第6話

 人間、誰だって年中行事の時は気持ちが上がる。いつもと違う住み慣れた街の空気に新鮮な刺激を受ける事だろう事は言うまでもない。そういう僕だって新遠野市旧市街で毎年行われる祭りを楽しみにしている人間だし、繰り返す毎日の中で繰り返さない特別な日を特別なまま過ごしたいという気持ちだってある。無論それは祭りだけの話ではなく、兄貴の結婚式の日取りが決まった時もそうだったし、不謹慎な話だが父親や母親の葬式だって何処かいつもと違う空気を心地良いと、どうしても感じてしまうのだ。日常の中でたまに訪れる非日常に焦がれる気持ちは若さゆえだと今は許容されている。

 僕がまだ成人もしていない子供だから?

 僕が自殺をして日常が壊れた可哀想な子供だから?

「ハレとケ。まあ、ハレの日に焦がれるのは子供も大人も無いけど」

「柳田国男さんが言った日本人独特の世界観じゃな?日常の中に非日常。まあ葬式をハレとするかケガレとするかの議論もあったわけじゃが」

「地域によっては葬式の日も赤飯を炊く。だから赤飯を炊く日はハレだとされてるだろ」

「かなり強引じゃがなあ…」

 非日常全てがハレの日。

 ある意味では、非日常が総じてめでたい日だと言い換えても良い。

「でも喧嘩をハレだと考えてちゃダメだ。そんな周りに迷惑が掛かる非日常を楽しんでいるような人間姿勢は後々に大それた間違いを招く。そういう考えの持ち主は行き過ぎた躾とか過激な訓練とかも無ければ、骨も折らず傷口の縫合もした事がないような人間が多い。平和で虐待も無い日常の何に不満なのか知らないけどな?」

「理不尽と不遇が日常であった殿が言うと説得力半端無いのう…。子供の頃のお主、毎月骨を折っておったもんじゃしな…」

「僕等が暮らす工業科校舎じゃない普通科校舎の食堂は天津飯が美味い。特にグリーンピースが苦手な僕の為に食堂のおばちゃんが気を利かせてくれてグリーンピースの代わりに枝豆を使ってくれるそのサービス精神が良い。まああれだ、喧嘩に意気込む新入生ってのは歴代の生徒会が頭を悩ます難題なワケだ。なんせ神降ろしってチート使ってんだから負けない事が確約された喧嘩ならどうしたって誰でもしたいって思うだろ。いや、ここの卵の使い方はなかなかだぞ忠宗。フワフワのトロトロだ。親子丼も餡かけにすれば、もしかしたら凄い丼が出来るかもしれないぞ?モグモグ」

「喋るか食うか、問題の指摘か料理の解説か、どっちかにせい。しかし殿の言う通りじゃな。神降ろしをしておれば死ぬ事だけは無い。ヤオロズネットが式で命を固定してしまうんじゃからな。でも死ぬ程痛いという痛覚は残る。そりゃオプションで痛覚遮断プログラムもアフターマーケットに流通してはおるが、必要なメモリ量が半端無いからのう」

 日常生活の中で感じる事の無いレベルの痛みも非日常だと僕は思う。タンスの角に小指をぶつけるのが代表的なそれだが、本気で痛いのは豚カツを揚げる際に跳ねたパン粉だの熱い油だのが眼球を直撃する事だ。

 火事にならないようにIHの電源落としてから痛がるからな。

 これがホントの一人時間差。

 ほんと、揚げ物の際に水中メガネは欠かせない。

「僕、一つしか入れてないぞ?霊力内臓コンデンサの増設プログラム、凄い大食いだし」

「殿の場合、虐待が原因で痛みが非日常じゃないじゃろ?」

「まあ、骨折ったり皮膚を縫うのがケの日だったかもな」

「痛みに慣れておる人間は特別なんじゃって。それも激痛にじゃ。半端じゃない痛みはそれ自体が非日常じゃぞ?ワシも柔道を志す人間じゃから耳が潰れておるが、幾ら軟骨とは言え潰れる時は痛くて涙が出たもんじゃ」

