる。それを取ると封筒にしまい駅のほうに歩き出した。
「あれ?大介どうしたの?」
大介が自販機の前で立ち止まっている。なにやら考え込んでいるようだ。
「学、ちょっと待ってくれ。先生他に何か言ってなかったか?」
「んー。他には何も買うものないと思うよ。」学
「そうじゃなくて、ここのタバコが一番とかって。」大介
「あぁ言ってたね。それが?」学
「・・・・。やってみる?」大介
「やってみる?って言われてもなあ・・・。」学
「学、今のタバコちょっと貸して。」
「減ってんのばれたら怒られるよ。」
「いっぱい入ってんだから大丈夫だろ。どんだけ意地悪なんだよ。」
「いや、そういうことじゃなくて・・・。あの人も一応先生だし・・・。まぁいっか。はい。」
学からタバコを受け取ると、びりびりとケースの頭を破いた。一本取り出すと口にくわえ、その次には、頭を垂らしうなだれた。
「うわー。ライターがねぇやぁ。」大介
「はい。」学
学がライターに手をかざし大介のタバコの先に火を近づけた。
「あぁ、悪い。・・・・ってか何で持ってんの?」大介
「ん?あぁ、封筒に入ってた。何でだろうね。」学
「ひょうたんからコマだな。」
「・・・・大介、意味が全然違う。」
「そっか。じゃぁ火つかなかったからもう一回。」
学が火をつけ大介のくわえるタバコに近づけるとタバコの先がジリジリと音をたてて赤くなった。
タバコ独特の香りが二人の鼻をなでる。深呼吸をするように吸い込む煙が大介の胸に降り、また口に昇ると、フーという音とともに空中に舞う。
「すげー。なんかすげぇ。」大介
「どんな感じ?」
「んー。なんか胸がキュッとなってフーって感じ。あれ?なんかクラクラする。」
「あそこの田んぼのヘリで座ったら?」
二人が富士山と向き合って田んぼのヘリに座ると、俺にもちょうだいと学が手を出した。大介は嬉しそうに箱を手渡すと、学の手の中からライターを奪い取り、今度は大介が学のタバコに火をつけた。
「フーッ。」
二人はかわいい共犯者意識を共有しながら、富士山に向かって煙を吹き続ける。頭がクラクラする。軽いトリップに、しばらくの間浸かることにした。
「今日はおかしな日だな。」
「うん。こうなるとは思わなかったね。」
学は封筒の中にまだ何かが入ってるのを確認し広げて見ている。だんだんと学の顔はにやけていった。
「初めてのうまい寿司と初めてのタバコ、二度も初めてをやってしまったな。」
「うん。もうすぐ三回目があるかもね。」
学は意味深な笑みを浮かべる。さっき封筒の中を覗いた学は次に起こることを知っていた。
「もうないだろ。」大介
「んふー。分からないよん。」学
「よんってなんだよ。」
「フフフ。知らない。」
二人でタバコの吸殻をポケットにねじ込み、切符売り場に向かった。
「学、お前何してんだ。狂ったか!」大介
学が普通乗車券ではなく特急券、グリーン車券の販売機にお金を入れている。大介が尋ねても返事をしない。
「おい!どうした学。お前ヤニクラしすぎだぞ。あれ?あ、あ、あー・・・。」大介
学はグリーン車の券を買っていた。出てくる切符を手に取りニコニコしている。
大介は頭を抱えた。
「はっはっはっはっはー!はい、大介の分。取り乱しすぎ。」
「ん?どういうことだ?」
「先生からもらった封筒に入ってたんだ。一万円。メモに帰りはグリーン車で帰って来いって書いてある。」
「はて?何でだ?」
「知らない。けどいいじゃん。俺たち乗ったことないでしょ。グリーン。」
「うん。ないけど。」
「また起きたね。初めてのこと。」
「吉田先生は何なんだ?意味が分からん。」
大介は首をかしげながら学からグリーン券を受け取った。
グリーン車での帰り道、二人はスゴイといいなぁを繰り返していた。初めての、二段に別れた乗車室とリクライニングの付いた柔らかい客席、特別な人に作られた空間にいる優越感。一般席とはつくりの違う全てのものに、彼らは緊張しながら浸っている。不審に思った車掌に乗車券を見せろと言ってくれば、胸を張って乗車券を差し出した。電車に乗っている退屈な一時間のはずが、新鮮で自分たちを元気付けてくれる一時間になる。
降りる頃、大介は学に言う。
「今度は自分たちの金で乗ろうな。」
学もそのことを想像し終わると、小さいが力のある声で答えた。
「うん。それにあそこの寿司も。楽しみだね。」
学校に着いたのはもう夕方を回っていた。お礼を言いに吉田を訪ねに来たのだ。職員室に着きドアをノックし、大きな声で吉田先生居ますかと訪ねるともうあまり人の居ない職員室の端の席で教師らしく席に向かい、赤ペンを持ち小テストの採点をしている吉田が、おお、お前らか、とドアに向かって歩いてきた。
「すっげぇうまかったよ。」大介。
「うん、最高だった。」学
「そうだろう。あそこのタバコが一番うまいんだ。」吉田。
吉田の意表をつく返答に大介が動揺した。
「お、お、おいおい。先生、俺たちは寿司のことをだね、言ったんだよ?誤解してるよね?」
「ああ、寿司のことか。あいつの寿司はうまいだろう。あいつは職人として一流だ。妥協しないからな。で?」
吉田はニヤついている。タバコを吸ったのかはさっきの大介の動揺でもうバレている。
学が諦めたように答えた。
「先生ずるい。」
「はっはっは。」
「でも、今日はたくさんいい思いをさせてくれて、ありがとうございました。」
学が頭を下げた。大介も学と同じように頭を下げる。
「ありっした。」
吉田はおう、といいニコニコしている。
「お前ら明後日から夏休みだろ。学校に来いよ。勉強教えてやる。」
「ええー。いいよ。遊びてぇよ。」
「まぁそういうな。悪くはしないから。そうだな。明後日14時に来い。」
「はー、分かったよ。」学と大介。
「じゃぁまたな。」吉田。
学が吉田の振り向く肩を叩き、耳に近づき囁いた。
「先生、あそこのタバコが一番うまいって、言ってたけど、俺は今日が初めてだけど、俺もそう思うよ。」と学。
「お、よく分かってるじゃないか。」
へへへっと学は嬉しそうに下を向いた。
「とにかく21日14時に学校においで。」
そう言うと吉田が職員室に入りドアを閉め、ドアについている小窓からも姿を消した。
二人は目を合わせ、じゃあ帰ろうか、とアイコンタクトをして歩き出す。
「あ!おつかいのタバコ!」大介が思い出したように叫んだ。
大介の声を聞いて慌てた吉田が急いでドアの小窓に来て、ガラス越しに声を出さずに口を動かした。
{ア・ゲ・ル。}
大介の叫びを聞いた吉田が周りの先生を気にして駆け寄ってきたのだろう。
二人は声を出さずにお互いを見合い笑い、大介は手を合わせごめんの合図を吉田に向けた。
ニコッと笑う吉田は帰れと指で合図をしたが二人が見えなくなるまで小窓から顔を出して見送っていた。
暗くなった二人の帰り道。
「学、すし屋で階段上るとき、おねぇさんのパンツ見たか?」
「ばっちり見たよ。青でしょ。」
「あれは最高だったな。」
「青って最高。あの人美人だったし。」
「はははっ。」
「はははっ。」
終わったはずの彼らの夏が始まりだしたようだ・・・。
4
吉田は二人の帰りを職員室の窓から見送った後、席へ戻った。ボウズ二人が帰ってくる前にやっていた小テストの採点に取り掛かったが、込み上げてくる嬉しさに集中できず、作業ははかどらなかった。こんなに嬉しい日に一人で帰り眠りに付くなんて考えたくないと思った。ちょうどとなりの席で帰る支度をしている彼よりも三つ若い音楽教師、佐藤真美に話しかけた。教師の中で一番の美人で他の男性教師何人かは佐藤真美に何度もアプローチをかけていた。綺麗な顔立ちにおとなしい雰囲気を持つ彼女は男が隣に居てもらいたいと思わせる女だった。吉田の思いは特別彼女ではなくてはいけないわけではなかったが、話を聞き頷いてくれるであろう優しい雰囲気を持つ佐藤真美は、今日の相手にピッタリだった。
「佐藤先生、これから焼き鳥食べに行きませんか。駅前の焼き鳥屋。今日、めちゃくちゃ嬉しい事があって。大丈夫です。一時間程で僕は満足しますから。」
佐藤真美は、吉田に誘われたことによる驚きと喜びを隠し答えた。
「あ、はい。フフフ。それに、一時間でなくても。行きましょう。」
佐藤真美は新鮮な誘いに心が鳴る。イタリアンだとかダイニングレストランだとか誘われるのはほほとほと疲れていた。しかも予約までして行くとなれば洋服にも気を使わなければならない。堅苦しいところを用意する男は多かった。それに反してこれから焼き鳥食べに行きませんか?との気楽な誘いに断る理由はなかった。
駅前にある雑な音が交じり合う昔からの赤ちょうちんが汚れた焼き鳥屋、焼き鳥が並ぶテーブルにジョッキが二つ。向かいに座る佐藤真美に吉田は、一人勝手に話す。
「あいつら見ていたら嬉しくなって。忘れていたもの、バチーンと思い出しちゃいました。しばらく彼らを見ていたいなぁ。だってね、彼らめちゃくちゃ美しいと思うんです。一生懸命になれることにひたすらに取り組んで、全力で挑んで、思いは叶わなかったけど、それについて大声で泣いて叫ぶんです。それってとても美しい。どれだけの人間がそんな時間を経験しているでしょうか。僕も自分についてモヤモヤしてるものがあるんですけど、なんか解決しそうな気がしたんですよ。僕が大好きな本にGOって本があるんですけどその中で、仕切られた狭い世界にいる主人公がそこから飛び出そうとしてこういうんです。広い世界を見るのだ。と。」
身振り手振り表情豊かに喋る吉田に佐藤真美は微笑みながら彼の話に頷いた。吉田はもちろん上質な時間だが、佐藤真美も、嬉しそうにしている吉田を独り占めし、目の前で彼を見続けられることに喜びを感じた。初めて吉田が二人で食事に誘ってくれた。急な展開に、驚きを伴う喜びに、今日はいい日だと何度も思った。それに、いつまでも笑いながら頷き、話を聞き続けていたいと。
「佐藤先生、今日はくだらない話に付き合ってもらってありがとうございました。」
「いえ、私も楽しかったです。また連れてきてください。ここの焼き鳥屋さん。」
「そうですね。また来ましょう。でも、ここの焼き鳥屋は結構一人で入れますよ私も帰りに一杯飲んで帰ることありますし。」
「あぁ。でも・・・」
「じゃあまた明日学校で。今日はありがとうございました。」
「ああ、はい。こちらこそ。また明日、お疲れ様でした。」
駅の方に向かう千鳥足の男。その背中を見る女がモヤモヤしていた。
5
7月21日 吉田先生に来いと言われた日
学校の最寄り駅で待ち合わせした大介と学は学校まで20分ほどの通学路を歩く。
地球がトースターに入れられたように太陽に照らされた日。まだ7月なのにもかかわらず、温度計は36度を示していた。これだけ暑ければ歩く気力も無くす。それに加え、吉田から出た、勉強を教えてやる、というあまり食いつけない誘いに二人はさらに歩く速度を遅くした。
「学・・・暑いなぁ・・・今日は。」
「うん。暑い・・・。34度ってテレビで言ってたけどもっとあるんじゃないかな。」
「学校で勉強していたらミイラになるぞ。ほら、背中見てくれ。ビショビショだろ。」
「うえ。シャツの色が変わってるよ。もしかして俺も?」
「おお。学も背中ビショビショだぞ。」
「これだけ暑いんだから当たり前か。汗が止まらないよ。」
「学校に行く途中でこんなんじゃ、この調子で行けば学校着いたら、俺たち溶けて少し小さくなってるぞ。」
「うん。間違いない。大介さっきよりも気持ち小さいし。」
「・・・・。マジ?」
「嘘。」
「・・・・。うおーーーーー。誰か暖房を止めてくれー!」
「ハハハ。暑いの暖房じゃないから。そうだ、学校やめてプール行く?」
「・・・。ん?」
大介の顔が急に晴れた。
