狸と狐、それから破壊者-4

「……ええと」

「…………」


 再会からの一言目、何を言おうかと思っていた葵乃下狐珀。だが、彼女は眼前の状況に困惑していた。

 ――――格好良くなったねとか、瞳は綺麗なままねとか。そういうロマンチックな言葉を幾つも考えていたのに、それは当の雪狸が対面とほぼ同時にしがみ付く勢いで抱き締めてきたことで全部飛んでしまった。

 挙句の果てにはそのまま無言で嗚咽を漏らす始末。ヴィクトルは笑いを抑えるのに必死で役に立たず、背後に立っていた海叶からは冷めた目線が刺さるしで狐珀は何が何だか分からない。

 

「その、雪狸……?」

「……」

「いや、無言で力強めないで、何したいか全然分からないって……」


 挙動がまるで迷子の子供。16歳の少年とは思えない情緒の発露。笑いを堪え過ぎて呼吸の怪しいヴィクトルを“お前が何かしたのか”とばかりに睨むも、返ってきたのは“そんなわけないだろ”と手を左右に振るジェスチャーのみ。


「雪狸、とりあえず家に行きましょ。お屋敷は潰れちゃったけど……セーフハウスとして確保できた場所があるの」

「……はい」

「ほら、しゃっきりして。歩ける? 手繋ぐ?」

「ぁい」

「お嬢様、そこで腹筋崩壊させてる男はどうします」

「一緒に付いてきて。何が起きたか事情は聴きたいし」

「――――あぁ、ホント面白。それはそうと情報交換はこっちも望むところだしね。言われずとも怪しい真似なんて何もしないさ」

「存在が怪しいんで蹴り出しましょうお嬢様」

「ステイ、ほんとにステイ」


 あまりにもなし崩しで、感動も何もあったものではない再会と対面。

 世界が滅茶苦茶になって沈んだ気分が吹き飛んでしまうような、どことなく気の抜ける空気が4人の間に漂っていた。



 時間は雪狸と狐珀が再開するおおよそ半日前に遡る。


 新生種が生み出した建造物の一室で休息を摂っていた雪狸は、全身を包む倦怠感にも似た寒気で目を覚ました。自分の体というものがひどく重く、指先を動かすことすらためらうほど。窓から外を見れば、雲一つない星空と極寒の象徴たる霜が見える。

 ふと横を見れば、少し離れたところで毛布に包まったヴィクトルが熟睡している。奇跡的に稼働している壊れかけの置時計は深夜の2時半を指していた。


「……寒い」


 できる限りの厚着をして、着ぶくれ状態で毛布まで頭から被っているというのに冷気はそれを貫いてくる。気温が氷点下を突破しているのは明白で、今後は焚火のための燃料集めを真剣に考えないといけないと思いながらも、それによって生じる所持重量の増加を考えて雪狸は憂鬱な気分になる。

 溜め息を一つ、寝泊まりしている部屋を出て屋上を目指す。


「2週間、ですか」


 2週間。雪狸がかつての生まれ故郷を目指し始めてそれだけの時間が経過していた。


 2週間の間、猛暑の昼と極寒の夜は絶えず繰り返された。1日ごとに命の気配は減っていき、今や鳥の声はおろか虫の気配すらほとんど無くなっていた。道中で夜を越すことが出来ず凍死した生き物を彼は幾つも目にした。

 反対に、生きた都市――――新生種はその勢力を急速に増大させていった。創作の世界で描かれるような度を越した摩天楼の大迷宮がいくつも立ち並び、人の痕跡も在りし日の地球も、果てには地上で繁栄していた生命すら上書きされて消えていく。


「――――ッ、冷えますね……」


 人一人いない無音の高層ビルの中、どうやって動いているかも分からないエレベーターを使い屋上へと上がる雪狸。

 扉が開いた瞬間に強風として吹き込んだ冷気は寝泊まりしていた室内の比ではなく、何の準備もなしにそこに居れば1時間を待たずして凍死体になりうるだろうと予感させるほどだった。