「なら何故痛みを無くそうとする?非日常を求めてるならばだ」

「都合の良い非日常なんじゃよ、新入生が求めておるのは。一方的に攻撃をしたい、此方は無傷で居たい、新たな力を試したい、そう思ってしまうのはやはり仕方の無い事じゃて」

 今の自分がどこまで通用するのかを試したいならば。

 誰も傷付かない方法を考えるのが人間のあるべき道。

 それが出来ないならば己が未熟である何よりの証拠。

 これは剣の訓練で母ちゃんに言われていた事だ。

 でも高校一年生なんかこの前まで中学生だったんだし、バイトの経験も無いだろうし。

 未熟で当たり前だしなあ…。

 僕だって未熟だしさ。

 落ち着き過ぎてるし考え方が老けてるとは、よく言われるけど。

「しっかし、遠野物語を書いた柳田先生が今のこの新遠野市で話題になるとはなあ」

「もう遠野物語に追記してもええぐらいじゃぞ?インターネットが変異して住民の不満が爆発すると化け物が現れるようになりましたって。その化け物と戦っているのは思春期の子供達なんじゃよって。その化け物を駆除するの、すっごい大変なんじゃよ?って」

「腕とか足とか吹き飛ばされた痛みで気絶する子いるしなあ。いや、どうしようもねえけどさ?どうせ損失部位の情報の再構築だのなんだので復元するんだから、グッと下っ腹に力を入れて気合入れて耐えろって話だ」

「痛みに弱いくせに喧嘩したがるというのは確かに問題じゃなあ…」

 さて、どうすっか。

 神降ろしは新入生が考える様な程に、其処まで万能な特殊性は無い。

 そして自分が望まないような神様を宿したとしても契約解除が出来ない。

 神降ろしにクーリングオフは無いのだ、なんせ自分のトラウマに呼応した歴史そのものだ。神降ろしのクーリングオフを望む心はそのまま自分の否定に繋がる。

 それはヤオロズネットに有線で直結されたかのように。

 自己否定をそのままヤオロズネットが負の感情だと認識してしまう。

 それは祟りの発生に繋がる、負の感情だ。

 とんでもないクラスの災害みたいな、祟りの、だ。

「一度死ぬほど痛い思いをさせれば理解するとか素人さんは考えるだろうけど、死ぬ程痛い思いをしたら祟りとの戦闘に怖気づく。あんな思いをしたくないって考えるのが人間だ。彼等はまだドMこそが日本人の美学というサムライには目覚めてはいない。まだまだ自分が可愛いだけの、自分だけが世界の全てのただのガキだ。そして力を持つ者は力を持たない者の為にドMになるしかないって事を理解出来るようになるには何より社会経験だろ。だから本丸は社会に出る事の多い実習メインの実業高校なんだし」

「経験の中で徳を積む事、じゃよなあ…」

 だからこそ本丸の人間は基本的に老けているのであった。バイトで単位を貰うようなもんだし、伝統工芸科に至ってはそのバイトも完全な歩合制だ。作った作品の品質の良し悪しが給料に直結する。時給で働いているのは僕ぐらいだろう。なんせ刀鍛冶コースには注文が無いのだから。それこそ祟りとの大規模な戦闘が無い限りはだ。そうして実習を通し、社会に生きる職人だのと交流を深めて心を磨いていく。子供を預かるだけの教員とはまた違う、荒々しい若い才能の磨き方は神降ろしの成長にも繋がる。

 何より懸命に生きている大人との触れ合いは子供の僕等にとって何よりの教科書だ。

 そう、素直に思えるぐらいには僕も幾許かは磨かれたのだろう。

 まあ、大人の皆が皆、正しいとは言わないが。

「オタクの子も不良の子も、自分の世界だけで完結してるのが不味い。そして自分だけが偉い世界で生きている子は神降ろしの力も弱いんだ。信仰は確かに自分を救い支えるけれど、どの宗教も自分だけを持ち上げるようなサバイバーな教えはしていない。ラブ&ピースの十字教は自分を愛するように隣人も愛するんだよ?って言ってるし、ドM精神で開眼する仏教も自分が悟った事を広く伝える事を是としてる。要するに皆で幸せに成ろうぜ?ってのが信仰だ」