国語の教科書や筆記用具などを入れた通学かばんを肩にかけ、学校への道のりをノロノロと歩く。なるべく日陰を探して歩いたが、汗の出る速度は変わらなかった。学校に着くまでの会話の中で、どうやってプールに行くかを話し合い、そしてまとまった。話し合いの結果はこうだ。吉田に勉強はしたくないと断って無しにしてもらってから、帰るふりをし、学校のプールに忍び込み、そのまま飛び込む。それが決まってからはウキウキと進んだ。学校に行くという目的からプールに行くという目的に変わったからだ。水着などない。パンツもしくは何もなしで飛び込めばいいのだ。
難関は吉田の勉強を断ること。しかし二人にはプールに飛び込みたいという目的がある。それからすれば、難関はたやすい事のように思えている。
校門をくぐり、職員室までまっすぐに進み、大介がドアを開けた。二人は吉田に今日の勉強を断るセリフまで振り分けてある。準備は出来ていた。
「吉田先生いらっしゃいますか?」
二人はざっと職員室の中を見たが吉田の姿が見当たらない。ドア付近の先生からさっきまで居たんだけどねと言われたのでそうですかとドアを閉めようとしたとき後ろから声がした。
「おお、来たか。」
後ろを見ると声の元は吉田だった。夏休みスタイルなのかポロシャツに膝までまくったスラックス、サンダルという格好で手にはコーラとウチワを持っている。イメージしていた出来事とあまりに違う状況に二人は意表をつかれて言葉が出ない。
「今日は暑いな。」吉田がそういうとウチワを二人に向けてあおいだ。
「そ、そうだね。」大介がうわずって答える。
「先生その格好すごいね。なんていうか、だらしない。」
「いいんだ。俺はだらしないやつなんだから。ありのまま。」
「うん。まあいいや。先生あのさ。今日は暑いから勉強したくないよ。」学がさっき決めた目的のために申し立てをした。
「そう。いすに座って勉強なんて出来ないよ。だから今日はやめにしよう。」大介が結論を言うと吉田はきょとんとしている。
「ん?いすに座って勉強なんて俺もしたくないよ。こんなときに勉強しても頭に入らないだろう。」
「え?じゃあ何するの?」
「国語かと思ってたよ。」
「んー。そうだな。お前ら、野球やってたんだよな。結構体力ありそうだな。」こう言った吉田にはある思惑があった。
「高校球児なめんなよ。めっちゃめちゃあるよ。な、学。」大介が自慢げに答える。
「うん。ずっとやってきたことだしね。」学も頷いた。
自分達が自信を持っている内容に触れられたら、負けじと単純な高校生はこう答える。
「そうか。じゃあ高校球児は5キロくらい走れば疲れるのか?」
「ハハハ。全然だよ。それじゃ準備運動。」さらに体力があることを自慢する。
「ん?本当か?じゃあどうすればお前たちは疲れるんだ?」
高校球児はためらわずにありのままを言う。
「んー。そうだねぇ。ストレッチしてその後5キロ。30分フットワークを一通りやってからダッシュを20本。その後筋トレで腕立てと腹筋背筋の30回を5セット。終わりに1キロジョグかな。んで俺たち疲れるよな。」2時間動きっぱなしのメニューだ。
大介が機嫌よく学の顔をみる。
「うーん。そうだね。そのくらいかな。」二人にとってはいつもの練習内容だった。
「おいおい、お前らそんなに動けるのか。」彼らがこう言う事を分かっていた吉田。
「高校球児なめんなって。」
「いくら高校球児でも、それは無理だろう。」さらに煽る。
「出来るって。な。学。」
「モチ。」
あとはこの一言。
「へーーー。すごいんだなぁ、高校球児って・・・・・・。じゃあ、やってみようか。」
「!?」
「!?」
「終わったら多摩川の土手で待ってるから。あとで来て。」笑顔の吉田。
まさかこうなるとは思ってなかった二人。
6
「俺なんか騙された気がする。」学。
「いや、完全に騙されたでしょ。これなら国語のほうが良かった。」大介。
「俺たちは何でこんなことするんだ?」学。
「さあ、分からない。先生はなにをさせたいんだ。」大介。
「あんな言い方しちゃったし、走らないと口だけと思われてかっこ悪いね。」学。
「うん。やらざるをえなくなった。」大介。
運動着に着替えた二人は校門の前に座りストレッチの体勢を取る。
一周がちょうど一キロの学校の周りはランニングには適している。ストレッチを入念に行うのは、怪我をしないためと、これから始まるトレーニングに気持ちを入れる瞑想。二人は無言で体を伸ばし始めた。
「よしっ。学。まずは5キロやっちゃうか!」
「うん。さくっと終わらせよ。」
「じゃあ、行くぞ。」
「うん。」
「よーい・・・・ドン。」
ドンの合図の瞬間に地面を強く踏み込み、あごを引いて体は前に、ももを高く上げて、蹴り上げ、腕を強く振る。二人は走り出した。文句を言っていた彼らも走り始めてしまえば真剣な顔だ。長年やってきた走るという単純な行動は、彼らが一番自分らしい行動だということをよく分かっていた。走り出した彼らは2キロを経過した頃にはランナーズハイに到達し、地面を蹴る足の裏の感触、ふくらはぎの筋肉が伸び縮みする感覚、肺に圧力がかかり力強く往復する空気、膝からモモに加わる大きな負荷、同じリズムで繰り返される気持ちのいい呼吸の音、そのどれもが彼らに快感として与えられた。体が活性化し、与えられる刺激に脳がうっとりしている感覚だ。最初の二周目までは大介のほうが学よりも前に出ている。数字にして二十メートル。後半からは学のスピードが伸びるのだ。学が大介を追い越し、前へ出る。大介は学に離されないように懸命に食いつく。これは何十回と繰り返した練習と同じことだった。
3キロ、三週目の校門の前を過ぎたとき、二人はとても自然な感覚になる。
時間が巻き戻されて甲子園の大会の前に戻ったような。
それは校門の前にストップウォッチを持っているマネージャーの水野アリサが居たのだ。大会が終わり引退した彼らが練習でもないのに走っている場所にマネージャーが居るはずはない。だが、しかし五周目には、「ラスト一周ファイトー!」という聞きなれた声がかけられ、学も大介もマネージャーを確認した。
なぜマネージャーが居るのか分からない二人だが甲子園を目指す頃の気持ちに戻り、地面を蹴る足に力が入った。
ラスト200メートル。ここがいつも学がラストスパートをかける場所だと大介は知っていた。必死に学の後ろをついてきた大介は、その50メートル前からスパートをかける。200メートル地点で二人は並び、学もスパートをかけた。二人の呼吸は激しく、視界も狭い。全力で足を前に出し、手を夢中で振った。呼吸が更に激しくなる。
ゴール前で学よりも早くスパートを仕掛けた大介のスピードが落ち、学が先にゴールした。二秒ほどで大介もゴール。二人は芝生に倒れこんだ。
マネージャーの水野アリサがボトルを二つ持って走って来た。
「はい。水。すごいよ、タイム。今までで一番じゃない?学も大介も。見て、ほら。ベストタイムでしょ。二人とも20秒は早いんじゃない?」
ボトルを受け取り口の上で逆さにして5度のどを鳴らした学が言う。
「はぁはぁ。マネージャーなんでここに居るの?」
「大会終わったから部室の片付けしてたの。終わって出てきたら二人が急に走り出したからいつもの癖でストップウォッチ押したの。学も大介も何で走ってたの?びっくりしたよ。」
まだ息の整わない大介は仰向けになりながら答えた。
「はぁはぁはぁ。俺たちも何で走ってるのかわからない。」
「ハハハ,何それ。変なの。じゃあ次はフットワーク?」
二人は目を合わせて笑いながら答える。
「モチロン。」
「キャハハ。二人とも大好き。笛もあるよ。ホラ。」
くったくなく笑う水野アリサは笛を通学バックから出した。
「何で持ってんだ。」
大介がようやく立ち上がりすかさず突っ込んだ。
「私の宝物。ストップウォッチとこの笛。部のものだけど貰っちゃおうかと思って。だって一生大切にするんだもん。誰にも言わないでよ。返したくないんだから。」
その言葉に二人は胸がずきんと締められた。強気に言う彼女に二人は笑顔で答える。
「おお、貰ってもいいんじゃん。」と大介。
「大丈夫。たくさんあるし、バレないよ。」と学。
最初から彼女の目は真っ赤になっていた事に二人は気付いていた。片付けをしていた部室でずいぶん泣いていたんだろう。今でさえ普段どおり喋るが彼女の眼は今も涙で潤んでいる。
打ち合わせした訳ではないが二人は、水野アリサに対して出来るだけ笑顔で答えた。それは思春期のとても濃い時間を過ごした仲間に対して彼らができる優しさだった。
「よし、すぐにフットワークやろう。マネ。その笛吹いてよ。」
「すぐにやるぞ。グラウンドに行こう。」
二人はグラウンドに向かって走る。
「あっ。待って、ねぇ、走らなくてもいいじゃん。」
マネージャーに背を向け走る彼らはグラウンドに着くまでの少しの時間、走りながら顔をクシャクシャにして涙を流した。この前の涙とは少し違う、仲間を感じた温かい涙だった。
7
二つの水道の蛇口を最大まで捻り、水の出口を上へ向ける。勢いよく出る水の綺麗な放物線。
その放物線が弾ける着地点は学と大介が寝転んだおでこ。
「もう、動けねぇ。」
「俺も。」
先ほどの吉田と約束したノルマをこなしたあとの二人の姿。手を抜くのではなく、持っているものを全て出し切ったあとの二人。
少し離れた場所で水野アリサが膝を抱えて座りその光景をニコニコと嬉しそうに眺めている。いつもどおりの出来事は彼女が一番好きな風景だった。
水野アリサが嬉しそうに訪ねた。
「ねぇねぇ、明日もやるでしょ?やるなら私も来て、笛吹くよ。ポカリも用意するよ。」
[・・・・・。]
「・・・・・」
「・・・・・・」
「やらないと思う。なぁ、学。」
「ああ。やらない。」
「えーなんで?明日も私空いてるから。」
やるといえば水野は喜ぶのだろうが、二人は大切な仲間に嘘は言えない。
もう二人に体を鍛える理由は無くなったのだ。
二人はフットワーク中に感じていた。甲子園を目指していたあの頃とはまったく違う気持ち。どれだけ辛かった練習も甲子園の為ならやってやると辛い練習もこなせた。体力を使い果たし気力でこなしていたその練習も、今その気力がなくなった今、それに代わり彼らを動かすのは、あの頃できていたからやってやるという悲しみのエネルギーだった。
「もう出来ないよ。悲しいけど。」力なく学が答える。
「次は無いよ。マネージャー。」学に続き大介が念を押した。
「うん・・・。分かった。」
水野アリサは笑顔で答え、目からは涙がつたう。次第に泣き声が校舎の壁に響く。
二人はマネージャーが泣き止むまで、引き続き水道の水を額へ当て続ける事を決めた。簡単な言葉をかければ止まる涙ではないことを彼らは良く知っていたからだ。
それから5分後。
「学も大介も風引くよ。今部室行ってタオル持ってきてあげる。」
長い間額に水を当てていたせいで彼らは全身びしょびしょだった。おまけに彼らの周囲はでかい水溜り。水野は小走りで部室へ向かった。
水野が向こうへ行ったことを確認すると起き上がり二つの蛇口を閉めた学は大介が寝転ぶ近くに腰を下ろした。
「負けて引退して悲しいの俺ら選手だけじゃないんだね。夢はみんな一緒だったんだ。」学がぼそっと大介に投げかけた。
「ああ。俺も今のフットワークでかなりダメージがあったんだ。心のほうに。だけどさ、マネージャーの嬉しそうな顔とか悲しそうに泣くの見てたらさ、チームってすごいいいなぁって思ったんだ。俺たちみんな同じ気持ちで野球やってたのな。終わった後も同じ気持ちでさ。俺、今それに気付いて。ちょっと嬉しくなっちゃったよ。」大介がニコッと笑って言った。
「うん。そうだね。俺もそう思うよ。」学も笑顔で返した。
夕日に照らされピンクになった入道雲の下で彼らはその雲と同じような気持ち、少し切なさの残る喜びに浸った。
8
「よし。じゃあ行くか。」
濡れた体を拭き学生服に着替え終えた大介が言う。
「うん。行こう。そこの川の土手だったっけ。」
通学バックを肩にかけた学が答える。
二人はこれから吉田が疲れる練習が終わったら来てくれと言った土手へ向かう予定だ。
「え?どこ行くの?」
帰る仕度をし終えた水野アリサが訪ねた。
「俺たち土手に行くんだ。マネージャーも来る?」と大介。
「え?うん。行く。私もいいの?」
