第46話 新しい自分 1年生【7~8月】学side
あの『天才』が、田舎の小さな吹奏楽部で顧問をしているらしい。
そこにちょうどトランペットのコーチを兄ちゃんから打診された。
亘 奏一朗――あの人の今はたしかに気になっていた。
プロを割とあっさり諦めたと思えば、教師になってたなんて。
そんなことを考えて歩いていたら、川澄高校の校舎は目の前だった。
少し早く着きすぎたか。
生暖かい風が吹く夏休み初日、校舎の窓から覗く金管に太陽が強く反射する。
するとトランペットの高音が聞こえてきた。
校舎に足を踏み入れると、その音はどんどん鮮明になる。
ピッチがブレてる、ブレスが浅い、腹筋に力が入っていない…部室にたどり着く前に気になることがすぐに浮かんできた。
「おはようございます。早いんですね」
「あ、結城さん!おはようございます。1年の大山です。今日からよろしくお願いします」
まだ誰も来ていない部室にただひとり居たのは、俺がマンツーマンで教える大山さん。
吹奏楽の花形が1年ひとり、心許ないにも程がある。
だが、やけに真っ直ぐな目をしている。
俺はこういうタイプが嫌いだ。
あの頃の亘さん、あなたもそうだった。
「こちらこそ。学校に着いてからここに入るまで、ずっと聞こえてましたよ」
「そうでしたか…?」
「はい。俺はとても聴いていられない、そう思いましたけど」
「ですよね…練習不足です」
音大トランペット専攻だった俺が、高校生の演奏をぬるく評価するつもりはない。
俺が正直に感想を言って、それで傷ついているようではこの先伸び代なんて無いだろう。
仲良しごっこをしたければ、他に適任を探す方がいい。
「あの、結城さん。まだ時間早いかもしれないですけど…具体的にどう直したらいいか、教えてもらえませんか?」
「いや、他のやつらが来てからでも充分時間はあるだろう」
「一秒でも長く、吹いていたいんです。だから今朝も早く来ました。お願いします!」
深々と頭を下げる大山さん。
そんなことされたら、断るわけにもいかないだろ…本気でコーチするつもりなんて無かったのに。
「分かりましたよ…でも、気持ちだけでは上手くはならない。それだけは覚えておいて」
「はい!ありがとうございます!」
熱意に押されて、思わずOKしてしまった。
まぁまずは、ピッチの安定からだな。
安定した音を出し続けるには、体幹や腹筋、肺活量を鍛える身体のトレーニングが必要だ。
「じゃあまず、楽器は一旦しまってください。マッピ(マウスピースの略称)だけ出したままで」
「えぇ?!吹かないんですか?」
「上手くなりたいなら焦らない、さっきも言いましたよね。演奏の基礎はまず体力作りからですよ」
「は、はい…!」
大山さんは少し残念そうに、でも手際良く楽器をケースにしまった。
そして手に持ったマッピをじっと見つめて、大きく深呼吸をした。
「絶対、上手くなってみせます」
あぁ、この子は本当に真っ直ぐだ。
だから嫌なんだ、どうしても素直になれない俺は劣等感を感じてしまう。
その後、亘さんと兄ちゃんが来るまで基礎トレーニングのレッスンを続けた。
「あれ、学も大山も早かったんだな」
「先生、おはようございます!」
「じゃ、朝練はここまでですね」
「ん?朝練?」
不思議そうに俺を見つめる亘さん。
やっぱり、この人の目にも曇りがない。
「何でもないですよ。ただの暇つぶしです」
亘さん、俺はまだ夢を捨てたあなたを認めたくない。
だってあなたは、俺の中ではあの頃の『天才』のままなんだ。
どうしたら俺は、吹奏楽部顧問の『亘先生』を受け入れられる…?
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