「しかし、今は多くを持つ者こそが偉い世の中じゃ。隣人を愛する、隣人に教えを説く、それは自分にとってのライバルを増やすだけだと考える者は子供だけじゃなく大人にも多いぞい?」

「勝ちてえんだろうかねえ?」

「うむ…?」

「多くを持つ事は悪い事じゃない。豊かな暮らしは余裕が生まれるし、余裕が生まれれば優しくもなれるから他者との関係も良好な物になるだろ。だけど他人が多くを持つ事を否定するのは自分だけが勝ちたいからだとしか思えんだろ。それに新入生が神降ろしを手に入れた瞬間にナンパや不良が襲われるなんてのは毎年ニュースになる春の風物詩で通過儀礼になってる。神人が一般市民を襲うのはナノマシンの活動を停止され終身刑にされると知っているのにだ。そして此処の学食の天津飯は蟹玉を使っている。これは美味いぞ?昼飯で蟹を使う学食なんか本丸普通科ぐらいだろう。此処で蟹を使うぐらいなら天ぷら蕎麦の自販機を設置しただけの工業科の学食の改善をしろって思うよな」

「いや、蟹玉はどうでも良いんじゃがな…」

 話は本筋に戻り、何故僕等が普通科校舎に居るのかと言うとそれは別に天津飯を食べに来たわけでは無い。新入生への神降ろし使用についての注意喚起キャンペーンの為だ。だからなのか学生食堂には多くの生徒が居るのに僕と忠宗が座る席の周りだけが無人の状態となっている。何がだからなのかは簡単で、僕は中身が危ない人だと思われているし忠宗は見た目がまず巨漢でハゲなので怖い。

 キャンペーンでの集客効果を狙って生徒会長と副会長が並んでやって来たというのに。

 だから僕は天津飯を半ばやけ食いにも近い心持で食しているのであった。

 僕の摂食障害は周期が在る。

 喰える時に喰っておかないと本当に点滴で栄養を摂取しなくてはならなくなるし。

「もうお前全裸になって手ぇ広げながら「生徒会は怖くないですよー?僕達は皆さんの味方ですよ?痛くしないですよー?幕府は安全で安心な優しい先輩しかいませんよー?大丈夫ですよー?怖くないですよー?曹洞宗だけどラブ&ピースを大事にしてますよー?」って叫びながら新入生や普通科の連中に突撃してったらどうだ?」

「それでは生徒会は怖くないけど変態が集まった連中だと思われるじゃろ。そもそもこの中で全裸になる必要性が全く見つからん。笑いにならずに脱ぐのは嫌じゃぞ?」

「お前鍛えて良い身体してっから脱いでも笑いになり難いんだよなあ…」

「なんか、申し訳ないぞい…」

 柔道部は例外なく見事に鍛え抜かれているので脱いでも笑いにならないのだった。本校の柔道部は気前の良い力持ちが揃うので笑いにも非常に協力的ではあるのだが、生真面目で常識人の為になかなかに使いどころの難しい連中である。

「そういや、この前カズホッチが頭カチ割ったあの柔道部員は無事か?」

「うむ。無口系美少女に強かに殴られるのは我々の業界ではご褒美です、ありがとうございました!と言っておったぞ?」

「真面目で協力的過ぎるのも問題だよな…」

「アイツ、柔道は強いんじゃぞ?じゃが頭が弱くてのう…」

 まず脳天をホルンで殴られて噴水のように血を噴きだし喜ぶ時点で常識人だと言って良いモノかどうか精神が正常なのかどうかを是非とも心配しなくてはならないのだろうが、本人が喜んでいるならば僕が気にする事では無いだろう。