「別にいいんじゃないかな。」吉田に確認を取らなくても、行けば吉田は迎えてくれると学は思った。
「やったー。」
水野はこれからただ一人で家路に着くには寂しかった。もう少し痛みを共有できる環境に居たかったから、土手と言うあまり飾り気の無い場所の誘いでも今は飛び跳ねるほど嬉しかった。水野アリサは土手で吉田が待っていることなどはもちろん知らない。
「じゃあ行くか。」大介が出発の合図をした。
三人は土手までの道を速くもなく、遅くもなく、何かを話すでもなく、しかし仲良しと見えるほど距離を近くに保ち歩いた。夕方という時間の真ん中。
水野がゆっくりと話し出した。
「私さ、今すっごい悲しいの。実は今日、学と大介に会うまで部室で泣いてた。今日だけじゃないんだよ。昨日も一昨日も。泣き疲れて帰ろうと思ってたら二人が走り出して、すっごい嬉しかったの。私の大好きな時間が戻ったと思った。そのあとのフットワークも筋トレも嬉しかった。だけど、もうやらないんでしょ?だからね、悲しいの。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」
学も大介も返す言葉が無い。時間が過ぎて三人の歩いている足音がとても耳に響いた。
学も大介も水野も悩みは一緒。
大切なものを失った悲しみに対しての答えが見つから無くて、不安でたまらないから、水野に対して彼らは同じ気持ちで、返す言葉が無かった。
学が地面に向って言った。
「マネージャーごめんな。どうしていいか、俺も分からないよ。今、悲しいって、俺も思う。走っても筋トレしても悲しいままなんだ。あの頃の気持ちにはなれなかったよ。」
大介は目に涙を浮かべて歯を食いしばる。
大介に気付いた水野が言った。
「めちゃくちゃ残念でこんなこと無いってくらい悲しいけど、いいや。大介と学と歩いてると何か暖かい気持ちで、悲しいのが和むよ。二人と居ると安心する。」
なんとも言えない気持ちに、大介は貯めてた涙が流れた。
学は唇を噛みながら笑う。
それを見て水野が笑って言った。
「私達、一緒なんだね。」
夕日が彼らを含め全てのものをオレンジに染める。彼らの気持ちは夕日の持つ、少し切ないような雰囲気と混ざってやや落ち着いている。
9
「俺、アレがそうだと思うんだ。」
土手の上についてすぐ大介がアレを指差し言った。
夕日が沈んですぐの時間。大介が指差した先には土手の下で白い煙が控えめに上がるバーベキュー。土手の横を通る道路の街灯に助けられ、ぼんやり一つ人影が浮かんでいる。人影は忙しく働いている。
「ああ、きっとアレがそうだね。」学が笑いながら言う。
「何アレ?怖い。一人で夜にバーベキューしてる。変だよ。アレ、学と大介の知り合い?」手を口に当て身を固まらせて水野が言う。
「大丈夫。アレはマネージャーも知ってる人だと思うよ。」学が言った。
「ああ、アレは良く知ってる人だ。」続けて大介。
人影がこちらに気付き手を振っている。アレから声が聞こえる。
「おーい。こっちだ。早く来い。肉が焦げるぞー。」とアレ。
「アレだったね。」と学。
「アレしかいないだろ。」と大介。
「アレは誰?」マネージャーはまだアレの正体が分からず困惑している。学と大介は勢い良く、水野アリサは恐る恐る土手を降りた。
「ハハハ。お前らちゃんと疲れたか?」アレである吉田がニコニコとしている。勢いよく土手を降りてきた二人に言った。
「もうくたくただよ。」大介が答える。
「ってか、先生何してんの?」学が嬉しそうに訪ねた。
「ん?肉焼いてるんだ。お前ら腹減っただろ。食っていいぞ。そこにほら、箸と皿。タレはこれな。」
吉田はもう口をモグモグと動かしている。
目の前の網には肉がおいしそうな音を立てて、赤くなった炭にあぶらを落としている。
「誰かと思ったら吉田センセーじゃーん。」
やっと降りてきた水野アリサが顔を輝かせてやってきた。
「おお水野も来たのか。」吉田
「え?センセー何してんの?一人でバーベキュー?ウケるね。毎日やってるの?意外。」水野
「毎日やってるわけないだろ。今日だけだ。」
「そうなんだ。じゃあ写メ撮っていい?待ってね。・・・ああダメだ。暗くて何も写らないや。センセー光って。」
「俺は電球か。」作業しながら吉田。
学と大介はもう肉を夢中でほおばり、二人の会話などお構いなしだ。
「先生一人で準備したの?」
肉をほおばりながら大介が訪ねた。
「ああ。大変だったんだぞ。肉も炭もバーベキューセットも飲み物も全部重いのな。見てくれホラ。もう腕がパンパンだ。何回も道に置いて帰ろうと思ったよ。それに炭に火がつかなくて苦労したよ。」
学校からバーベキューセットを持ち出し、食材や炭なんかを商店街で集めて運んだんだろう。二人は自分たちにそうまでして振舞ってくれる吉田に温かさを感じた。
「先生、この肉すげぇおいしいよ。」
学が大きめの声で言った。肉はもちろんおいしいが学は感謝の意味で吉田に言った。吉田は嬉しそうに答える。
「ハハハ。そうかそうか。安い肉は買ってないからな。良かった。まだたくさんあるぞ。俺が焼くから、お前らは食えばいい。」
「私も食べていいの?」と水野アリサ。
「おお。食べろ食べろ。当たり前だろ。」と吉田。
水野が嬉しそうに箸と皿を持つ。
「おい、水野、箸と皿はそこで、タレはこれな。」嬉しそうに吉田がもてなす。
薄暗がりで青臭い芝生の中、遠くの街灯と月明かりに助けられ、楽しいバーベキューが始まった。
「おお!これ生だよ、先生、この肉焼けてない。暗くて分からなかった。」と学。
「もう一回網に載せて焼けばいいだろ。」吉田が言葉を投げた。
「やめてよ。私が次に間違えてそれ取ったらどうすんの?」と水野。
「おいおいマネージャー、それはさ。ただの学の歯型が付いた肉だろ。味は変わらない。すでに俺の歯型が付いた肉は三枚ほど回収できてない。」大介が肉をほおばりながら言った。
「もー。大介バカ。私それ食べたかもしれないじゃん。」水野のほほが膨れた。
「暗いからしょうがないよ。ねぇ、先生。」と学。
「ああ。そうだな。それなら焼く前にあらかじめ俺が全部肉を噛んでから焼こうか?」と吉田。
「・・・・。」大介
「・・・・。」学
「・・・・。」水野
「焼く前に全部噛んでから焼こうか?」と吉田。
「二度言わなくてもちゃんと聞こえてるから。」と水野。
「それ解決策になってない。」と学。
「先生、肉がもうない。」と大介。
「ああ、悪い。」そう言い又、吉田が働いた。
「先生。飲みもんないの?」勢いよく食べていた大介が尋ねた。
「あ、俺も飲みもの。」学も言う。
「そこのクーラーボックスにたくさん入ってるぞ。勝手に取れ。」焼いては無くなる網の上に肉を乗せることで忙しい吉田は乱暴に言った。
「ん?どれ?どこにあんの。クーラーボックス。ねぇ先生。」と大介。
暗がりでよく見えないが、大介はあたりを探す。
「お前の足元にあるだろ。」と吉田。
「ああ、あった。これ何があるの?オレンジがいいな。」と大介。
「どれも一緒だよ。」と吉田。
「そうなんだ。みんな飲む?四本出すぞ。」
大介がみんなに配る。
四人は缶のふたを開けた。プシュッと気持ちのいい音が鳴る。
一斉に口に当て缶を傾ける。
「ん?」大介。
「あれっ?」学。
「なにこれっ。」水野。
「プハーーー。やっぱうまいな。うん。最高。」吉田。
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・」
「ん?」吉田。
一時間後。肉がもう無くなったころ。
「しかしさ何でビールしかないんだよ。」三本目のビールを開けた大介が言う。
「そうだよ。俺たちに酒飲ませちゃ、先生が痛い目に会うでしょ。」学は四本目のビールが終わった。
「いいや。何も痛い目になんか会わないよ。」吉田はもう五本目を空けている。ニコニコと彼らを見て笑っている。
「よく聞いてくれ。」吉田が話し出した。
「世界一うまい飲み物は何だと、いつの日か世界の重要人物を集めて議論された。世界中の飲み物が集まるその場所で、さて、あのジュースがうまい。このお茶が一番だろう、あそこの山の水は最高だと、いくつも候補が挙がり議論された。それはもう長時間に渡る会議だった。いつになってもまとまらない話を、ある一言がその会議を終わらせた。「なにを言ったって、汗を流した労働の後に飲むビールが世界で最高の飲み物だろう。」と。あたりは時間が止まりまた動き始めたときにはそこにいる全ての人がそうだそうだ、その通りだと納得し会議は終わった。さて、俺はお前らに最高の飲み物を振舞ったんだ。何がいけないことか。痛い目に会うわけがない。怒るやつがいれば思いっきり蹴飛ばしてやる。そしてお前らの世界一の飲み物を飲んだ感想をまだ聞いていない。」
「私はビール、苦くて嫌。」と水野が一蹴。続けて大介が喋る。
「んー。なんていうか、よくわかんねえやー。ビールはさ、苦いし。コーラがここにあるならコーラの方がうまいって言ってしまうかも分からない。だけどさ、ビール、うまいよ。なんか特別な感じがして。優越感はある。苦いのに、優越感って変だけど、特別なことはすっげぇ分かったよ。」
「あのさ、俺も思ったんだ。ビールはおいしいし飲んで優越感があるって。先生はお酒飲んでいい歳になってしばらく経つだろうけどさ、何度ビール飲んでもこの優越感はあるの?」と学が言った。
「ああ。誰に対しての優越感だろうなぁ。きっと頑張っていた少し前の自分に対しての優越感なんだろう。あるよ。いつまでたっても。ビールってだからうまいんだよ。一生懸命働いたらな。うまい飲みもんなんだよ。だからさ、三人とも野球お疲れ様。長い間、本当によく頑張ったな。うまいはずだ。長い長い仕事の終わりに飲む世界一の飲み物だ。」吉田は気持ちを込めて今の言葉を言った。ずっとがんばってきた彼らを吉田は自分なりに労いたくて、今日の場所を用意したのだ。
少しの間を置いて野球部三人の目から今まで頑張ってきた分の涙が溢れ出した。
野球お疲れ様という言葉は彼らが長い間費やした貴重な時間を全て包み込む労いの言葉だった。自分で自分を責め続けた甲子園に行けなかった自分を、よく頑張ったという言葉が許してくれ、存在を認められた気がしたのだ。激しい自責から救ってくれる温かく優しい言葉だった。
学はその場にドサッと腰を下ろし、泣きながらビールを飲む。
大介はウロウロとあたりを歩き回り顔をクシャクシャにして泣きながらビールを口へ傾けた。
水野は立ち尽くし寒い日に飲む暖かいコーンスープのように両手で大事そうに泣きながら飲んだ。
「先生。あのさ、やっぱりビールすごいおいしい。最高にうまいよ。今の気分にぴったりだ。」腰を下ろした学が吉田を見上げて笑顔で言った。
「俺今、すっごい優越感があるよ。終わったーって言うのかな。そんな感じ。開放された感じが気分いい。これは世界一だ。」大介は晴れた顔で吉田に言う。
「世界一の飲み物ありがとう。苦いしオレンジのほうが好きだけど私もこれが世界一だって思う。だって学と大介がとっても嬉しそうだから。」水野が涙をこぼしながら笑顔で言う。
吉田がズボンのポケットからハンカチを出して水野に渡した。
「いいマネージャーだなぁ。」と吉田。
「フフフ、知ってる。」とかわいく笑って見せる水野。
10
始まってから1時間半が過ぎた頃、気分良くなった四人は、土手で輪になり座り、ビールを片手に吉田による歴史上の偉人たちの面白い話を聞いていた。夏目漱石の素晴らしさに始まり織田信長の人間性の面白エピソード、坂本龍馬の奇抜なアイデアに腹を抱え、シェイクスピアの語録にうっとりし、釈迦の偉大さに救われ、太宰治の人間失格ぶりを話し終わったところだ。
「今まで教科書でしか知らないから興味も何にも沸かなかったけど今話した人たちってすっごい人間味があって魅力的ね。」と水野。
「ホントにみんなそんな人だったの?」と学。
