第3話 光の正体 その1 後編

別荘に来てから夫人の夫は彼女と食事も共にしない。彼女は一人で食べていた。

夫は寝室や庭園で愛人と二人で食事をとっていた。

夫人は一人で、給餌に見守られながら一人で食事をする。もちろんこれは、愛人の小娘を殺すのに充分な罪になる。別荘で妻を一人で食事させていい理屈などない。

世間体を気にしなくていいというのは夫にとっての別荘のメリットかもしれないが、夫人にもメリットがあった。人が少ないためにセキュリティが緩くなることだ。毒見をして食事を運ぶ人間が一人だけになる。

その日の夜は寝室で食事をすることにしたようだ。女中は寝室に夕食のカートを運んでいた。都合がいいことに、二人の食事はどちらがどちらの食事か分かるように別の皿になっていた。自分が狩った鹿を愛人に食わせたいという夫の自己顕示欲が前面に押し出されたメニューだった。小娘はその期待に応えるだろう。本当に無邪気においしいですわと言うだろう。

今夜のメニューは特別においしい。

夫人は夕食を運ぶ女中を呼び止めた。「待て。それは二人の夕食か?」

「奥様」女中はも夫人への同情を隠せてなかった。「はい。そうです。今日はお二人は寝室に食事をお持ちするようにと」

「いい。気にするな」彼女は女中の戸惑いを制した。「メニューが気になってな」

「旦那さまの獲られた鹿にございます」

「ふむ」夫人はカートに近づき、どちらが女の食事か見定めた。野菜の煮込みがあって、熱々ではないので都合がいい。「ここで待っていろ。これは私が持っていく」

「え?」

女中は戸惑ったが、夫人がカートを押し始めてもその場に立ったままだった。背中で手元が女中から見えない位置まで移動すると、そこで立ち止まり瓶を取り出した。どばどばと目分量で半分を料理にふりかけた。透明で色も臭いもないことは確認済だった。

彼女は振り返り、「冗談だ。持っていけ」と言った。

女中はほっとしてまた近づいてきた。「ありがとうございます」

「二人によろしく伝えてくれ」

「は、はい」

もちろん夫人も、この女中が二人に何か伝えるわけがないと分かっていた。そんなことをすれば機嫌を損ねてしまう。それでも夫人は、女中が寝室の二人に、『奥様がよろしくとおっしゃってました』と伝言するシーンを想像して愉快な気持ちになった。

薬に即効性はなかった。その日から夫人は焦る気持ちを抑えきれず挙動不審になった。愛人の様子はどうかと見たくなったが、夫も愛人自身もなるべく夫人と会わないようにしていたので、それも難しかった。あからさまに二人の様子はどうかとか、変わった様子はなかったかと召使いたちに聞いてしまい、それも日に何度も聞くので怪しくなってしまった。

三日が経過した。瓶の残り半分を使わないでいたのは夫人の忍耐力のせいではなく、不自然すぎて食事に近づけなかったからだ。

夫人が話し相手もなく退屈をしていると、女中たちが早足で廊下を歩いていくのが見えた。彼女が期待していた光景だ。

「何かあったの?」夫人は女中の一人に尋ねた。

「それが、リスーピ様が倒られまして。様子がおかしいのですが、医者もおらず……」その目が泳いでいた。夫人と目を合わすのも恐れていた。

夫人は愛人の様子を説明するのを躊躇しているのかと思った。しかしそうではなかった。もっと純粋な恐怖だ。女中として寝室に行かなくてはいけないが、できれば行きたくないという様子だった。

「そう。大変ね」夫人はわざとそっけなくして、あとは女中が立ち去るのに任せた。

女中は廊下を歩いていく。夫人は好奇心を抑えられず、その背中を追いかけた。

二人の寝室は別荘の隅の方に位置していた。そちらから別の女中が桶をもってきていた。中に液体が入っているのが分かる運び方だ。桶の周囲に血がついて赤くなっていた。ちゃぷちゃぷと音がする。