 かなり笑えたし。

「神降ろしの正しい使い方は身体を張った笑いにこそなんじゃねえかと僕は最近常々思う」

「誰も嫌な思いをせんからじゃろ?」

「身体張って毎日同じような事を繰り返す日常が少しでも楽しけりゃそれで良い。誰だって毎日に飽き飽きしてんだ。不変的で無何有の田舎のケの日に飽き飽きってのは皆がそうだ。だけど飽きたからって辞める訳にもいかない。そして無何有とは言ってもその実、意外に理不尽だの不遇だの残念イベントばかりが起こる。辞める事が出来ないケの日だけど、その日常に不満を募らせたら今度は災害である祟りが発生する」

「今どきの子供、無何有なんて言葉の意味知らんぞ?まあ、殿の言う事も理解は出来るが」

 だから楽しくしようと笑いに命懸けな本丸が居る訳だが。

 正直、人を笑わせるのは才能が必要な分野だ。

 反対に人に笑われるのは簡単だけど。

「刀もそうだけど、人を斬りたくなるのは道具を試してみたいって欲求が働くからなわけだ。神降ろしを手に入れたらその超人的な力を使ってヒーローごっこをしてみたくなるって気持ちも解る。どうやって人が死んだのか、どうやって人を傷付けたのかを理路整然と考えるのは警察や探偵に任せれば良いけれど。どうしてそんな事をしたのかを考えるのはいつも民間の人間だ。まあ、動機に重きを置くのは僕のミス・マープル好きが転じてのものだけどな」

「ホームズでもポアロでもなく、マープルが殿のヒーローじゃからなあ。少しでもアガサ・クリスティーを知る者ならば当然読んでおるじゃろうが」

「英雄的な活躍をする探偵役が人生経験豊富なバアちゃんだってのが良い。そして犯行動機を正しい意味で明確にしなければ被害者と加害者の立ち位置が交錯してしまう事だってあるんだ。どうやって人を殺したかなんて重要じゃないんだよ。どうして人を殺したく思うのかを人々はもっと真面目に考えなくちゃならない。それと世の中のバアちゃんは僕等が考えているよりも多くの事に気付いているし、気付いていて尚、あえて黙っている事も知らなくちゃな?」

「世の中には、おばあちゃん子をバカにする者もおるが?」

「そんなヤツはバラバラにして一斗缶にコンクリ詰めにしてしまえ」

「おっそろしい男じゃなあ…」

 人は動機を軽視する。誰が悪いのかばかりを知りたがり、その犯人を捕まえる事で安堵する。何故その犯人はそうなってしまったのかを考えもせず。それでは不穏分子排除する事により社会の均衡を保つにしか過ぎないのだと理解しているはずなのに。それで充分だと、犯人は犯人で刑務所に行って更生すればいいのだと無関心を貫く。何故そうなったのかを解決しない限り、本当の意味での解決にはならないというのにだ。犯人が動機を独白する時は何故か断崖絶壁だという摩訶不思議な風潮があるのも、動機を知るのは最後だと思わせるのに一役買っているのかもしれない。

 どう考えても最初の問題視しなくてはならないだろうに。動機の部分を解決しないで犯人を捕まえた所で何度でも再犯を繰り返してしまう可能性は残るのだから。

「もう新入生に神降ろし使うなって言っちゃうか?」

「条件付きなら、それも先輩として言わねばならん一つの選択肢として用意しておかねばならんな」

「それか「生徒会は怖くないですよー?」って全裸アタックする為に伝統工芸科から何人か侍をピックアップしてくるか?連中、笑い取る為なら全裸になる事に躊躇しねえぞ?」

「本丸普通科は工業科と違って笑いこそが全ての判断基準という文化が無い。これに工業科の人間を怖い人達と思ってしまっておる。そしてそれは見た目だけで言うならばアタリじゃ。ワシはこのガタイじゃから当然だとして、殿は殿で相当怖がられておる」

「僕が?」

「お主、目の奥の温度が氷点下なんじゃよ。喧嘩になる前に殺されるんじゃないかと新入生が思うのも無理はないと思うぞい?そして事実、お主は人を斬る事に躊躇せんじゃろ。殿は自殺をキッカケにしてブレーキが壊れてしもうたからのう?」