「ああ、会って話したわけじゃないから俺も分からないけど、今の話した事は文献に載っていることだよ。それに俺はみんなひょうきんで浅く見れば人間的に欠点だというところがたくさんあったんだと思うんだ。完璧な人なんて愛せない。バランスは必要だけど人間は、欠点の方をきっと愛すんだろう。」吉田。
「じゃあ次は先生、キング牧師について。」と学。
「おお。なかなか面白いものを出してきたな。それなら黒人差別のとこから話さなきゃいけないな。あのな・・・・・。」
この話が終わった頃、キング牧師の奇跡にやられ生徒三人は手を上げアイハブアドリーム!と叫び続けた。大介にいたっては酔っ払っているのかアイアムアドリーム!(私は夢だ!)と似ているが訳せば意味不明な言葉を叫んでいる。
「最後にさ、俺の好きな小説のある一節を聞いてくれないか。」吉田が叫びつかれた三人に言った。
大介は酔いながらこんなことを言い吉田に絡む。「じゃあ先生はアイアムアドリーム!(私は夢だ!)なのか?」
「ああ、俺もアイアムアドリーム(私は夢だ!)だ。そこに座ってくれ。」吉田。
三人が元に戻る。
俺の大好きな本にはこう書いてある。
《「世界はいくつある?」「決まってるさ、たくさんだ。」「そうか、俺は嬉しいよ。やっと分かってくれたんだな。お前を甘く見ていた。そう。世界はいくつもある。どこに?人間の頭の中に。そう、世界は60億個ある。もちろんだが、大きいか小さいか、広いか狭いかは、それぞれだけどね。」「俺はそんなつもりで言ったんじゃない。ただ君を困らせたかっただけなんだ。」》
俺はここが大好きなんだ。これを読んだ瞬間世界を広げたいって思った。未体験を経験し、たくさん本を読もうと思った。いつでも世界を広げる要素は自分の外にしかないって。そう言うから。なぁ、大介、学。野球は素晴らしい。お前らがやったことも輝くべきことであると思う。なぁ。ひと段落したら、殻を破って世界を広げてみてはどうだろう。きっと痛いし自分が情けなくなることもあると思う。でも世界が広がるって楽しいぞ。今すぐでなく、傷が癒えたらまた進んでみたらいい。」吉田の話が終わった。
「寿司を食い終わった時に、板前さんに言われたんだ。球場の外にも面白いことが山ほどあるぞ。って。俺探してみるよ。それ。きっと世界も広がるよね。」学が穏やかに言った。吉田は頬笑み頷く。
「先生あのさ、アドバイスをくれよ。何がいいかな。夏休みを莫大に戴いてる。予定がないよ。もともとあった大きな予定は無くなっちゃったし。へへへ。」と大介は空虚な気持ちで訪ねた。
「んー。何かな。働いてみてはどうだ。それも割に合わないほどの重労働。文句たらたら出てくる職場で汗を流す。んで10万くらいためてみたらいいんじゃないか?世界が広がるぞ。」吉田。
「うーん。考えておく。」と大介。
「そんなこといいじゃん。今はビール飲もうよ。私、今めちゃくちゃ気分良いんだから。先生、まだビールある?」嫌いと言っていた水野もビールを良く飲んでいる。
「おお、まだあるぞ。空にして帰ろう。」
吉田はとびっきり嬉しかった。
11
「あの星座が白鳥座だ。」吉田が寝ころび夏の夜空に向かって指を指す。
四人は飲みながら芝生に寝転がる。時間はまだ夜9時前。
「あの星座の一番光る星がデネブだ。いつかあそこに行って野球をして、疲れたらタキシードを着てばっちりキメてお城の庭でハーブティーを飲もう。そこには手に乗る小さな黄色いブタもいるんだ。夜のパーティでは老人から子供まで、美女からおばあちゃんまでが俺たちをずーっと褒め続けてくれるんだ・・・。いいだろう・・・?」吉田は今年一番に酔っている。
「はいはい。いつかね。」と水野。
大介と学はデネブのイメージにうっとりしてデネブに行っても良いなぁと思った。
そのときだ。
四人の寝ている30メートル離れたところから急に声がした。
「すいませんが、吉田先生はいらっしゃいますでしょうか。」
吉田は飛び起きた。
「はい。私が吉田先生でございますが・・」やはり酔っている。
暗がりで見えない人影がすぐに返事をした。
「私です。音楽の佐藤です。」
「ああー。佐藤先生でございますか。ん?あれ?え!どうしたんですか。こんなところに。」この前焼き鳥を一緒に食べた音楽の佐藤真美だ。
「吉田先生が学校で昼間にバーベキューセットを何度も往復して持出していたんで、ここにいるのかと思って。持ち帰りが大変だろうから、仕事終わりに車でここに来ました。帰りは学校まで荷物を乗せて行ければ楽かと思って訪ねたんですが。」
「あー。すいません。とても助かります。おい。野球部。後片付けをしろ。迅速にうまくやろう。」吉田は寝転ぶ三人に注文した。
3人は「うまくやろう」の意味を的確に得ていた。音楽教師佐藤真美に酒を飲んだことを隠せという指令だ。
「はい。分かりました!」3人
三人も酒を飲んだことを感づかれないようにと気を使い片づけを始めたが、だんだんと酒の酔いを隠すことは出来なかった。片付ける動きが三人とも千鳥足なのだ。学は途中で土手から転げ落ちていた。大介にいたっては、まだアイアムアドリームが気に入っているようで、時々思い出したように片付けの合間に両手を広げアイアムアドリームと天に叫んでいる。
そのことに気付いた佐藤真美が吉田を少し離れたところへ呼ぶ。
顔は先ほどとは変わり、悪事を働いた生徒へ向ける顔だった。
「もしかして、吉田先生。生徒に酒を飲ませたんですか?」
「いえ。あ、はい。なんていうか。えー。酒と一般に言ってしまえば、そうかも・・・はい。いや、どうなんでしょう。世界一の、」
「なにを考えているんですか!」
「いえ、あの。すいません。僕にも一応考えがあって・・・・。」
「どんな考えがあったとしても、未成年に酒を飲ませる教師がありますか!」
少し離れたところで生徒三人はニヤニヤと怒られる吉田を見つめる。
「先生いつ蹴飛ばすだろう。」大介が言う。
「何で佐藤先生を蹴飛ばすの?」と学。
「だって言ってたじゃん。世界一の酒を飲ませて怒るやつが居るなら俺は蹴飛ばしてやるって。」と大介。
「ずーっと謝ってばかりだよ。先生。ペコペコ何往復したか。でも私先生のああいうところ愛せるな。」と水野。
「俺も愛せる。あれは愛せる欠点だ。」大介。
「ああ、俺も愛せる。もしだけどさ、先生が学校的に不利になったら、俺たち絶対に先生を守ろうな。」学。
「モチ。」大介と水野。
しばらく吉田は佐藤に向かって頭を下げ続けた。吉田は最後まで蹴飛ばさずにごめんなさいと頭を下げた。帰ってきた吉田は胸を張って言う。
「おい。野球部。バーベキューの道具を車に乗せてくれ。佐藤先生がみんなの家までそれぞれ送ってくれるそうだぞ。良かったな。ちゃんとお礼を言うんだぞ。」吉田が明るい声で言った。不機嫌な音楽教師の見ている前で千鳥足で三人はバーベキューセットを車に乗せる。三人は少しむっとした様子。吉田を叱った佐藤が気に入らなかったのだ。
助手席に吉田、二列目に野球部三人。運転席に音楽教師という席で、最後部バーベキューセットを乗せ、型の新しい日産のミニバンが走り出した。生徒を一人一人家まで送り、最後に学校でバーベキューセットを降ろす予定だ。室内は重い空気に包まれている。吉田は恐縮し縮こまっているし、運転席の佐藤はムッとして無言だ。後ろの三人はイライラした様子である。
しばらく車が走った頃、空気を壊すように大介が口を開いた。強く威圧感のある声。
「佐藤先生が怒ってる理由はよく分かる。俺たちに吉田先生が酒を飲ませたことだろ。だけどな、俺たちは吉田先生に救われたんだ。もし、佐藤先生が吉田先生に不利なことをしてみろ。俺は音楽室に忍び込んで夜中ピアノなんかをめちゃくちゃにぶっ壊して、さらに壁にある音楽家の肖像画をばっきばきにに割ってやるからな。吉田先生に不利なことなんかするなよ。俺は絶対にやるぞ。吉田先生は恩人なんだ。俺はやるぞ。絶対に守るからな。」
大介はバックミラーの中の佐藤を睨んだ。大介の真剣な顔にすかさず佐藤は背筋が凍り息を呑んだ。突然。
「ハハハハハハハハ。ハーーーーーーハハッハハ。」吉田が急に笑う。
吉田以外の四人が驚く。吉田はニコニコしながら話し始めた。
「おいおい。大介。それじゃ誰も喜ばないじゃないか。やるならだよ。壊すんじゃなくピアノをもう一つ運び込めよ。そっちの方が連弾が出来て音楽の幅が広がる。それに、肖像画に悪戯するのは良くない。俺はベートーベンの交響曲第九が大好きだからな。ベートーベンの額縁だけもっと派手で豪華なものに変えてやれ。分かるか?ベートーベンだけを、だ。ついでに奥の部屋にあるアコーディオンやトランペットもピカピカに磨いてやるんだ。そっちの方が大介も気持ちがいいだろう。吹奏楽部の女の子が喜ぶぞ。よし。大介、それで言い直せ。」
大介を始め学や水野も笑って乗り気な顔をした。お互いの顔を見直した後、笑いをこらえて大介が言う。
「言い直す。もしもだが、佐藤先生が吉田先生に不利なことをしてみろ。俺たちは音楽室に忍び込んで今あるピアノと同型のピアノをもう一つ横に並べてやる。連弾が出来て更に音楽の幅が広がってしまうだろう。それに壁に張ってある、肖像画のベートーベンだけ今の額縁よりずいぶんと立派なものに変えてやる。奥の部屋にあるアコーディオンやトランペットだって一晩でピカピカに磨いてやる。次の日から俺は吹奏楽部のアイドルだ。嘘じゃない。やるぞ。」
笑いながら学と水野も言った。「ホントにやるからな。」
佐藤先生が笑って答える。
「フフフ、参ったわ。そんな事されたら嬉しくて飛び跳ねちゃう。今日のことは誰にも言わない。その代わり、いい?今日は三人ともすぐに寝て。もしだけど親に怒られたとか、何かあればここに電話して。私がうまく言い訳する。」そういうと佐藤は名刺を三枚、後ろの席に渡した。三人は揃って安堵した。
吉田は運転する佐藤を眺めた。横浜ベイブリッジをドライブ中に見る綺麗な夜景のような頼もしくも華麗な横顔。後ろの3人に聞こえない声で吉田は言った。
「佐藤先生、ありがとうございます」
一人一人を送り届けて車内は吉田と佐藤二人になった。
「私、今日の事は誰にも言いません。だから・・・・あの、そのかわり、私もお酒を飲みに連れて行ってください。」赤信号に捕まりながら佐藤が顔をこわばらせながら言う。目は赤信号を見つめている。
「あっ。え?はい。分かりました。連れて行きます。佐藤先生もお酒好きなんですね。」
「・・・・・。お酒は好きです。土手ではなく、焼き鳥屋でもなく今度は吉田先生の馴染みの店でお願いします。」
「それならいいところがあります。僕の知ってる店はとってもオシャレで料理もおいしくて、中途半端な酒を出すんです。」
「中途半端な酒?わかりました。連れて行ってください。今日はたくさん飲みたい気分なんです。明日、吉田先生と私はお互い休みですが、もし私が酔いつぶれて動けなくなったら吉田先生はどうしますか?」
「今日に限っては、佐藤先生が酔いつぶれるしばらく前に、僕が酔いつぶれていると思います。」
「・・・・・・・。」
「・・・・・・・。すいません。」
「・・・・・・・。このまま車で吉田先生を家まで送ります。」
「・・・・・すいません。あ、そこの交差点を左で。」
「「・・・。はい。」
12
学の家で学と大介はテレビで甲子園を見ていた。
まだ甲子園が始まって数日目、自分達を負かせた高校が1回戦で負けた。
「はぁ、何だこれ。」大介。
「1回戦くらい勝ってくれよ・・・。」学。
「しょうがねぇよ。あいつらも泣いてんじゃん。俺らと一緒。」大介。
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
自分たちを負かせた学校がどんどん勝ち進んでくれればまだ気は楽だった。だが1回戦で負けたのにはとても寂しい気持ちがしたのだ。
二人は30分ほど宙を眺めた。
学が立ち上がり部屋の壁に書いてある習字で書いた「目指せ甲子園」の字や毎日のトレーニング表、彼が大好きな選手のポスターなどをはがし始めた。
「学、どうした?」大介が尋ねた。