女中は夫人に会釈をした。すれちがうときに桶の中の血が見えた。その黒っぽい血の中に蛇のような生物がいて中でうねうねと動いていた。

夫人はさすがに驚愕して、「え? それは何?」と聞いてしまった。

「あ、いえ、奥様。その、リスーピ様が吐血されまして、それが……」

「それは?」

女中はちらりと桶を見た。「それが、その、血の中に生き物が混じっております。近づいてはいけません」

夫人はこの廊下を進んで夫の愛人——元は部下の姪で、その部下に紹介された——の様子を見るべきかどうか迷った。血の中で動くうねうねした生物を見ると好奇心もしぼんでしまった。しばらく呆然と立っていた。やがて廊下の奥から女中の「きゃああ」という悲鳴が聞こえた。そこで好奇心が勝った。彼女は寝室へと進んだ。

寝室前の廊下には腰を抜かしてへたり込んでいる女中がいた。寝室の中を凝視している。

夫人が近づくと、奥様、いけません、と声をかけられた。普段、この寝室に近づこうとしたときの、奥様、いけません、とはニュアンスがまるで違った。

もちろん夫人はその制止を振り切った。軽く手でのけて中を覗いた。

愛人であるリスーピはその服を血で染めていた。床には血が広がっていたが、吐血はもう終わったらしい。なんらかの虫が皮膚の下を動いているだけでなく、肌の見える腕や頬からは、そこを破って外に出ている様子が見てとれた。ナメクジのような寄生虫だ。扁平の形をしていて体の底に口があり、皮膚の下からナメクジのように積極的に皮膚を食べながら移動をしている。皮膚以外のものには興味がないらしく、肉に噛み付いてはいない。内側から皮膚に貼り付いて皮膚だけを食べている。

「ああ、なんてことだ。リスーピ。ああ、リスーピ」夫は暴れる愛人を抑えながら、そんな表面の虫を手で落としている。半狂乱になっていた。

叩くよりで払う方がよく落ちるようで、撫でると破れた皮膚の切れ目から虫がひねり出されて床に何匹も落ちた。床の血溜まりの中に何匹も虫がうごめいている。その場で暴れているだけで、そこから次の獲物を襲うといった動作は見えなかった。

やがて夫はもこもこと動く皮膚ごと手で掴んだ。「なんだこいつは?」そしてナイフを持ってこいと命じた。皮膚を切っては中の寄生虫——地方の呼び名で『皮食いナメクジ』——を素手でつまみ出すということを繰り返した。

夫人はその光景をただ見ているだけだった。多くの女中も同様だったが、彼女も反応ができなかった。呪術師が説明した効果とは話が違うと思ったのは少し時間が経過してからのことだ。そして、最終的に呪術師の説明は間違ってなかったと彼女が理解するのはもっとあとのことだった。

一通り虫を払い終えた夫は愛人に、「もう大丈夫だ」と言った。目に涙を浮かべていた。

愛人の方はひゅーひゅーと浅い息をしていた。痛みが落ち着いた様子だった。出血がひどく、体の輪郭もよく分からない有様だった。

夫人はそこ場からそっと立ち去った。

そのあと、傷の手当てがされたが、まともにベッドで横になれない状況だった。本人は悲鳴をあげたが体を洗わないわけにはいかず、水で何度も体を流した。それから数日間、体に残った卵が孵化するとまた激痛が戻るのでそのたびに除去の処置が施された。

呪術師が説明したように、見た目の出血ほどには重傷ではなく、命に別状はなかった。皮膚のあちこちに穴が開き、虫の分泌物か何かの影響か、その皮膚の周囲が腐るようにめくれていった。そしてその状態のまま出血だけが止まった。そこでやっと横にすることができるようになった。

夫は愛人のそばでめそめそと泣いたり、急に怒って物に八つ当たりをした。

夫人は見舞いに来たフリをしてそんな夫の様子をたまに見に行った。

ある日の昼にまた夫人が見舞いに行くと、夫は相変わらず愛人のそばにいた。椅子に座ってじっと彼女のシルエットを見ている。この数日は同じ様子だ。彼女の上に何かを掛けることができないので、布を吊り下げて姿を隠している。