「だから惰性を利用して止まるしかないんだろ。何もしないのは止まる為だ」

「電車みたいな男じゃな…」

 僕と忠宗だけ仲間外れの時間は続く。

 仲間外れで自殺した事を思い出した。

 新入生への説明というハレを終えてケに戻り、物語は進む。

 漸く。

 進んでしまう。



 旧市街の街並みで誇れるところは視界一面に広がる田圃だと僕は自信を持って言える。

 収穫の秋に風が吹けば一斉に同じ方向になびき、まるで毛の長い高級な絨毯のようで秋は黄金色の波が自分の所にまで届いて来るかのような錯覚を覚えるから。

 田植えされたばかりの初夏は田圃が小さな海となる。合鴨は小さな波に乗って海原を悠々と泳ぎまわる。稲穂の背が高くなる夏には田圃は虫の集まるコンサートステージになり、夜になれば多くの観客を楽しませる。

 神様が溢れ返る。

 そんな田舎の原風景。

 僕と御姫様は揃って下校。

 あの日以来、夕食は僕の家で皆で食べるのが日課というか習慣になってしまった幕府。

 大奥の旧市街組、つまりはお隣さんである加藤精肉店の娘と斜向かいの山内鮮魚店の娘が大量に食材を持って来るのだから作る方としては気合も入るというものだ。

 平坂の父親である理事長も、あの落ち着きのない娘が何処をほっつき歩いているのか解からないよりは康平君の御家にいたと解かる方が安心する、だそうで。

「私、旧市街大好きなんです。なんて言うか、帰国子女である私にも懐かしいって感じるんです。不思議ですよね。ずっと日本から離れて生活していたのに、こういう山と田圃と土と草木に囲まれた風景って言うのが落ち着くと言いますか。本来、東北は荒吐族が治めていた歴史からも〈アマテラス〉にとってあまり良い土地では無いはずなのに、〈アマテラス〉は絶好調と言いますか」

「モロに岩手県が荒吐族の土地だったからなあ。荒吐神が遮光器土偶で表されるのは光を遮る存在という事であり。それはつまり、太陽への反逆を意味するんだろ?」

「ですから〈アマテラス〉も本来の半分程度しか力が出ないんですけどね。土地の歴史というか文化というか。そもそも新遠野市の信仰体系は記紀神話でなく、民間で発生した民話信仰ですからねえ」

「〈アズキアライ〉を宿した人間が〈タヂカラオ〉を宿す人間をぶっ飛ばすとか、よくある話だからな。ここって」

 民話の故郷であったこの街では神様よりも妖怪の方が強く作用する。

 それでもやはり〈アマテラス〉だけは別格で、この御姫様の力は計り知れないのだった。

 半分しか力を出せないと言う事だが。正直、更にもう半分でも良いぐらいである。

 元気が良過ぎる美少女と言うのは本当に扱いに困るのだ。

「風が色んな匂いを運んできますねえ。土と草と川と山の匂いです。貴族街は花の香りと煉瓦の匂いが風に乗ってきますけど、人工的な感じがするんですよね。けれど旧市街は有りの儘の命を感じる事が出来ます。あー、日本ってこんなにも時間の流れが穏やかな国なんですねえ」

「旧市街、水綺麗だろ?」

「ん?確かに凄い澄んでますし、お魚も沢山息づいてますけど。それがどうかしましたか?」

「水が綺麗な土地には心が綺麗な人間が暮らすんだとさ。村正バアチャンが僕に話してくれた事が在ったな」

「素敵な解釈です。朗らかな村正先生が話すからこその説得力ですね」

「武器なんて、本当は要らないんだよな。人の心から負の感情が消えれば祟りだって産まれない。この自然を綺麗だって思ってくれるような優しい心の持ち主が増えれば、僕も刀を棄てて竹刀を手にして子供達に剣道を教える事が出来るようになる。祟りであっても斬るのは苦手だ。痛い思いをするより、痛い思いをさせる方がずっと痛い」