「お葬式をするんだ。これは俺たちが負けて残された亡霊だから全部燃やしてお別れする。」学。
「・・・・・。そっか、そうだ、それが一番いいかもな。俺もやろう。家帰って部屋からとってくるわ。」大介。
「一時間後に川の土手で待ち合わせでどう?」学。
「分かった。そうしよう。」大介。
大介は家に戻り、亡霊たちを集めると、45リットルのポリ袋がいっぱいになった。それを抱えて、土手へ向かって歩き出す。サンタのように袋を背中で背負い歩き出すと太陽に蒸された夏草の匂いがアスファルトからしてきた。懐かしくも今を生きていると感じるあの匂い。太陽は夕方に向かっている。大介は一つ思いついて、携帯電話を開いてボタンを何回か押した。
「もしもし?マネージャー?これからさ、」大介。
「土手でしょ?私も今向かってる。学からさっき電話来たんだ。」水野。
「そっか。オッケー。じゃあ後で。」大介。
三人は集まり夕日に照らされながら持ってきた亡霊を円錐状に積み上げていった。ポスターや紙などの燃えやすい物は外側に衣類や燃えにくいものは真ん中に置いた。高さ50センチ、直径1メートルほどの山が出来上がった。水野の提案でその山の一番深い中心にドラゴンという噴出し花火や35連発の打ち上げ花火を置いた。水野いわく、最後は綺麗なようにして終わらせてあげよう。と言って、二人は大賛成だった。
三人で合図をして外側からいくつか点火をする。
煙を上げて燃える思い出はだんだんと勢いをつけて延焼していった。
三人は少し離れて座り込み両手を合わせて暖かく踊る火をしばらく眺めた。野球を始めた頃から今までの思い出が繰り返される。次第に大きくなる炎に彼らは、自分たちの中にある悲しさなどの後処理も一緒に燃やしてくれるよう願った。
そして成仏の合図は5分後に発射した。
何色も色を変えながら噴出す火花は目の前を急に鮮やかに輝かせ、音を立てて打ちあがる花火は頭上で花が咲くように広がった。
驚く三人は無言で眺め続けるが、鮮やかに暴れる花火は不思議な力がある。
火が消えるまでのしばらくの間それは続いた。
黄色に緑、赤、青、白、紫にオレンジ、思い出は鮮やかに空を彩った。三人には、派手で鮮やかで美しい。それでも切ない花火だった
終わっても無言でいる大介と学の代わりに水野が喋った。
「綺麗だったね。」
「うん。」遠くを眺める二人。
「私今日のこと忘れないと思う。」水野。
「うん。」遠くを眺める二人。
「いいお葬式だったね。」水野。
「うん。」遠くを眺める二人。
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・」
火が消えて5分後。
「なぁ、大介。」学。
「んー?」大介。
「吉田先生言ってたじゃん。働いてみたらって。」学。
「今俺もそのこと考えてた。」大介。
「やってみようか。重労働。」学。
「そうだな。10万貯めるか。」大介。
「・・・・・・。」水野。
「どうした?マネージャー。」学。
「なんかずるい・・・・・・・って言うか、二人いいなぁって思って羨ましくなった。学も大介もちゃんとお葬式出来たんだね。私だけ寂しいまんまじゃん。何も解決して無い。どうすればいいの?私悲しいんだよ。二人は次を見つけて、私は何にも無いよ。寂しいよ。」水野。
「俺たちが働いてその後世界一の飲み物飲むときはマネージャーも絶対呼ぶよ。ご馳走するから。」マネージャーを喜ばせようとした学。それで水野の、ましてや女性の気持ちを汲むにはあまりにも浅い言葉。
「それでも・・・・。なんか悲しい。一人ぼっちな気がする。」水野。
大介と学はマネージャーに対しての罪悪感と心配な気持ちがあったが、どうしていいか分からない。自分達は形だけでもお葬式をして整理をつけて次に進もうとしている。
水野の気持ちを汲むには経験の浅い彼らにはとてつもなく難しい問題だった。今まで野球ばっかりしてきた彼らに、女の気持ちや寂しさを包む術を持っていない。
何をすれば良いのか三人のうち誰も分からない。
もやもやの残ったままに後片付けをして夕日が月に変わる前に三人は別れた。
三人のそれぞれの帰り道。
うまく言えないそれぞれの空虚感。
13
「約束覚えててくれてありがとうございます。」佐藤。
私も飲みに連れて行ってくださいと、バーベキューの帰りに言われたことを吉田は覚えてくれていた。
「いえ、こちらこそあの時は助かりました。」吉田。
土曜日の夕方、あまり降りる機会のない駅で二人は待ち合わせをした。佐藤は夜のどの店に入ってもおかしくない黒のワンピースを着ている。いつもは前髪も後ろへ持っていくきっちりとしたハーフアップで結わかれた髪型だが、今日は何も結わかずにゆるいウェーブが肩下まで降りていて、普段とは違う女性らしさが出ていた。すらっとした体系に大人の雰囲気が追加され、彼女自身をブランド物のように感じる。はっきりとした顔立ちを含めて、どこに連れて歩いても男が胸を張れる女だった。
吉田は白に控えめにプリントが入ったTシャツに色あせたジーンズ、白ベースのスニーカーだ。
「バーが開くのはもう少し後なんです。おいしいピザを出す店があるのでそこで軽く食べてから行きませんか?」吉田が歩き出しながら佐藤に尋ねた。
「はい。そうしましょう。」吉田の半歩後ろを歩きながら、佐藤は答える。佐藤は嬉しそうに微笑みながら吉田について歩いた。
「普段はラフな格好なんですね。初めて見ました。」佐藤。
「はい。僕スーツ嫌いなんですよ。肩がピシッとしていて窮屈で。家に帰ったら一番にスーツを脱ぎます。普段はTシャツでジーンズとかが多いです。」吉田。
「そうなんですか。スーツじゃない吉田先生を見るのは初めてですけど、ラフな格好のほうが吉田先生らしい気がします。」佐藤。
「はい。自分でもそう思います。スーツの持つ雰囲気と僕の雰囲気はいつまでたってもなじみません。なんか友達の服を借りて着てるような感じですね。佐藤先生のいつものパンツスーツもかっこいいですが今日のワンピースも女性らしくて似合いますね。」
「え?あ、はい。ありがとうございます。私はスーツも好きなんです。なんか着ると背筋がピシッとしてさあ仕事するぞって気持ちになるんです。今日みたいな休みでどこかへ食事に行ったりするときは、少し女らしい格好をすると、気分が明るくなるんですよね。ただ、家に帰って部屋着に着替えると、もう完全にダレてしまいますが。」佐藤はしゃべり終わるとへへへと小さく笑った。
「女性は洋服を楽しめるところがいいですよね。それはこっちも見てて楽しいし。僕だって一応楽しんでいるんですよ。このジーンズ2万しました。スニーカーも限定のお気に入りです。ただ、楽しいのは僕だけなんですよね。ほかの人はいっこうに面白くない。」吉田がそう言い放つと佐藤はケラケラと笑った。
都会の中の隠れ家というようなメインストリートから二回曲がったレストランに入った。
オレンジ色の間接照明にソファーで作られた客席、漆喰の壁は証明と合わさり柔らかな雰囲気を出すイタリアンレストラン。店の大きさは厨房も合わせてテニスコート一枚分ほど、ガラスで区切られ厨房が見えるのも雰囲気を盛り上げていた。店内には雰囲気を邪魔しないブラックミュージックが流れる。
客の入りはまだ早いからか三割程度。奥のほうの席に案内され二人はメニューを開いた。
「ここはサラダとピザがおいしいんです。」吉田。
「私は何でも食べられるので吉田先生のお任せでお願いします。」佐藤。
わかりましたと吉田は言うと近くの店員を呼び、どちらも店の名前の付いたサラダとピザと生ビールを二つ注文した。
「今年の夏も何にもなく終わると思っていましたが、吉田先生にこうやって素敵なお店へ連れて来てもらえて良かったです。歳が増える度に私の中で季節らしさがなくなっていくようで。友達はみんな結婚しちゃって遊びには誘えないし、一人では海も花火も行けないですし。夏はパッと遊びたいのに・・。」うつむいて佐藤が言った。
27歳の独身女性の持つ些細な悩みは彼女を引き立たせる理由に一役買っていた。若い女性では出せない、影の有る女性の魅力。それはちょっとした差だが、大人の女の魅力的な影になるのか、嫌味を持つ劣等感になるのかは、大きな差だと吉田は思っていた。
「季節によって綺麗なものを見ると心は潤いますよね。夏なら花火や蛍。秋は紅葉や積もった落ち葉を踏みしめる音、冬はライトアップされた街並みに雪が彩る白の美しさ。春はやっぱり桜と春風の持ってくる匂いと暖かさ。一人でもそれは感じられるんですが誰かと共有するとまた味が違いますよね。」
「ええ、そのとおりだと思います。吉田先生は詩人ですね。」
「いえ。全然詩人じゃないんです。というか、佐藤先生は彼はいないんですか?」
「はい。しばらくいません。」
「もったいないですね。きっと男を10人集めれば9人が付き合いたいと言いますよ。」
「フフフ。ありがとうございます。じゃあ残りの一人はどんな人ですか?」
「男が好きな男です。」
二人は良く笑ったあと、運ばれてきたサラダとピザを口に運んだ。
サラダとピザを片付けてビールを2杯飲んだころ吉田が言った。
「佐藤先生。話は変わりますが、一人で見る花火もいいんですよ。」
「何でですか?」
「僕は毎年楽しみにしている花火大会があります。その花火大会は夏に良く出る花火雑誌には載らないほどの小規模な花火大会で・・・。だけど僕は大きな花火大会よりも好きなんです。河原で花火が上がるんですけどね、花火を上げる場所と客席が100メートルもないほど近いんです。首を思いっきり上げてみるんです。なんせ、頭上に上がるんですから。視界に収まらないほど花火が広がります。花火が開いたと思ったらドーンって音が胸に響きます。自分に降って来るんじゃないかって火花を心配しながら次の花火を待ちます。終わりにつれてどんどん花火は華やかになっていく。言葉にもならない歓声を上げて手を叩いて喜びます。だけど、僕の中でのメインは花火が終わった後に来るなんとも言えない寂しさなんです。花火が終わると、とっても寂しいんです。なんでなんですかね。夏の真ん中で少し涼しい風を浴びて寂しさに浸かる時、人生ってこうだよなって、一人でうなずいて感傷に浸ります。楽しさと寂しさが一つ。楽しいだけでなく、寂しいだけでなく。どちらも味わうとき、僕は少し救われます。綺麗なだけでなく、寂しいだけでなく、二つを一緒に味わうときに一番幸せな気持ちになるんです。」
「その花火、誰かと一緒に見てはいけないんですか?」
「それは一年に一度の僕の上質な時間です。誰かが居れば哀しくなりません。きっと、哀しさに浸る前に、その後に呑みに行く場所を提案されてしまいますから。」
「そうですか・・・。」そういうと佐藤は少し残念そうな顔をした。
それからしばらく話した後吉田が時計を見て言った。
「そろそろ次へ行きましょう。今ちょうど僕の好きなバーが開いた頃です。」
そういうと吉田は出口へと歩いていった。
お会計はさっきトイレに立ったついでに吉田が済ませていた。
財布を開きながら佐藤は吉田を追いかける。
「すいません。いくらでしたか?受け取ってください。」
そう言うと佐藤はお札を数枚吉田に差し出した。
「いえ、こういう時は男にカッコつけさせてください。」
「あ。でも。」
「次のところまで少しだけ歩きますよ。」
行き場を失った数枚のお札は出てきたところへおどおどと帰った。
10分ほど、あまりにぎやかではない、都会の裏道を歩いた。
「やっぱり気になっているんですが、野球部の三人になぜ酒を飲ませたんですか?」
「内緒です。」
その回答にあっけに取られた佐藤は会話として正論を言うしかなかった。
「教師としてどんな理由があっても酒を飲ませるのはだめだと思います。」
「ええ。そうです。僕も教師としてだめだと思います。でもいいんです。」
「何がいいんですか?」
「彼らとっても前向きになりましたから。それでオールオッケーなんです。」
「前向きになったって。おかしいですよ。」