 見渡す限りのビル、家、その他諸々。ビルで出来た土台の上にさらにビルを積み上げていったかのような、建築家が見れば卒倒するような構造で作り上げられた

 たった2週間でそれは地表の大半を覆い尽くし、今や土で出来た地面を歩く方が珍しくなってしまっている。


「……」


 目的地は目と鼻の先のはずだが、本当に予想通りの距離で辿り着けるのかと不安が募る。この都市山脈にかつての景色が完全に飲み込まれていた時に、自分は果たして彼女に会えるのだろうかと焦燥感に駆られる。それは普段そういった人の機微を気にも留めないはずのヴィクトルが何度も声をかけ、時に強引に止めるほどに雪狸の視野を狭めていた。


「葵乃下さん……」


 雪狸にとって、その焦燥感は初めて経験するもの。とにかく体を動かしていないと不安に押しつぶされて発狂しそうになる。


 人の死を倫理マニュアル的に悼むことはある。悲しいと思うこともある。だが、そこに絶対的な線引きがあるのが雪狸という少年だった。想うことは有れど、それが彼の心を揺り動かすとまではいかない。

 育て親からの虐待は苦痛だった。だがそれは彼にとってであり、仮に彼が愛されて育ったとしても芯の部分が変わることは決して無い。

 赤の他人でも、自分を気遣ってくれたクラスメイトでも、身を案じた警官であっても、ましてや混乱に乗じて脱獄し偶然目の前に現れた育て親であっても。目の前で凄惨に死を遂げたところで、彼がそれに揺れることは無い。

 「ああ、死んだのか」と納得し、「残念だ」と悲しみ、それで終わり。彼にとって他人とはそういうもので、その程度のものだった。


 ――――だからこそ今、自身の感情に振り回されるという人生初の経験に彼はひどく戸惑っていた。初めて感じる“生きていてほしい”という情動。脳裏をよぎる“死んでいたら”という仮定への強烈な拒絶。


「嫌だ、嫌だ……」


 凍えて死んでいる姿を想像するだけで胸が苦しくなる。熱中症で倒れてる様を思い浮かべるだけで頭が痛い。建物や瓦礫で潰れる姿なんて思い描く前に吐き気と共に途切れる。今まで当たり前だったはずの冷静な思考ができない。


…………」 


 涙が滲む。声が震える。胸が詰まって喉が苦しい。それら全て、雪狸はこの2週間を経ることでようやく体験したものであり、それは常人よりもさらに深いパニックを誘発する。


「――――落ち着いて、自分の心音に意識を傾けて」

「――――」


 故に、エレベーターの駆動音にも、ましてや自身の背後に迫る気配にも全く気付けていなかった。

 雪狸の背中に手を当てたまま、ヴィクトルはなるべく穏やかな声色を意識して発する。


「いわゆる過呼吸だね。背中を叩くから、4回叩く間吸って、4回の間吐くを繰り返すんだ」

「――――ぁ」

「人死にに怯えるのは初めてかい?」

「……は、ぃ」

「だろうね。キッツイだろ」

「…………」

「何で分かるって顔してるね。簡単だ、から」


 いつものへらへらとした笑みは鳴りを潜め、見たことも無いほど真剣な顔が雪狸を射抜く。瞳に宿す色はとても怜悧で、ある種研ぎ澄まされたと言える老成したもの。


「死は苦しい。悲しい。字面だけなら簡単さ。でも、それを実感するのは案外難しい。……君は今、そこに直面している」

「……」

「その感触を忘れるな。その恐怖を飲み込むな。命のというものを刻み込むんだ。それはいつか、君が何かをする理由になる」


 少なくともこの瞬間、ヴィクトルは世界を滅ぼした怪物ではなく、子供を導く年長者だった。


 このパニック発作から立ち上がれるようになるまでおよそ2時間。その後、雪狸は何かに取り付かれたかのように一心不乱に目的地を目指した。


 新生種の版図が急速に広がったことで、直線距離と実際の移動距離は大幅にズレている。直線距離500mを進むために入り組んだ小道を進んでは上へ登り下へ降りを繰り返すこととなり、実移動距離は何倍にも膨れ上がっていた。