「その優し過ぎる所が会長さんの一番の魅力ですよね。顔は生活指導の先生みたいに厳しい表情を崩さないのに、すっごい動物好きですし、誰よりも痛みに敏感ですし」

 けど、僕は痛い思いをさせてしまった。

『彼女』に。

 そしてその結果、電子の海の中で一本の桜の木として『彼女』は生きている。電子の海の中に現れた古き良き日本の原風景。気が狂いそうになる程の優しさが溢れるという、誰かの何時かの思い出。その優しさは僕にとっての終わりであって、そして始まりでもあった。

 こんなにも旧市街の水は澄みきっているのに、僕の心は暗く淀んだまま。

 自分がどれだけ歪んでいるのかを浮き彫りにさせる、優しい旧市街の在り様。

 それは死刑宣告を言われ続ける感覚に似ていた。

 お前は、何処でも受け入れられないと。

 ずっと、言われているような感覚。

 だから『死にたい』は間違いなく僕の一番のお友達。

 あの日から。

 ずっと、ずっと。

「夕暮れ時の旧市街は一枚の絵画みたいですね。夕暮れの赤と夜の藍色がグラデーションになっています。それが田圃に張られた水に反射して。あー、綺麗だなー。優しいなー」

「こう、在りたいよな。下手に自分を飾るわけでなく、自然体のままで誰かに認められるような存在に。楽しい時は笑って、悲しい時は泣いて、苦しい時は助けてと叫んで。お手本みたいな聖人の皮を被るような生き方をしなくてさ。誰かの真似事をせずに、自分らしく生きるべくして生きて、その上で誰かと一緒に居られたら。それは最高の幸せだと僕は思う」

「在るべくして在る事は楽しいですからねえ」

「お前見てると僕はお前みたくなりたいって思うよ。楽しそうに本能で生きてるからね」

「私は会長さんみたいに思慮深くて優しい人になりたいですけど?」

「僕は止めとけ。見た目ワイルドでも中身マイルドだから。臆病で誰とも戦えないし」

「野生味は必要ですよぉ会長さん。目指せワイルドに草原を走り回るライオンさんです!さあ、一緒にライオンさんの物真似でもしましょーか!」

「ガ、ガオー…」

「ガオー♪ガオガオーン♪」

 僕とお姫様の夕暮れ時の畦道散歩。

 お姫様はライオンの咆哮を真似しながらクルクルと踊る。

 心の底から楽しそうに、太陽のような明るく温かな笑みを浮かべながら。

 畦道に伸びる平坂と僕の影が、地表に現れた大きな巨人のように背を伸ばす時間帯。

 機械鞘と日本刀が納められた大きなアタッシュケースを手に、トボトボと力無く歩く僕。

 ドラグノフ狙撃銃が隠されたギターケースを振り回し、キャッキャと踊る御姫様。

同じ優しい夕暮れの田舎道でも、誰に焦点を当てるかで印象はガラリと変わる。

元気な平坂を対象にこの畦道を一枚撮影すれば、それはさぞかし可愛い絵葉書になるだろう。

 今にも自殺しそうな僕を対象に一枚撮影すれば、絵葉書を見た人は鬱病になるかもしれない。

 対照的な白と黒である僕等のはずなのに、対称的な立場の僕等。

 鏡面を挟んで色が異なると言うだけで、生徒会長と副会長は形に大きな差異は無い。

 僕は平坂のようになりたいと願い。

 平坂は僕のようになりたいと願った。

 光と影。

 白と黒のコントラストは圧倒的に白が映えるもの。

 だから僕は平坂に憧れているけど、平坂のようには絶対になれない。

 ならば黒は、黒のままで良い。

 今更、白に成ろうとは思わない。

「会長さん。歩くの遅いですよ!日が暮れちゃいます!」

「お前。なんで、そんなに元気なの…?」

「だってえ。会長さんのお家で鍋パーリーじゃないですかあ。友達のお家に外泊する事が初めてですからね!キヨちゃんのお家にお泊りなんて、生徒会副会長やってて本当に良かったと実感している次第でして。私、ムチャクチャお泊りの準備してきました!」