「大人として悪いことをしたと分かっている前提で聞いてください。僕がやったことは正しいとなんて思っていません。だけど、彼らが良くなるにはと、考えてやったことです。ルールなんてやぶったっていいんですよ。誰かが喜ぶなら、ルールを破る勇気を持ちたい。」
「ルールを破るなんて教育はありません。やっぱりおかしいです。」
「だから僕は正しくないって言ったじゃないですか。」
「いいえ、違います。吉田先生はそれが正しいと思っています。」
「なるほど、そうかもしれません。僕は正しいと思っている。ルールは必要です。守るべきものです。でも、守るだけじゃあ面白くない。ルールを破ったあと、気持ちよさが残る可能性もある。人の気持ちが第一です。喜べて優しくなれるなら僕はいくらでもルールは破りましょう。」
「・・・・」
「どうしました?」
「私の許容範囲を超えました・・・。整理がついたらまた話していいですか?」
「はい。けど、私の考えは間違っていますからね。佐藤先生が何かを言えば全部私は負けてしまいます。負けて負けていくらでも負けますから。」
「分かりました。例えばですが、ルールを破って職を失ったとしても悔いは無いですか?」
「ルールを破るということはそういうことでしょう。それが見つかってしまえばね。」
吉田はニィっといたずらをしたような顔で笑った。吉田が言う。
「優しさって、時に軽く見られてあまり重要にされません。ルールや結果や数字が重宝される。だけど僕には、優しさって極上の教育だと思います。ルールや規則や教科書よりもです。優しさを知る人間は誰よりも強い。優しいと書いて優れていると読みます。優しい人間が最も偉いんです。」
佐藤が困惑して訪ねた。
「・・・・・。優しいって何ですか?」
「おお、興味深いことを聞きますね。優しいとは、相手が優しいなぁって思うこと。自分が優しいと思うことではありません。相手が優しいと思うことです。方法はたくさんあります。人はどんな時でも優しさを感じられるんです。どれだけ打ちひしがれて絶望の中でも。誰でも。でもね、ひとつ条件がある。優しさは相手を思ったあとにしか出てこないんです。」
吉田は佐藤に二カッと笑う。
佐藤も自分が考えている当たり前など彼の前ではどうでも良い気がして笑えた。
正しい間違いの天秤はこの人には必要ないんだな。
14
二人は今日の目的地に到着した。
軽いドアを半分開くと同時に冷房によるひんやりとした空気と控えめなスピーカーから流れる心地よいリズムを叩くブラックミュージックが漏れてきた。
一般家庭のリビングほどの広さのバー。壁にはリキュールのボトルがお雛様のように並んでいる。少し暗めの照明の下のカウンターの上でかわいいキャンドルが静かに踊っている。アップテンポなブラックミュージックとプロジェクターから壁に映された「天使にラブソングを2」の映画が店の雰囲気を決定付けている。
ゆっくり流れる時間はきっと日本人の休日には上質な要素だ。そんなものもあってこの店に入ってきてからの二人は肩の力を抜きうまく雰囲気に浸りながらカウンターに座る。
「一人でも来るんですか?」控えめに聞く佐藤。
「たまに。」堂々とした吉田
「吉田先生はこういうお店良く知ってますね。女は一人でバーには行きませんから一人でこういうところに入れる男の人がうらやましいです。」佐藤。
「入るときは一人ですけどね、ずっと一人ではないですよ。マスターやお客さんと話したりしますから。」
マスターがおしぼりを持ってきた。
「おいーっす。篤君が誰か連れてくるの珍しいね。」
「そうですかねぇ。こちらは学校の同僚です。音楽を教えてる佐藤真美さん。」
「おお、ああ、どうもこの店をやってる相楽です。久しぶりにこんな美人を見たなぁ。ハハハ。ねえ、篤君。」
「ありがとうございます。吉田さんの同僚の佐藤です。」
「飲みたいもの言ってくださいね。うちメニューないんですけど、なんとなく言ってくれればそんなようなの作りますから。ハハハ。」
笑顔のまま産まれてきたようなマスターの自然な笑顔に佐藤は初対面独特の気まずさを奪われた。白いシャツに薄い色のデニム、腰から巻く黒いエプロン、すべてがパリッと伸びていて気持ちのいい格好も助けてすぐにこの店が好きになった。
「マスター僕中途半端なやつね。」
「え?何?あーっと、じゃあ、私も同じやつで。」
「あいよ。中途半端二つね。」
「マスターなにかいいことあったの?気分良さそうだね。」吉田
「ん?あったよ。」マスター
「なに?」吉田
「いいもの買ったんだ。DⅤD。後で一緒に見ようよ。主役誰だと思う?俺もびっくりしたんだ。地球だってさ。マジ?って感じでしょ?ハハハ。」
そういうとマスターはこっちの返事も聞かないうちにお酒を作りに行ってしまった。
佐藤が店内を見回してニコニコしている。
「とってもいい雰囲気ですね。あのマスターもとってもいい感じ。そういえば中途半端なやつって何ですか?」
「アルコールの度数が中途半端なやつの意味なんです。強くもなく弱くもないやつ。でもマスターがたまにふざけるんですよね。」
「え?何をふざけるんですか?」
「この前はドリンクの量を中途半端にして出してきたんです。グラスに六割くらいしか入ってないやつ。」
「ハハハ。何ですかそれ。面白いですね。」
「そう。びっくりして笑っちゃいました。元気があまりないときだったんでその一杯でめちゃくちゃ助けられましたよ。」
「そうなんですか。私もここ一人でも来たくなりました。」
「でも、同じやつでよかったんですか?何が出てくるか分かりませんよ。」
「多分大丈夫です。一通り飲めますし、まだあまり酔ってないんで。」
「佐藤先生はお酒強いんでしたっけ?」
「どうなんですかねぇ?」
「ねぇ?って言われても。」
「例えばですけど。この場が楽しすぎて私がだらしなく酔っ払ってしまったら吉田先生はどうします?私は明日休みです。」
「んー。僕はそれ以上に酔ってるでしょう。」
そういうことじゃないんだけどな。と佐藤はつぶやいた。
マスターがグラスを二つ持ってきた。
「あいよ。中途半端。」
ふちにライムが添えられたグラスが前に置かれた。透明なカクテルの中に無数の気泡が氷の隙間を踊りながら昇っている。
「マスター、手抜き?」吉田がにやけながら言う。
「あらら。何を言うか。篤君たちは暑い中歩いてここまで来たんだろう。冷たいジントニックで喉を冷やせば汗も暑さも飛ぶからね。喉で味を感じるなら単純な味のほうがいいよ。今の君たちには最高の一杯だ。」
「さすがマスター。おもいやりの塊だね。」吉田
「篤君、知ってるか。大切なものは、目には見えないんだよ。」決めた顔で言うマスター。
「あれ?マスターってどこかの星の王子だったの?」
「ばれた?」
「サン・テグジュペリ。星の王子様。名作中の名作ですよ。」
「国語教師には勝てないな。ハハハ。佐藤さん、地球は好き?今DVDつけるからね。ハハハ。」
マスターのつけたDⅤDは地球の自然をひたすらとり続けたドキュメンタリーだった。白熊のありのままの様子、それにシマウマやライオンの生活、昆虫の羽ばたく様子までが描かれていた。それはもう偉大できれいという感想しか人間には与えられていないように感じるものだった。
「すごいですね、マスター。」と佐藤。
「そうだな。人間ってちっぽけだな。俺のほうがすごいって言うエゴや他者に思う嫉妬なんかゴミみたいなものに感じるよ。俺はさ、エゴや自我なんて自分から無くしたいよ。近くにいる人に暖かく居られれば良いじゃないか。人は何でこんなに傲慢なんだ。あまるほどに稼ぎまくって他者を汚してなんになる。まだまだだとむさぼるってことは、自分は今、手の中にあることに満足できないちっぽけな心の持ち主だと叫んでるようなものなんだ・・・だからさ」
「マスター、それ以上は辞めておきましょう。エゴも嫉妬も人間には必要なものですから。人間て地球に比べてはるかに醜くて自分勝手な生き物です。だけど小さな救いはある。その小さな救いは地球に対して胸を張れるものではないけど、僕たちはそれを愛しましょう。」
「小さな救いって?何?」吉田の発言にきょとんとしたマスター。
「マスターみたいな考えのこと。」にやけながら吉田。
「ハハハハハハ。ヨンキュー。いいね。篤君。ヨンキューだよ。サンキューの一つ上を行ったよ。篤君。ハハハハハ。ヨンキュー!ああ、涙出てきた・・・。」ティッシュを目頭に当てた。
「僕もマスターにヨンキューですよ。」と笑いながら吉田。
「私もマスターにヨンキューです。」微笑む佐藤。
吉田も加藤もヨンキューを愛せると思った。何とも言えないこの世界はヨンキューを必要としているのかなと。
目の前のグラスは空になり、次のカクテルが今か今かと出番を待っている。
15
「えーっと、何杯飲みましたっけ?」吉田。
「さー、ぜんぜん分からなくなっちゃいましたね。」佐藤。
「マスター、ラスト一杯で帰ります。」吉田。
「あいよ。今日はどうするの?この後どこかへ?」
「マスターに任せます。」
「ああ、そうなの?あいよー。」
10秒もしないうちにグラスが出された。
「最高の一杯だよ。」とマスター。
出されたのは氷の入った透明な液体だった。
吉田は一口飲むとうなずく。この人はやっぱり愛せるなと思った。
佐藤が一口飲んで驚いた。
「あれ?これお水じゃないですか?」
「ハハハハ。そう。ただの水。」マスターが笑って答える。
「なんでこれが最高の一杯なんですか?」
「そう。君たちにとっての最高の一杯。ちゃんと帰りなさい。って意味ね。汚い言葉かもしれないけど、泥酔しての一発なんて素敵なもんには絶対にならないからね。酔わせてヤろうなんてガキのやることだ。この男はそれが分かってる。ね。篤君。」
「さぁ、どうでしょう。」
「佐藤さん下半身の会話は上半身の会話が終わってから。そっちのほうが綺麗なものになるよ。ちょっと下品でごめんね。」
「男性って女性よりもロマンチックですよね。」
「そう。ロマンチックがなければ男は生きる意味を失うんだ。ね、篤君。」
「さあ、どうでしょう。マスター、また来ますね。」吉田が席を立って出て行った。
「あいよ。待ってるよー。」
「あのお会計は?」佐藤。
「篤君からさっき貰ったよー。」
「ええー。また!もうっ。」
帰り道佐藤は吉田の腕を強引に組んだ。
「あのぉ、私たち・・・・」
「ええっと。はい。ロマンチックを次までに考えておきます。」
腕を持ち替えて、吉田は佐藤の手を握った。
ふらふらと進む足と、しっかりと握る手。
16
大介と学は引越しの日払いアルバイトをしていた。
文句たらたら出てくる、割に合わない仕事で10万貯めてみろと吉田の言った言葉を素直に従い、相談して彼らが考えうる一番辛いであろう仕事に勤めた。
辛いのは肉体労働、それで引越しのアルバイト。単純な動機だった。
その一日目。アルバイト先の会社から言われた集合場所に朝九時に待ち合わせしたが11時までその場で待機。そのあとはワンルームからワンルームへの引越し。重いものといえば本の入ったダンボールくらいだった。夕方前には解散していた。
「こんなに楽な仕事でいいのかな。」大介
「なんかもっと辛いと思ってたね。」学
「せっかくだし、世界一の飲み物飲んどくか。」
「ああそうだね。自販機で買って公園で飲む?」
「ああそうしよう。」
まだ夕日が残る空の下の公園でベンチに座り缶ビールを開けて強くお互いの缶をぶつけた。
「カンパイ!」
「カンパイ!」
「学よぉ。10万貯めたらどうする?」
「んー。どうしようかねぇ。なんかあまり思いつかないなぁ。」
「だよなあ。俺さ、10万貯まったら何買おうかなって考えたんだけどさ。最近欲しかったのなんだろうって思い出したんだ。10キロのダンベル二個とプロテインだったよ。何か自分で突っ込み入れちゃったよ。もういらねえだろって。」
「そう言えば、俺も新しいランニングシューズとプロテイン欲しかったなぁ。もういらないけど。」
「学よぉ。今は何が欲しい?」