「様子はどう?」夫人は聞いた。

「もう喋れるようになった。体も動かせる。意識もしっかりしている」夫は言った。

その口調に不穏なものを感じた。夫人は、「そう。よかったわね」とだけ言った。

「証拠はないが、動機はお前にしかない」と夫は言った。「お前は隠しているつもりだろうが、そもそもお前がここに見舞いに来ることが不自然だ」

夫人は冷静に答えた。「確かに彼女に好意を持ってはいないわね」

「顔が笑っているんだよ」夫の声は怒気をはらんでいた。「俺はこのために金貨100枚を払ったのか」

「あれは私の薬代よ。おかげで肌もすべすべのままだわ」

夫人は椅子に座っている夫を見た。手を顔の下に組んでいる。何かを決意したときの彼の癖だった。口元は怒りで歪んでいた。歯をくいしばっている。

「言い逃れに耳を貸すつもりはない。『私がやりました』と認めれば楽に殺してやる。認めなければ、お前を彼女と同じ目に遭わせる」

夫人は堂々とその目を睨み返した。「自分は悪くないとでも言うつもり?」

夫も堂々と睨み返した。「もちろん、悪いのはお前だ。そうじゃないとでも言うつもりか?」

別荘に地下室はなかった。食料貯蔵用に半地下の倉庫があったので、そこを拡張して夫人の監禁部屋になった。

皮膚を切り裂いては焼きゴテで止血するという拷問が繰り返された。彼女が持っていた小瓶とその残り半分は見つけられなかった。

美しかったリスーピという娘はどうしようもなく醜くなった。うっかりその姿を見た女中は「ひっ」という悲鳴を抑えられなかった。顔は仮面で隠し、手も足も服で隠した。そして見た目以外の健康面には何も問題がなかった。歩くことも走ることもでき、食事にも排泄にも問題はなかった。

彼女は死を願い、夫人の夫はその願いを自らの手で叶えた。

彼女の首を締めたその足で、夫は夫人に会いに行った。鎖で巨石に縛られた夫人は全裸だった。

拘束された夫人に調子はどうだと世間話をしたあとで、彼は言った。「この手で彼女を送ったよ」

「自業自得だよ」夫人の目や口は無傷だった。火傷の処置は気をつけないと致命傷になるが、拷問官の対応は完璧だった。「お前はお前のしたことを悔いるがいい。何を間違えたかを考えるがいい。あの小娘にとっても当然の報いだ」

夫人の足元には血溜まりができている。そしてそこに鼠がたかり、きーきーと鳴いている。

夫は顔をしかめた。こいつは鼠にかじられているのか?

それに半地下で多少は明るいとはいえ、鼠たちが黄色く光っているのはどういうことだ?

「あと何年かは生かしておいてやる」夫は夫人に気圧けおされないように言った。「生きたいだけ生きていていいぞ」

「お前も生きたいだけ生きていていいぞ」夫人の迫力は何か超越していた。「死んでも死ねないようにしてやる」

半地下の監禁部屋には雨水があちこちに溜まりじめじめしていた。湿った土からは独特の腐臭が漂っていた。中の空気はまったく動いておらず、そこにいつまでも留まっていた。

地面を這い回る鼠たちにはよく見ると噛み傷がついていた。共食いで咬まれたような小さく細かい噛み傷だ。

夫は全裸の彼女へと近付いた。警戒はしておく。両手を縛られてはいるが、油断すると喉を食い千切られかねない。そのときに彼は鼠が逃げないのを不思議に思った。近くに寄り、蹴り殺せる間合いになっても逃げようとしない。こいつらはこういう距離を測り間違うことはない。一定の距離を取って遠巻きにするのが普通だ。

彼は腰のベルトを引き抜くとそれを垂らした。

「久し振りにお前の悲鳴を聞きたくなった。いい声で鳴いてくれよ」

もちろん彼女も人間だった。苦痛はどんな意思も塗り潰して頭を真っ白にする。ベルトで打ち付けられて、彼女は絶叫した。

「ははは。彼女の苦痛はこんなもんじゃないぞ!」

夢中になった夫の足首に鼠が噛み付いた。その心臓は動いていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る