「お姫様が外泊は確かに難しいかもなあ…」

 それは白は白で問題を抱えていると言う事。

 財界・政界で活躍する要人の御息女の中でも、一際目立つ御姫様。

 それだけ周囲の監視の目が強く、こうして自由を欲しても仕方ない事だと言えよう。

 石造りの塔に幽閉される儚いお姫様のように外壁の蔦をロープ代わりに脱走と言う事に繋がらない為にも、こうしたガス抜きは必要なのかもしれないと。

 僕は理事長の苦渋の判断を想い、あの働き過ぎのナイスミドルを心の中で労った。

 当然、僕に対して何かしらの任務は来るだろう。

 娘に近づく男の首を有無を言わさず刎ねよ、なんて。

 あの親バカの場合、普通に来そうな案件だ。

「楽しみなー♪皆で行うー♪鍋パーリー♪そしてお友達の家にー♪初めての外泊ぅー♪」

「あんま遅くまで起きてんなよ?キヨミン家、朝早いんだから」

「いつもはキヨちゃん家に寝泊まりしてる忠宗君が今日だけ会長さんの家に避難するんでしたっけ?て言うか、今日は本丸の皆さんも来てくれるんでしたよね?」

「毎月一度はこうして幼馴染も労う機会が無いとね。祟りとの戦闘はそのまま戦争だし、伝統工芸科は僕のせいで全員が僕に連なる神降ろしをしてしまってる。なら、少しでも楽しい時間を共有しないとさ」

 何より、僕が申し訳なさで潰れるから。

 月に支払われるお給料の役職手当は全部この集まりに使っている。

 生徒会長だって、立候補したわけじゃない。

 理事長が、皆が。

 僕を選んでくれたのだから。

 畦道も残すところ三割をきり、旧市街の街並みが近くに見えてきた。

 ポツポツと明かりが灯されるのは人の営み。

「ところで今回、なんのお鍋なんです?」

「五月とはいえ、今年はまだまだ雪が降る事もあるし寒い日が続く。冬の季節は燃料費で家計を圧迫するからね。負の感情が集まりやすく、発生する祟りも強力なのが多い。伝統工芸科の皆にはまだまだ踏ん張って貰わなきゃならないから。此処は猪の生姜鍋を作ろうかと考えてる」

「おお!ジャパニーズ牡丹鍋ですか!」

「いや、牡丹鍋じゃない。牡丹肉を使うけど、僕が作るのは牡丹鍋じゃないんだ。豚肉と生姜の相性が良いように、猪の肉と生姜の相性もまた良い。そして生姜と味噌の相性もまた良い。簡単に言えば、生姜をたっぷり使った大根と牡丹肉の味噌煮込みかな?」

「会長さんの事ですから、それだけじゃないんでしょ?」

「お肉を提供してくれるのがキヨミンの実家であるように、お魚を提供してくれるのはカズホッチの実家だ。魚偏に春と書いて鰆と読むように、サワラは春を代表する魚だからなあ。サワラのミソ漬けを焼いたり、サワラの酒蒸しなんかも作ろうかと考えてはいるよ。他にもバーベキューの隠れた主役に成りうるアジの一夜干しだったり、春になって禁漁期を越えたばかりのホタテやサザエなんかも喜ばれる。伝統工芸科だけじゃなくて地域の方もお招きするから、腕の振るいどころだ」

「会長さん、料理プロ級に上手ですからね…。見た目は生意気系なのに女性が苦手でシャイボーイで料理がプロ並みに上手とか。オメエどんだけ狙ってんだよぉ?って話です」

 狙ってねえよ。

 生来の物だ。

 料理だけは確かに努力したけれど。

「兄貴が料理しないからなあ。母親の作る飯は味度外視の栄養重視だったし。飲料水なんて電解質と浸透圧を考慮したなんて言ってさ?砂糖を加えた甘じょっぱい塩水だったからな。だから僕が料理を覚えたのは必然だとも言える」