「んー。何だろうね。俺、今空っぽだからさ、この隙間埋めて欲しいなぁ。」
「おお、それいいなぁ。10万でできるかな。」
「んー。でも10万って大金だよね。出来るんじゃない?10万あれば何でも出来るよ。」
「そうだな。10万あれば何でも出来るよな。」
「貯まったらさ、この隙間埋めよう。」
「そうだな。めちゃくちゃやる気沸いてきたよ。」
次の日の朝、文句タラタラバイト二日目。7時、引越し会社から言われた集合場所に20分前に着くとすでに引越しの4トントラックが止まっていた。急いでドライバーの方に行き、二人は息を一杯に吸って勢い良く挨拶をした。
「おはようございます!今日はよろしくお願いします!」二人は姿勢良く、大きな声で頭を下げた。挨拶なら長い野球生活で染み込んでいる。
運転席のドアが開いてゴツイ男が降りてきた。いかにも体育会系の大男、アメフト選手みたいだ。単純なニックネームをつけるとしたらミスター引越し。身長は180センチ以上あり、半そでのユニフォームからは胸筋も二の腕の筋肉も浮き上がっている。30過ぎと見える男に大介も学も圧倒された。二人を前にして男はめんどくさそうに言葉をなげた。
「ああ、よろしく。昨日はずいぶん楽だったらしいな。今日は昨日とは違うから。弱音なんて吐かないでくれよ。コレに着替えてさっさと車に乗ってくれ。」
ゴツイ男の無気力ながらも高圧的な言い方に戸惑いながらユニフォームを渡された二人は急いで路上で着替えて車に乗った。運転席と助手席の間にもう一人乗る形のトラックは筋肉マン三人を乗せて窮屈そうに出発した。
走り出すトラックは今日のお客さんの家へ向う。
車内は無言で気まずい雰囲気、ゴツイ男は何も喋らずに運転をしている。もちろん雰囲気に飲まれて二人は姿勢良く黙って座って風景を眺めるしかなかった。ラジオでも流れていればまだ気が楽だが、聞こえてくるのはアクセルを踏んだときの低いエンジン音とウインカーの乾いた音だった。シートに伝わるトラック独特の振動が彼らの緊張を引き立てた。
集合団地の中へ入り、ゴツイ男は地図を見ながら現在地を確認をしトラックを止めた。
「おい。降りろ。俺が先にお客様のところへ行ってくるから、それまで外で待ってろ。」ミスター引越しはそう言いあっという間に走って団地に消えていった。
残された学と大介はトラックから降りて待つ。
「なぁ、学。何であいつはあんなに命令口調で偉そうなんだ?」ゴツイ男にイライラした大介。
「知らない。あんな言い方されたら誰だって気分悪い。何にも悪いことしてないのに。」
学もイライラしている。
「あいつ今日の仕事は昨日とは違うからって言ってたけど、今日はきついのかな。」大介。
「かもね。」学。
「あーあ、なんか嫌だな。」そう言うと大介は近くの植え込みの囲いに腰を落とした。
「それもそうだし、今日も暑いね。帰って家でガリガリ君食べたい。」学も大介の横に座った。
「ガリガリ君といえばさ、最近チョコ味出たの知ってる?この前コンビニ行ったらチョコ味があってさ、ソーダ味買いに行ったのにソーダやめてチョコ味買っちゃったよ。あれは興奮したなぁ。」盛り上がる大介は植え込みに足を投げ出してだらしなく座っている。
「え?俺チョコ味知らない。ガリガリ君でしょ?そんなのあるの?」学も地べたに座ってあぐらをかいた。
「ガリガリ君だよ。学、まだ食べてないのかよ。60円持ってコンビニ行けよ。絶対あるから。」大介。
「え?でもチョコ味なんてガリガリ君らしくなくない?チョコでガリガリできるの?」学。
「そう思うだろ?俺も最初疑ったけどさ、すっげぇガリガリだよ。ソーダ位ガリガリ。ガリガリ君はやっぱりすごいわ。」大介。
「えぇ。チョコでガリガリなんだ。絶対食わなきゃね。ガリガリチョコ。うわ―。今すぐ食いたくなってきた。」
後ろからサイレンのような声がした。
「何やってんだお前ら!」
「!!」
「!!」
遠くから聞こえた怒鳴り声の元は、二人が振り向くと走ってきて、すぐに近くに居た。
「何座ってんだ!誰が座って良いって言った?仕事中だぞ!」
すぐに二人は立ち上がり固まった。
「いや、えっと。」大介。
「すいません。」学。
「あのなぁ!お客様がお前ら見たらなんて思う?俺ならお前らみたいなやつに家に上がられたくもないし、荷物運んで欲しくもないなぁ!」
ゴツイ男は相当怒っている。
「す、すいません。」大介。
「はいっ。すいません。」学。
「二度と座るんじゃねぇぞ。あと移動の時は絶対走れよ。階段でも何でもだ。わかったか?」
「はい。わかりました・・・。」下を向いて大介が答える。
「分かりました。」学も小さく答えた。
「それとお前らの下の名前は何だ。」
「え?」
「下の名前だよ!」
「だ、大介です。」
「学です。」
「大介と学な。俺のことは優さんって呼べ。名前で呼んだほうがお客様から見れば長い間やってるパートナーだと思われる。そっちの方がお客様は安心して引越しを任せられる。分かったか?」
「はいっ。」背筋の伸びる二人。
「じゃあ503号室。玄関に積んであるダンボールをトラックに積め。走っていけよ。一時間で終わらせるぞ。」
「はい。」二人は503号室に向って走り出した。
二人にとって初めての本格的な引越しのアルバイト。昨日のワンルームの引越しとはわけが違う。
要領も何も分からない。ダンボールを運んでいる最中にも優からは厳しい口調で指導が飛ぶ。
「学!ダンボールは一個だけで持つな。3個、一度で持てよ。そんなんじゃ日が暮れるぞ。」
「大介!家に上がるときは、大きな声で失礼しますだ。何にも言わずに上がるな。お前は泥棒か!?」
「お前ら絶対に荷物を壁やドアにぶつけるな。傷つけたら弁償させるぞ。」
「おい、もっと走れ。」
優から注意を受ける度に二人は大きく返事をした。部活で監督やコーチに指導を受けたらありがたいと思い、大きな声で返事をする。それが身についていた為だ。二人とも内心では腹が立っていても自動。
お客は三十代の夫婦に小学生の子供がいる4人家族。3DKの503号室はダンボールであふれていた。一時間で終わらせるぞという優からの目標設定に二人は無理だろうなぁと内心思っていた。引越し作業が始まってから、二人は夢中でダンボールを運び続けた。エレベーターは他の住人に迷惑がかかるからという理由で階段のみで運んだ。体力がある二人だが、階段で5階へ上がり荷物を持って下り続けるのは大変だった。しかし弱音は吐けない。優はダンボールよりもはるかに重い洗濯機や大型テレビ、冷蔵庫までも一人で運んだ。優の体より大きなタンスもどこにもぶつけずに運んで行った。文句は言えない。持ち運ぶ重量もスピードも大介や学よりも速かったからだ。
大介も学も夢中で運んだ。
最初に一時間で終わらせる目標だったが50分で終わった。三人のユニフォームであるつなぎは汗で色が変わっている。
お客さんが驚いていた。早すぎて驚いていた。
トラックに積み終わってから優はお客と話して引越し先の場所や段取りを打ち合わせしているが、大介や学と話しているときのような厳しさはなく、ニコニコととても人当たりの良いお兄さんのようだった。低姿勢で謙虚な接客を大介と学はじっと見ていた。
二人は思った。
なんだろう。仕事を本気でやっているこの人は、すごいかもしれない。
二人は優に興味を持ち始める。
男が男に惹かれる時はこんな時だろう。
ダッシュで戻ってきた優が言い放った。
「おい。行くぞ。乗れ。」
二人は気持ちのいい号令に従ってトラックに飛び乗った。
荷物と野郎3人を積んだトラックは引越し先に向かって走り出す。
17
「はあ、はあ、はあ、終わった・・・。」学
「はあ、はあ、やっと終わったな。」大介
二人は座るなと言われた言いつけを守って腰に手を置いてやっとの思いで立っている。
三件目の引越しが終わった直後。
その頃ミスター引越しの優はお客さんとの雑談に花を咲かせている。疲れを出さない優。
お客さんもニコニコしている。
引越しのサービスと優の愛嬌にやられてお客さんは相当酔っている。
あなたにやってもらえて良かったわ。と何度も口にしている。それに無邪気に喜ぶミスター引越し。二人に見せる顔とはまったく違う幸せそうな顔だった。
ニコニコしてトラックに戻ってくる優。
「少し早く終わったな。」
そう言う優は今日一日二人に見せなかった笑顔だった。
「乗れ。ラーメン食いに行くぞ。」
そう言い走り出すトラックは変わらず、会話など無いが、走り出してすぐに優がボタンを押した。今日初めて、トラックにFMラジオが流れた。トラック内に初めて爽やかな音が鳴り、自分たちに重い空気をぶち壊してくれた。
パーソナリティーの陽気さと流れる音楽は重い雰囲気を徐々にぶち破ってくれる。
午後五時。国道沿いのラーメン屋に着いて優から無言で渡されたのはチャーシュー麺大盛りとライス大盛りの食券。
それを三人はカウンターに出す。
ラーメンの出来上がりを待っている二人の前に、優は胸ポケットからお札を出した。五千円札が2枚千円札が三枚。
「あのな、大介、学。」
優が話し始めた。
「これはチップなんだ。三件の引越しをして、お客さんからそれぞれ頂いたんだ。おいしいものでも食べてって言って渡してくれた。俺たちは走って重い荷物を運んで汗かいて頑張った。結果引越し料金とは別に更に俺たちに金を払ってくれた。意味分かるか?俺たちの仕事が、最初に提示した引越し料金を超えたんだ。わかるか?うちの会社が出す引っ越し料金は安くない。でも客の予想を超えたんだ。頑張って良かったと思えないか?俺が五千円もらう。お前らは四千円ずつ、だ。それでいいか?」
「え?僕らがもらっていいんですか?」
おどおどした二人。
二人はまさか給料とは別にお金が貰えるなんて思ってもなかった。
「当たり前だ。俺たち3人の手柄だからな。このチップは山分けだ。」
「・・・。」
「・・・。」
二人はなんて言ったら言いか分からず、優に頭を何度も下げた。
やっと出てきた言葉は二人して「申し訳ないッス」だった。
「チャーシュー麺、ライス大盛り残すなよ。俺のおごりだからな。」
やっぱり二人は申し訳ないッスしか言えなかった。
なんて言えばいいんだろう。
疲れたけど、疲れて良かった。
そう思って食べるチャーシューメンはとてもおいしかった。
「じゃあ、お前らは明日も俺と組むぞ。」
その瞬間にラーメンをすする二人が同時にむせたのに意味は無いとしよう。
18
あれからの引越しバイトは全て優との作業だった。引越しの事業所に優が大介と学をパートナーに指名した為だ。
二人が優と組み始めてから7日目の仕事。朝7時に駅前集合。トラックに乗り込み一軒目の引越し先に向かった。
「優さん、今日は全部で何件ですか?」学が優に尋ねる。一週間の優との作業で大体の仕事を把握できるようになっていた。
「今日は四件。でかいの一件に小さいのが3件だな。」優が今日の客の詳細書類を渡して答えた。
「え?ほんとっすか。じゃあ昼過ぎには終わりですね。」大介が優に調子よく言った。
「言うねえ大介。じゃあ一件目のでかいのを2時間で終わらせないとな。できるのか?」優は嬉しそうに聞き返す。大介も調子に乗って返事をする。
「いや、1時間半で行きましょう。階段全部ダッシュで行きますよ。」大介。
「よっしゃ俺も。」学。
「やる気があるのはいいことだな。でもお客さんの荷物落としたりぶつけたりするなよ。じゃあ15時までに4件の引越しが終わってたらチャーシューメン大盛りとライスご馳走してやるよ。そのかわり終わらなかったらラーメンおごれよ。勝負だ。」
「よっしゃー。チャーシューメン大盛りぜったい食おうぜ、学。」
「そうだね。今日もガンガン走るかー。」
それを聞いて優はフフフと笑った。「お前らホント単純だな。」
一緒に仕事をしていくにつれてお互いのことがだんだんと見えてきた。
大介と学から見た優は最初、乱暴で横柄な嫌な奴だと思っていた。でも、時間が経つにつれて感じたのは責任感が強く、面倒見の良い頼れる兄貴のようなものになった。