 方位磁石をアテにしようにも、随所で磁気を発するものが生成されているのか前触れもなく狂ってしまう。新生種が作り上げた都市の樹海は、迷えば二度と出られない迷宮の様相を呈し始めている。

 そんな状況の経路を、彼は精神的に憔悴した状態で4時間は彷徨っている。経験のない感情の噴出に襲われてから半日を心を落ち着ける暇もなく消耗し続けたのだ。


 電話越しに聞いた声を再び耳にして顔を跳ね上げ、次いで見覚えのある麦藁色の髪を目にした時、雪狸の心は決壊した。「妙なことを口走ってごめんなさい」「ずっと会いたかった」等々言いたいことは山のようにあったものの、それらすべてが漂白されて嗚咽と共に抱き付くことしかできなかった。


 ――――なお、この間ヴィクトルは最低限の支援しかしておらず、パニックを鎮めた時の様子が嘘のように傍観しながら笑っていた。端的に言ってド畜生のそれだった。


「いやぁ私が何かするより自力で踏ん切り付けた方がいいかなって。獅子は子を谷に落とすとか言うじゃん」

「やっぱ蹴り出しましょうコイツ」

「ちょっとその方がいい気がしてきたわ……」


 話を聞いていた狐珀の使用人達――――例の災禍の日に二人と共にどうにか難を逃れた――――も「ないわコイツ」と言わんばかりの顔でヴィクトルの話を聞いていた。逆に何故パニック発作の時は手を貸していたのか。


「気まぐれ☆」

「グーでいいですか」

「ステイ、お願いだからステイ」

「……この人がコレなのはいつものことなので」


 ふと横から聞こえた涙声に、狐珀と海叶の意識が集中する。先ほどまで碌な受け答えが出来なかった雪狸が、ようやく冷静な思考を取り戻しつつあった。


「ごめんなさい、色々と抑えが利かなくなって」

「いえ、それは良いのですが……疲れているでしょうし、横になった方が……」

「大丈夫、です。やっと落ち着いてきたので……」

「必要であれば寝床は用意しますから、あんまり無理はしないでくださいね、雪狸」

「あ、私の分はいいよ。夜が来てもその辺で寝るし」

「是非ともそうしてくださいまし」

「海叶」

「おっと失礼」


 狐珀と海叶からヴィクトルへの評価は下降する一方だった。コレに関してはフラットに付き合えていた雪狸が異常であっただけで、基本的にヴィクトルという男は自他共に認める気まぐれで自由奔放のクズである。

 自分が異常だと理解しているからこそわざわざ隠そうともしないし、それで人が離れようと突っぱねられようと何も思わない。


「遊んだりお話したりはまた後程ね。雪狸、動けるようなら食事の支度を手伝ってくれない?」

「まだ少しお休みいただいた方が宜しいのでは? 顔色も少々……」

「いえ、大丈夫です。それに動いている方が気も紛れますから」

「なら決まり。でもあんまり無茶しちゃ駄目よ?」

「はい」


 短く告げて首肯すると、雪狸は狐珀と共に炊事場へと歩いていく。やや広めに作られたそこでは数人の使用人があくせくと働いており、手を貸すことを二人が告げるとこれ幸いとばかりに指示を出し始めた。

 その姿を遠目で眺めながら、ヴィクトルは監視役とばかりに背後に控える海叶に言葉を掛ける。


「命令だけ出す立場かと思ってたんだけど、結構自分から色々やるんだね、あのお嬢様」

「今や家柄立場なんて有って無いようなものですから。その辺り、うちのお嬢様は柔軟な方なんです。堅苦しいのが苦手とも言いますけど」

「お転婆で手が掛かりそうだ」

「貴方への応対よりは掛かりませんよ、きっと」

「あっはっは、言えてる」


 朗らかに笑うヴィクトルと絶対零度の視線を向ける海叶。

 二人の周囲にはしばらく誰も近寄らなかった。

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焼け跡の街の異邦人 何もかんもダルい @Minestar

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