 食べる点滴。

 それが母ちゃんの作る料理の蔑称。

 よく親父は離婚しなかったもんだ。

 メシマズ嫁ほど結婚生活で辛い事はあるまいに。

 だから小さな頃、僕は隠れて兄貴に美味しい物を作っては見返りにゲームを貸して貰っていた。

 しかしながら食べてくれる人がいないと、手を抜くのが料理の不思議。

 いつもは味付け海苔と納豆とごはんですよで食べている僕の食生活。

 〆は勿論、梅干しを入れた煎茶で。

「考えたら、僕自身の食事は必要最低限で質素そのものだな…」

「だから忠宗君が毎朝朝食を作りに来てくれるんじゃないです?まるで通い妻みたいに」

「ゴリマッチョの癖に女子力最高ランクだからね、アイツ」

「この前なんて、生徒会室で傷んだ会長さんの軍用ジャケットを補修してましたからね。鼻歌交じりで裁縫する巨漢の男子ってかなり怖かったです。しかもその裁縫の技術がとてつもなく繊細でありながら凄まじい速さでしてね。その女子力の高さに、「もうオメエ大奥来いよ」って言いたくなりました」

 疲れて倒れそうな身体は男友達が無理やりにでも立たせてくれる。

 叩かれて綻んだ心は女友達が優しく縫い合わせてくれる。

 そのどっちも出来る、親友・本多忠宗。

 流石、新遠野市最強のオカン系男子の異名を持ってはいない。

 食べるとなぜかホッとする料理を作る筋肉ダルマなんぞ、気持ち悪い部類に属する生物だろう。

「本丸の皆さんって異常な程に女子力が高いですよね…。裁縫も料理も完璧にこなしますし。会長さんは勿論、酒井君が作る料理なんかお店で出しても良いぐらいです。あれこれ言われる前に色々と用意が出来てる事が凄い多いですし。お金の管理も厳しくこなしますし」

「大奥の皆って異常な程に男子力が高いよね…。採取も狩猟も完璧にこなすし。キヨミンは素手で虎を殺してその肝臓を炙って食べるし。カズホッチは川の魚を生態系が狂うんじゃないかと心配になるぐらい捕まえて来るし。お前はお前で魔王級の祟りを正拳突き一発でノックアウトしちゃうんだし。本丸が大奥で大奥が本丸の方が万事上手く行くんじゃねえかって気がする」

「大奥と本丸のコミュニケーションが重要ですよね。今回の鍋パーリー、私は大奥代表ではなく幕府の一員として参加しますけど。もっともっと大奥の生徒を会長さんの家にお招きするべきです。男子禁制の大奥はそれでなくても出会いに飢えているんですから。飢え過ぎて変な物を食べる前に、素敵な男子が揃う本丸との交流を増やす事が余計な火種を増やさない事に繋がるのだと私は思いますけどね?」

「普通の田舎の兄ちゃんと、花も恥じらうお嬢様を繋げろってか?」

 僕と平坂は談笑しながら漆喰付の門をくぐり、我が家の敷地に入る。

 愛犬の豆柴が中庭からダッシュでやって来てくれた。

 既に中庭に設置されていた五右衛門風呂のような大窯にはグツグツと沸騰したお湯が張られており、その中を翻弄されるのは薄く輪切りにされた生姜と、分厚く乱切りにされた大根達。

 どうやら、先に帰っていた忠宗が用意してくれていたらしい。

 この女子力の高さには舌を巻くし、やっぱり気持ち悪くさえある。

 熾された炭の量はこれ以上火力を高めずに具材を煮込むだけの火加減に抑えられてあり、バーベキュー用の金網の下もパチパチと小気味の良い音を立てながら、紅く光る炭が今や今やと主役の登場を待っていた。野菜が玄関に乱雑に積まれているのは参加者が持ち込んだ物だろう事が伺える。

「既に飲んでいる地域の方々がいますね…」

「仕事から帰ったら即座に飲むのが田舎の贅沢だからな。取敢えず、先んじて集まってくれた皆につまみを作らなくちゃ。平坂、手伝ってくれ」

「はーい♪」

 アタッシュケースとギターケースを母屋の客間に置き、僕等は台所へと向かうのだった。

 仮初めの日常を楽しむ為に。

 それを後生大事にしていると自分に言い聞かせる為に。

 言い、聞かせるために。


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