優も二人に対して最初はあまり良い印象を持っていなかったが、時間が経つにつれ、素直で根性があるなと感じていた。
三人はお互いに一緒に仕事をすることが楽しみになっていた。
今日の引越し一件目の家の前に3人の乗ったトラックが横付けされると、勢いよく3人が降りてきた。
「お客さんに挨拶してくる。」優は二人にそういうと玄関に走り出した。
「はい。俺、資材を出しときます。」トラックの荷台のドアを開けに行く大介。
「俺は通路にある障害物をよけておきます。」荷物を運ぶ際にぶつかってしまいそうなものを探しに行く学。
大介も学も自分が今何をすればいいのか、効率を考えて動けるようになっていた。
その日も汗だくになって3人は走り回った。お客さんに挨拶をして、指示を貰い大きく返事をして機敏に動く。荷物は丁寧に、大切に扱った。優は荷物を運びながらお客さんと何てことない会話をしている。お客さんも楽しそうに話している。優の人当たりの良さと手際のよさがお客さんの満足度を上げているのだろう。そう感じてか学と大介もお客さんに聞かれたことは笑顔ではきはきと答えていった。荷物は重く、気温は高くて蒸し暑い。炎天下で熱せられ汗で肌に張り付いたユニフォームで登る階段もしんどかったが、そうするとこの作業がなぜだか楽しくも感じられた。
約束の15時に最後の家の引越しが終わった。
最後のお客さんから書類にサインをもらい、挨拶をしてトラックに戻ってきた優が大介と学に声をかけた。
「よっし、終わり。大介、学、ラーメン行くぞ。早く乗れ。」
「よっしゃー終わったー。」二人はガッツポーズ。それを見て優が笑う。
「今日はチャーシューメン大盛りに煮たまご乗せてやる。ライスもな。」
「やった。優さん最高。」大介。
「あざーっす。」学。
3人が飛び乗ったトラックはFMラジオを流して走り出した。
窓を全開にしてスピードをあげると汗でべたべたになったユニフォームの中に風が抜ける。炎天下で重労働をし、熱くなった体をゆっくりと冷ましてくれるこの風がとても貴重なものだと二人はやっと知る。人工的なカラッと乾いたクーラーの冷風の何倍も気持ちいいこの生暖かい風はこの労働の後の瞬間にしか味わえない限定的なものだからだ。
優との過酷な仕事が終わり、ラーメン屋に行くこの時間が二人は大好きだった。もっと言うと、一番この風を喜んでいるのは優かもしれない。それほど優は二人を気に入っていた。まだまだ二人で一人前の大介と学だが、いい相棒だなぁと優は感じている。
ご機嫌で運転をする優は胸ポケットから今日のお客さん達からお昼食べてと言われて渡されたチップを出して言った。
「おい学、今日のお客さんからのチップこれいくらあるか数えろ。」
「はい。今日もたくさん貰ったんですね。」学。
「すごいっすね、優さん。」大介。
「ああ、まあな。俺だぞ。当たり前だろ。」優。
ラーメン屋にて、ラーメンを待つ大介と学は優に聞きたいことがあった。何で優はお客さんから引越し代とは別にチップをもらえるのかだ。疑問に思った大介は優に尋ねる。
「あの、優さん。なんで優さんはお客さんからチップをもらえるんですか?」
「ん?何でってそりゃあ、ほら、すごいからだろ。俺の荷物の持ちっぷりとか。あと、お客さんを飽きさせないトークだな。ハハハ。」
「そりゃ洗濯機とかTVとか一人で持つときはすごいけど・・・」大介。
「あのな、働くってことは、誰かを楽させるってことだ。それでハタラクって言うんだ。はたが楽する。楽させたんだな、俺たちは。それで思った以上に楽しちゃったんだろ、お客さんは。だからありがとうとお礼なり、チップなりをくれるんだ。わかったか。働くはハタラク。そういうことだ。でも大介、あまり深く考えるなよ。人間小さく考えちゃダサいし人間が浅い。喜ばれようってだけ考えて働くのがコツだな。」
優はそういうと何か説教をしたようで少し恥ずかしい気持ちを隠すため、目の前の水をグイっと飲み干した。人が学ぶということはこういうことなのかもしれない、優は自分が彼らくらいの若いころ、先輩たちから社会というものを学んでいた頃のことを少し思い出し、その何かもっと二人にしてあげたい、教えてあげたい。成長してほしいと思った。思ったがすぐには思いつかず、その代わりにラーメン屋の店長にこう言った。
「おじさん、三つのうち二つにはメンマと海苔も追加してー。」
大介と学は急に何が起こったか分からず、お互いを見て首を傾げた。
優はそれを見て大きく笑った。出来ればこいつらとずっと仕事してたら楽しいだろうなあと。
19
新学期の始まる9月1日。大介と学は夏休みの間休まずに働いていた。その給料の入った預金通帳を持って学校へ来ている。二学期の始業式へ行く途中、廊下を歩きながら二人の足取りは軽い。
「おい見てみろ、学。ほら。16万2346円だぞ。すごいだろ。」
「もうイヤッて程見たよ。俺だって一緒に働いたんだ。同じくらい持ってる。」
「学のも見せてみろ。」
「さっき見たじゃん。はい。」
「んんんー。17万325円。何でだ?」
「この前大介のお金でビール飲んだからでしょ。しかもそんな量飲めないくせに2箱も買って。数にして48本。ありえないでしょ。まだ一箱半もうちの押入れにあるし。」
「マネージャーが悪いんだよ。ビール飲むっていうから買ったのにチューハイ買ってくるから。」
「しょうがないよ。マネージャー、ビール飲めないんだから。それにまだあるんだからいいじゃん。」
「それならさ、先生と飲むか。喜ぶんじゃないか?俺たちが働いて買ったビールなら。正真正銘の世界一の飲み物だろう。」
「そうだね。言いだしっぺだし。」
「俺たち先生の言うとおり10万稼いだしな。」
「うん。水戸黄門の印籠みたいにさ、この通帳見せようよ。控えおろーう。これがなんとこころえるぅーって言って。」
「ははぁーーーー。ってひざまつくかな。」
「そりゃあマストでしょ。そのために働いたんだから。」
「そりゃ楽しみだ。ハハハ。」
「始業式終わってホームルームが終わったら職員室行って見せてこようぜ。」
「そうだね。絶対びっくりするよ。」
体育館に全校生徒と職員が集まり始業式が始まった。
携帯電話をいじるもの、後ろを向いてしゃべるもの、夏休みが終わってすっかり様子が変わったもの、がやがやとした雰囲気で式が始まった。校長先生の話が始まりさらに生徒の私語が膨らむといつものように体育教師や男性の先生が私語をやめろと注意に回る。しかし普段と違うのは、真っ先に注意して回る国語教師の吉田がいないのだ。
「あれ?学。吉田先生居なくないか?」
「だねぇ。どこだろ。一番にいつも注意して回るのにね。」
校長の話が終わり、体育祭、文化祭の話と進み、一通り始業式の行程が終わると最後に教頭先生が壇上に立った。
「えー、皆さんの中にも国語を教えてもらっている人もいるかと思います吉田篤先生がしばらく学校をお休みすることになりました。年内には戻ってくるようなのでそのときはまた迎えてあげてください。その代わりに臨時で国語を教えてくださる先生を」
「え!何で!」生徒の中の誰かが大きな声で叫んだ。
それを合図に生徒達は爆発的に驚きを口にしだした。何で!何で!と慌てている。体育館は騒がしくなった。それに慌てる周りの教師。教頭先生の言葉もしばらく止まる。それから騒然とした始業式が静まるまでしばらく時間がかかった。それほど吉田は生徒に好かれていたのだろう。
そんな雰囲気の中、何が起きたか分からない学と大介は力の抜けたように体育館の上のほうをぼんやり眺めている。
あれ。何で先生が居ないの?
青天の霹靂(へきれき)。
20
ホームルームが終わって大介と学の二人が職員室についた頃にはもう十何人もの生徒がドアの前で吉田の休みの詳細を聞きに来ていた。人だかりの後ろで銀行通帳を持って立ち尽くす二人は力が抜けて人だかりをしばらく眺めていた。
それからあまり時間も経たない頃、人だかりを掻き分けて出てくる音楽教師の佐藤真美。
「居た居た。ちょっとこっちへ来て。」と佐藤は二人を連れて誰も居ない教室へと連れて行く。
「吉田先生から手紙を預かっているの。自分を探しに来たら二人に渡してって。」佐藤は封筒を二人に差し出した。
「読みたくないよ。どうせさ、ごめんとかそんなことだろ。俺先生には腹立ってるんだ。だっておかしいだろ。」大介は口を尖らせて言った。
「俺もあんまりだと思うよ。俺たちに好きなこと言って自分だけ消えるなんて。謝っても許さない。」学もポケットに手を入れて床に向ってそう言った。
「あら、そうよね。だけどもし、この手紙の中は謝るとか申し訳ないとかごめんとかが一切書いてなかったらどうする?」佐藤が二人に言った。
「どういうこと?」二人は同時に佐藤の顔を見て言った。
「フフフ。あなたたちは世界を広げるんでしょ?」
「手紙かして!」
二人は勢い良く封筒を開けて中身を開いた。
〔 大介と学へ
おもしろき
こともなき世を
おもしろく
下の句なしのこの歌は幕末の維新志士、長州藩、高杉晋作の辞世の句だ。
この歌を魔法の言葉だと僕はそう思っている。
この歌を見るといつも僕は頭を抱えてしまうんだ。続きはあなたが考えなさいと僕は彼に言われているようで。
君たちならどんな下の句にしますか?
僕は若いときからずっと考えていた下の句をやっと最近見つけました。それは一生懸命に生きる君たちを見ていて。ありがとう。これから自分の下の句を詠んできます。それでは。
沖縄県読谷村3―10―5
君たちは絶対に来ないように。旅費が無いだろうから。
吉田篤 ]
「ハハハハハハ。大介!ねえ!大介―ハハハハハ!」学が腹を抱えて笑っている。
「ワハハハハハハ!学、学!ハハハハハ。おもしろいなぁ。学。」大介は床に転がった。
「金ないもんなー。俺たち。ねえ大介。」学
「旅費ないよー。無理無理!佐藤先生、俺たちさ、お金ないから沖縄なんて無理なんだけど、いくらくらいで沖縄って行けるのかな。」大介が笑いすぎた涙目で佐藤に聞く。
「うーん。今はシーズンじゃないし、安い飛行機で行くなら往復3万円くらいで行けると思うわ。」
それを聞いた二人は嬉しさで込み上げる気持ちをこらえている。
「え?そんなもんなんだ沖縄って。あれー、大介、なんか俺、空港で飛行機見たくなっちゃった。」学
「ハハハ。しょうがないな。飛行機見たくなっちゃったならしょうがない。空港までの電車賃位なら今財布に入ってる。よし、飛行機見に行くか。」
「あなたたち、帰るのが遅くなるときはおうちに連絡するのよ。」
「分かってるよ。」二人
「飛行機を見るついでに沖縄に向って叫んできてくれる?私をほっとくなって。」
「うん。いいよ。大きな声で言ってくる。」と学。
「じゃあ行ってくる。佐藤先生さよなら。」
「はい。またね。」
飛び跳ねながら空港へと向う二人を見送りながら、佐藤は彼らの親と担任になんとうまく伝えようか悩んだ。それに吉田に今そっちへ向ったことも連絡しなければ。新学期早々、やることがいっぱいだ。
数時間後、彼らはやっとチケットの取れた飛行機の中でそわそわしている。
「広い世界を見るってことは、きっと痛いし自分が情けなくなることもあると思う。でも世界が広がるって楽しいぞ。」吉田がバーベキューをしたときに言った言葉を二人は噛み締める。
今、狭い世界の殻を破ったんだ。
「これから何が起きるかさっぱり分からないな。」大介
「どうなるだろう。」学
「でもさ、きっと世界は広がるんだろう。」
「そうだな。けど、世界なんて良く分からねぇ。ワクワクしてれば、いいんじゃねーか。」
「そうだね。」
「これから何が起こるか分からないって、いいな。」
「ああ、冒険だ。」
今、彼らの世界は、音を立てて広がる。
さて、止まっていた時間が動き出した。
話の始まりは、やっとこれから。
青って雰囲気 終わり
青って雰囲気 伊藤ゆうき @tainohimono
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